379話「赦免と不壊」
ザウルの突き立てた櫂剣は、過熱の爆心地を真っ正面から穿ち抜いた。
爆発の衝撃音が、異様な低温の奔流によって急速に呑み込まれ、沈黙していく。
櫂状の形を成した蒼氷の剣身から放たれた冷気は、これまでにザウルが見せてきた氷結の力とは明らかに一線を画していた。
膨張しようとしていた爆風、壁や天井を焼き尽くさんとしていた爆炎、そして空間の分子運動に至るまで――接触した全ての熱量を強引に強奪し、白銀の結晶へと変質させていく。
赤熱していたサダルスウドの卵殻の表面が、ジュゥゥゥ……ッという悲鳴のような水蒸気と共に瞬時に白濁し、分厚い不透明の氷の中へと閉じ込められていった。
極寒の遮断。
あらゆる命や物質が低温下において呼吸すら許されぬ――まさに静止の地獄を、その場の空間に直接体現したかのような冷凍の猛威。
後方で構えていたギエナの目元が、あまりの冷気の突風に強烈に歪んだ。
(――確かに、すげぇ技だ。"姫"にも届きうる不条理かもしれねえ。だが……!)
ギエナは苦々しく眉を寄せ、手にしていた軍刀の柄を固く握り締め直した。
ザウルの放った櫂剣は、間違いなく常軌を逸した威力を秘めていた。だが、その常識を超越した冷気の爆発的な奔流は、サダルスウドの爆風を抑え込むと同時に、発動者であるザウル自身の肉体をも容赦なく呑み込み始めていたのだ。
ビキビキビキッ!
剣を握り締めるザウルの右腕が、手首から肘、肩に至るまで、白銀の強固な氷の皮膜によってガチガチに侵食され、凍てつかされていく。
皮膚が破れ、内部の血肉までもが結晶化していく凄惨な音が、密室の中に重苦しく響き渡る。
「――っ……!」
ザウルの唇から、耐え難い激痛による呻きが漏れ出た。
平時――万全のコンディションであればいざ知らず、今のザウルはサダルスウドの大自爆が直撃し、腹部に致命傷を負った満身創痍の有様だ。
そのような死に体で、このような人知を超えた不条理な力を十全に制御し、無傷で扱い切れるはずなどない。
絶大な権能を行使した代償――それは、ザウルの肉体と命そのものへ、ダイレクトに跳ね返ってきていた。
(……しかも、それじゃあよ……!)
歯噛みするギエナの視線の先で、静かに事態は進行していた。
分厚い氷の壁の中に閉じ込められ、完全に沈黙したかに思われていたサダルスウドの異形の影。
――その凍てつかされた卵殻の深層から、まるで壊れたネジ仕掛けの玩具のように、不気味で醜悪な震えがカタカタと伝わってきたのだ。
「ぶ、ぶるるるるるふふふふぅ……! ケヒヒヒッ、まだ、まだ、割れる、弾けるゥ……!」
氷の内側から漏れ出てくる、サダルスウドの狂気と狂笑に満ちた濁声。
全身を強制的に冷却されながらも、サダルスウドの内部に渦巻く爆発のエネルギーは、消えることなく氷の下で不気味に脈動し続けていた。
「……っ、やっぱり、倒しきれねえか……!」
ギエナが苦渋に満ちた叫びを漏らす。
ザウルの剣、サダルスウドが仕掛けた渾身の自爆を、一時的に抑え込むことには見事成功した。
だが――そこまでだ。
極限の冷気の刃は、サダルスウドの肉体を一時的に停止させるに留まり、彼の命の核を破砕し、息の根を止めるには至っていなかったのだ。
あと一押し――彼を完全に討ち果たすための決定的な一撃が、どうしても足りていなかった。
――その時であった。
「――っ!」
激痛と凍結の渦中で、ザウルが首だけでゆっくりと後ろを振り返った。
乱れた髪の隙間から覗く双眸。
ザウルがギエナへと向けたその視線には、一切の迷いも、怯えも存在しなかった。ただ静かで、澄み渡るような絶対の信頼が込められていたのだ。
(……ザウル、あんた……!?)
その視線と交錯した直後、ギエナの脳裏に激震が奔った。
言葉など交わさずとも、ギエナには痛いほど理解できてしまった。
彼が何をギエナに乞うているのか。その視線が何をギエナに伝えようとしているのかを。
――彼が求めているのは、この場における、唯一の最適解。
これ以上の犠牲を出さず、"晶潮館"の崩落を防ぎ、隣室に避難させたイザールや文官たちを護り抜く、最も確実で被害を最小限に収められる方法。
頭では、冷酷なまでに理解できていた。
理解していてなお――ギエナは、その一歩を踏み出すことができなかった。
ビキ、と。
部屋の中に、耐え難い破砕音が響き渡った。
ザウルの腕を侵食していた氷の皮膜に、一筋の亀裂が入る音。
それを合図にしたかのように、氷の中で蠢くサダルスウドの不気味な運動が、急速に活発化し始めていく。
ミシ……ミシミシッ! と、ザウルが築いた氷の障壁が内側からの爆圧によって軋みを上げる。
――抑えきれなくなっているのだ。ザウルの命を賭した奥義を持ってしても、サダルスウドを留め置くには、時間が残されてはいなかった。
「……ミスタ・アルファルド」
凍る爆心地の中から、か細く、けれどどこまでも静かな声音がギエナの鼓膜へと届いた。
右腕を肩まで白銀に染め上げ、血を流しながらも、ザウルはどこまでも気障に、取り繕った微笑みを浮かべてギエナを見つめていた。
「やるんだ、あなたならできるだろう。そしてこれが正解だとも、わかっているだろう」
諭すような、静かな声。
ギエナは刀を握り締め、血が滲むほど強く歯を噛み鳴らした。
「……見くびってもらっちゃ困りやすぜ、ザウル殿。そう簡単に、あんたを見捨てて――」
仲間を見捨てて、自分だけが生き残るような真似ができるか――そう咆哮しようとしたギエナの言葉を遮るように。
ザウルはそこで、儚く、哀しく笑った。
まるで、子供が間違えた答えを優しく正すかのように。わかりきった問いに答えるかのように。
「――違う、そうじゃないさ」
「……あ? あんた、何言って……」
ギエナの思考が、一瞬だけ停止した。
ザウルは透き通るような瞳でギエナを真っ直ぐに見据え、言葉を静かに紡いだ。
「あなたは捨てるんじゃない、勝ち得るんだ。僕たちの勝利と、この街の未来をね」
ザウルのその言葉に、ギエナは暫し絶句した。
――勝ち得る。
胸の奥底を直接叩かれたかのような衝撃。
戦における勝利とは、決して無傷で手に入る綺麗なものではない。
無数の犠牲の上に立ち、血と泥を払いながら掴み取る泥臭いものだ。そして、勝ったのであれば何かを得るし、戦った以上、大切な何かを失うこともある。
故に、最終的な戦果は、生き残った者の主観的な尺度に委ねられる。
戦いを終えた者が、その失ったものと掴み取ったものを前にして――それを赦すか、あるいは赦さないか。
「――僕は"赦す"よ。ミスタ……いや、ギエナ・アルファルド」
最後の最後まで絶やさなかった気高さと、年相応な表情。
その言葉が、迷いの中に立ち尽くしていたギエナの背中を力強く押す、最後の一押しとなった。
「……ずりぃぜ、ザウル殿――」
ギエナの口から、自嘲の呟きが漏れ出た。
こんな土壇場で、そんな言葉を遺されてしまっては、断ることなど最初からできるはずもなかった。
ギエナの眼光から、一切の躊躇いと迷いが消え去った。
カチリ……と。
ギエナは手にしていた軍刀を、己の頭上――八相の構えへと静かに構え上げた。
そして、両足の筋肉だけに魔力を過剰に集中させ、脚部だけを硝子の獅子へと変成させた。
ギリギリギリ……ッ!
脚部の筋繊維が凄まじい勢いで膨らみ、光を屈折させる半透明の硝子結晶が皮膚を覆い尽くしていく。
踏みしめた石畳がクモの巣状に砕け散り、解き放たれる直前の凄まじい推進力が、ギエナの足元に収束していく。
「――だけど、しゃあねえ。持っていてやるよ。それもな」
ザウルの遺志も、この街の未来も、勝利の重みも――その全てを己の肩に背負って生きていくという、不屈の決意。
その言葉を合図に。
ギエナの体が、過熱の密室を貫く一筋の閃光と化した。
超高速の突進。
空間を切り裂く軍刀の輝きが、真っ直ぐに、どこまでも一直線に伸びていく。
その澄み渡った刃の軌道は、一切の迷いなく、氷の中に固定されたサダルスウドの首筋を正確に捉えていた。
同時。サダルスウドを拘束していたザウルの櫂剣が、限界を迎えて音を立てて粉々に砕け散った。
サダルスウドの全身から、解き放たれた爆発エネルギーが再び膨れ上がろうとする――まさに、その刹那。
サダルスウドが身体を翻し、その身を破裂させるよりも遥かに早く――。
――ギエナの一刀が、サダルスウドの首筋を貫き通していた。
「――"獅子心剣・不割不弾"……この世にゃ、壊れねえもんもあるってこった」
冷徹なギエナの言葉が、静かに響き渡る。
どれほど強烈な爆薬であろうとも、どれほど苛烈な破壊の権能であろうとも――決して折れず、決して壊れることのないものが存在する。
最期の瞬間まで、首を切り落とされたサダルスウドの顔面には、歪んだ嘲笑が醜く張り付いたままであった。
――もう、卵は弾けない。
物語の終わりに行き着いてもなお、彼が笑っていたのは救いか、あるいは。
どうあれ、静かに舞い散る氷片の中で――決着の瞬間は、驚くほど静かに訪れたのであった。
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