第十二章 英嗣友情なのか恋なのかわからない
朝早く、忠嗣は庵を出立した。
幸はその身支度を手伝い、見送ったあと、ようやく一息ついた。
そこへ、英嗣が起きてきた。
「すっかり寝過ごしてしまいました。お恥ずかしい」
「いいえ。お師匠様が、もう少し寝かせておいてあげなさいとおっしゃっていましたから」
「そうですか。ところで、忠嗣殿はもう出立されたのですか?」
「はい」
幸が頷く。
「では、私もそろそろ帰るとしましょう」
英嗣が立ち上がろうとすると、幸が慌てて引き止めた。
「もうですか? もう少し、ゆっくりなさってください。今朝のお粥も用意してありますから」
「いや、そういうわけにも……」
「長尾と三人で一緒に朝餉をいただきましょう」
幸はそう言うと、長尾のほうを振り返った。
長尾は困ったように苦笑いを浮かべている。
「しかし……」
英嗣が言いかけると、幸は少し俯いた。
「もう、こうして三人で、あの頃のように遊んだり、ご飯を食べたりすることも、できなくなるかもしれません」
その声が、ほんの少しだけ寂しげに響いた。
「だから……今だけは」
英嗣は、幸の横顔を見つめた。
これ以上ここにいれば、別れがつらくなる。そう思って、早く帰ろうとしていたはずだった。
けれど、幸の寂しそうな顔を見ていると、どうにもその気持ちが揺らいでしまう。
「……分かりました。長尾、朝餉をいただこう」
「よろしいのですか?」
「その代わり、食べ終えたら、長尾は馬で屋敷へ戻ってくれ。誰か家の者を御所へよこすよう、手配してほしい。私はこのまま参内する」
「承知いたしました」
幸の顔が、ぱっと明るくなった。
三人は膳を並べ、向かい合うように座った。
「昔みたいに、三角に座りましょう。ほら、こうすれば、みんなの顔がよく見えるでしょう?」
幸が嬉しそうに二人を見回す。
「では、いただきます!」
三人の声が重なった。
温かい粥を口に運びながら、昔話に花が咲く。あの頃の失敗や、野山を駆け回った日のこと。話は尽きることがなかった。
けれど、楽しい時間にも終わりはある。
やがて、出仕の刻限が近づき、長尾が一足先に庵を出た。
英嗣も身支度を整え、牛車に乗ろうとした、そのときだった。
「英嗣殿!」
幸が駆け寄ってきた。
「どうしたのですか?」
英嗣が振り返る。
幸は自分の首にかけていたお守りを外すと、ためらうことなく英嗣の首にかけた。
その拍子に、幸の頬が英嗣の鼻先をかすめた。
「……っ」
英嗣は思わず息を呑んだ。
気づけば、耳まで真っ赤になっている。
「さ……幸さん?」
幸は、そんな英嗣の様子にも気づかず、真剣な眼差しで見つめた。
「英嗣殿。宮中は、本当に恐ろしいところです」
「え?」
「化け物や妖怪が出るからではありません。一番怖くて厄介なのは、人の心です。人の感情なのです」
幸は、英嗣の胸元にあるお守りを指さした。
「どうか、くれぐれも気をつけてください。そして、そのお守りは絶対に肌身離さず持っていてくださいね。絶対ですよ」
「幸さん……どうして、そこまで?」
「だって、英嗣殿はその若さで右近中将。誰もが羨むようなご身分です。それに、左大臣家のご子息でもある。妬む人がいても、何も不思議ではありません」
幸の表情が曇った。
「中には……英嗣殿が病に倒れればいいと、願う者だっているかもしれません」
「……」
英嗣は何も言わず、幸を見つめた。
「でも……」
幸は、ぎゅっと両手を握りしめた。
「私にとって英嗣殿は、たった一人の親友なのです」
その声が、かすかに震えた。
「親友を失ったら……私はこれから、どうやって生きていけばいいのでしょう……」
英嗣は、しばらく何も言えなかった。
やがて、胸元のお守りをそっと握りしめる。
「幸さん……」
そして、ふっと笑った。
「死ぬなんて、縁起でもない。私は生きて、また幸さんと吉野の桜の木の下で昼寝をしますよ」
「……本当ですか?」
「ああ。約束します」
幸は、ようやく少しだけ笑った。
「英嗣殿、どうかお気をつけて」
そう言いながら、幸は英嗣の手を握った。
そして、なかなか離そうとしなかった。
英嗣は、その細いく白い手を見つめた。
「分かりました。大丈夫です」
静かに、そう言ってから、英嗣は幸を見た。
「私は、いつでも幸さんを待っています」
ゆっくりと、幸の手を外す。
その手を離した瞬間、英嗣は自分でも気づかないほど、小さく息を吐いた。
――これ以上、ここにいてはいけない。
このまま幸の手を取って、どこかへ連れて行ってしまいたくなる。
けれど、それはできない。
幸は川のような人だ。
どこへ流れていくのかを、自分で決める。
英嗣には、その流れを止めることなどできなかった。
ただ――
流れ着いたその先に、自分がいることだけは許されるだろうか。
英嗣は何も言わず、幸に背を向けた。
英嗣は牛車に乗り込んだ。
車がゆっくりと動き出す。
幸は、その姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。
やがて牛車が遠ざかり、あたりは静けさを取り戻した。
幸は一人、庵の前に立ち尽くしていた。
なぜかさみしかった。こころのぽかりと穴が開いた感じだ
けれど、宮中に戻ったところで、自分の居場所があるとは限らない。
陰陽師としては、まだ一人前ではない。貴族の娘として生きる身でもない。誰かの家族として迎えられることもなかった。
周囲には人がいても、心から自分を受け入れてくれる場所が、どこにもないような気がしていた。
そして、そんな自分を何も問わず、昔と変わらず受け入れてくれるのが、英嗣だった。
その英嗣も、今は遠い宮中へ帰っていく。
幸は、胸元に手を当てた。
そこには、いつも身につけていたお守りがない。
――あのお守りが、英嗣殿を守ってくれますように。
そう願いながら、幸はふと、自分の首元がひどく心もとないことに気づいた。
お守りを失ったからではない。
自分の居場所だと思っていたものが、また一つ、遠くへ行ってしまったような気がしたのだ。
幸は、誰もいない庵の入り口を振り返った。
そして、胸の奥に広がる不安を抱えたまま、静かに空を見上げた。
牛車の中で、英嗣は一人、幸から渡されたお守りを握りしめていた。
まだ、幸の温もりが残っているような気がする。
ふと、あのときの幸の顔が浮かんだ。
頬がかすめた、柔らかな感触。
そして、かすかに残る幸の香り。
「……幸さん」
英嗣は、小さくつぶやいた。
左大臣家の五男とはいえ、政治を司る家に生まれた以上、自分の思いどおりに生きられるわけではない。
それは、姉たちを見ていればよく分かる。
政略によって縁組が決まり、それを当然のこととして受け入れていく姉たち。兄もまた、心から望んだわけではない相手を妻に迎え、家のために立身出世を目指している。
それが、貴族の家に生まれた者の宿命なのだ。
自分も、いずれは家のために妻を迎え、与えられた役目を果たしていくのだろう。
そう思っていた。
けれど――。
今、自分の胸に芽生え始めたこの思いは、いったい何なのだろう。
幸のことを考えると、なぜか心がうずく。
もう一度会いたい。
あの頃のように、何も気にせず一緒に笑っていたい。
これが恋というものなのだろうか。
英嗣には、まだ分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
都へ戻れば、この思いを胸の奥にしまわなければならない。
たとえ自分が望んだとしても、家や身分が許してくれるとは限らない。まして、これから先、どのような縁談が持ち上がるかも分からないのだ。
英嗣は、手の中のお守りを見つめた。
「幸さん……ありがとう」
そっと胸元にしまい込む。
「このお守りを、幸さんだと思って大切にするよ。何があっても、決して手放さない」
それは、幸への思いを忘れるための言葉ではなかった。
叶うかどうかも分からない思いを、今は誰にも知られず、自分の胸の内に留めておく。
それが、英嗣にできる精一杯のことだった。
牛車は、静かに都へと向かっていた。
英嗣は、先ほどまで幸の手が触れていた自分の手を、そっと握りしめた。
なぜ、あれほど手を離したくなかったのか。
英嗣自身にも、まだ分からなかった。
ただ、今はそれでよかった。
――英嗣もまた、恋には不器用な男であった。




