380話「強さの所以」-前
◆◇◆
ルーナ・ホップ=アクティアス――元の世界にいた頃の名を、月本輝夜。
彼女は、いわゆる所の天才であった。あらゆるものを与えられ、あらゆるものに愛されていた。
優れた容姿、運動能力と頭脳。そして、何一つ不自由のない家柄。
故に、彼女は齢十八にして――世界の全てに飽いていた。
――スポーツも。
幼少期から血の滲むような努力を重ね、汗と泥に塗れて練習を繰り返してきたライバルであっても、彼女が本気を出すまでもなく容易く叩きのめせてしまう。
どれほど必死に挑んでくる相手であっても、ほんの気まぐれな体のこなし一つで圧倒的な差を見せつけて終わる。
彼女にとってそれは努力が報われる美しさなどではなく、勝利の歓喜すら存在しない、ただ空虚で退屈な消化試合の連続に過ぎなかった。
――勉強も。
同世代の友人たちが頭を悩ます難問たちも、一度教科書を開いて視線を流すだけで、すべてが解き明かせてしまう。未知を探求する苦しみも、壁を乗り越える試行錯誤の喜びすらも、彼女には何一つとして与えられなかったのだ。
――恋愛も。
幾多の男たちが甘い言葉を囁き、機嫌をとろうと群がってきたが、その心の裏に潜む浅ましい欲望や虚栄心、計算高さが手に取るように透けて見えてしまい、吐き気すら覚えるほどくだらない戯れに過ぎなかった。
――この世に遍く何もかもが、彼女の思うがままに進む。
(……結局、現実なんてこんなもんだよね)
現実は、彼女にとっては温すぎた。
そうして、彼女は思うようになったのだ――。
(――ボクは、生まれる世界を間違えた)
天性の運動能力は、戦場であれば一騎当千の強者として名を上げられただろう。自らの存在を全身全霊で謳歌し、死線の中で命の火花を散らすことができたはずだ。
明晰な頭脳は、未知を切り拓き、自らの好奇心のままに全てを暴くだろう。世界の深淵に潜む謎を次々と解き明かす歓喜に震えたはずだ。
麗しき容姿は、先に挙げた頭脳と合わさり、国すらも傾けられたかもしれない。乱世の謀略の中で歴史を掌の上で弄ぶ悦びを知ったはずだ。
しかし、それら全ては彼女の生まれた平和な現代日本では、何一つとして有効に活かされはしなかった。ただの器用貧乏な優等生という小さな枠組みの中に押し込められ、退屈な日々を無為に磨り減らすしかなかったのだ。
彼女の目から見れば、周りの人間たちは皆、あまりにも滑稽な喜劇を演じている役者のようにしか見えなかった。
命を燃やして何かに打ち込むこともなく、ただ与えられたレールの上を従順に走り、適当な幸福に満足して生涯を終えていく。そんな温い世界のあり方そのものが、彼女にとっては息が詰まるほどの苦痛であり、退屈の極みであったのだ。
夜ごとに自室の窓辺から差し込む月の光を見つめながら、彼女はいつも静かに自らに問いかけていた。
なぜ、自分だけがこれほどの類稀なる才能を持ちながら、それを爆発させるための戦場も、未知も、乱世も与えられなかったのか。
その問いに対する彼女なりの回答こそが――自分の生きる世界はここではないという、確信めいた感情であった。
勿論、それだけ優れた彼女の周りには多くの人が集まった。
家族は才能溢れる彼女に、望むものを何でも買い与え。蝶よ花よと過保護に甘やかした。彼女が欲しいものは、世界中から探し求めて容易に手元へと揃えてくれた。
友人や恋人は、関係を保つためにあらゆるものを差し出した。自らのプライドも、大切な所有物も、彼女の気まぐれな視線一つで迷いなく投げ打ってみせたのだ。
教師や、その他の周囲の大人たちは、彼女の未来を疑わず、率先してその道を舗装していった。彼女が進む先にあるはずの障害や困難を、あらかじめ綺麗に取り除いて平坦にしてくれたのだった。
しかしそれでも――彼女は満たされなかった。
すべてがお膳立てされた退屈な箱庭。
自分を満足させてくれる本物の刺激も、本気で挑むべき高い壁も、命を懸けて奪い合うような情熱も、この世界にはどこにも存在しなかったのだから。
(――いつか、誰かが迎えに来る。ボクを、この退屈な世界から、もっともっと遠いところへ)
そう信じていた彼女にとって、現世は"本当の居場所"へ向かうまでの腰掛けに過ぎなかった。
どれほど贅沢な生活を送ろうと、どれほど人々から憧憬の視線を浴びようと、この温い現実世界に未練など何一つとして存在しなかった。
十八歳の誕生日を迎え、この世界で味わえる娯楽や平穏のすべてを味わい尽くしたと感じたその夜。彼女は自室の天井を見上げ、冷たく静かな月に背を向けて、一切の躊躇いなく首を吊った。
そうして、"かぐや姫"は地上を去った。
月本輝夜、十八歳最後の夜の出来事であった――。
◆◇◆
"大沸流坑"の地下空洞。立ち込める過熱の蒸気と黒煙、焦熱の残魄が空間を重苦しく支配する死闘の現場。
ルーナは、自身の炎を防ぎきったバナビーと、その背後に立つミラクと向かい合っていた。
鏡の盾によって、受け止められた魔法の炎は、未だにそ
の熱を完全に失っておらず、周囲で微かに燻っていた。
颯爽と現れた援軍。しかし、ルーナはそれを大したことだとは思わなかった。
「キャハハ! な〜んか、逆転ムード醸してるけどさぁ、死にかけが一人増えただけ、なんじゃないの〜?」
割り込んできたバナビーは、どう見ても本調子ではなかった。
全身に巻かれた包帯には血が滲み、まだ前の戦いの傷すらも、満足に塞がりきっていないようだった。
加えて、その顔色は決して良好とは言えず、血の気の引いた肌の色は、彼が満身創痍であることを表しているようだ。
「主従合わせて吹っ飛ばして欲しいんならそうするけど、悪足掻きだったらやめてよね。ボクも、暇じゃないんだからさ」
――負けるはずがない。
ルーナは確信していた。バナビー一人の参戦程度では、戦況は動かない。今にも倒れそうな盾持ちが一人と、"根源"を使い尽くしたミラク。それではもう、自分の遊び相手にすらならない。
(――"根源"の力が尽きてるなら、もう、魔法すら要らないか。こいつら二人とも、魔力を込めた単なる蹴りで十分……!)
口の端に笑みを浮かべつつ、ルーナは足に力を込めた――。
目の前で盾を構え、立ちはだかるバナビー。
だが、ルーナの目には、彼がどれほど強がろうと、その命は風前の灯火。そうとしか映っていなかった。
彼の肉体が崩壊寸前であることは明白だ。一撃、二撃と打撃を加えれば、その包帯の下の傷口は弾け飛び、自壊するように倒れ伏すだろう。
そしてその背後にいるミラクに至っては、もはや立ち上がることすらできず、息を絶え絶えに整えているだけのただの置物に過ぎない。
ルーナにとって、いま目の前にいる二人を惨殺することなど、庭の小石を蹴り飛ばすことよりも容易い戯れであった。
彼女の内に秘められた絶大な能力と、過剰な全能感。
この世界において、彼女を阻む壁など存在しないのだと、彼女自身が深く深く信じ込んでいた。
だからこそ、目の前でボロボロになりながらもミラクを守ろうとするバナビーの姿は、滑稽極まりない無駄足掻きにしか見えなかったのだ。
そうして、普段と同じように弱者を蹂躙せんと、地面を蹴ろうとした――。
――その瞬間だった。
「――ルーナ殿。あなたには、わかりますかな?」
バナビーが、不意に問いかけてきた。
「……なぁに、時間稼ぎ? 乗ったげてもいいけど、ボクは――」
「そうではありませんよ、ただ、聞きたいのです。あなたが、ご存知なのかどうか」
「……勿体ぶらないで、とっとと話しなよ。ボクの気まぐれ一つで、あなたの首は飛ぶんだからさ」
バナビーの余裕そうな声音が、僅かにルーナの神経を逆撫でした。
知らぬうちに殺気を漏らすルーナに、バナビーは問いかける。
「――先ほどの問いですよ。"姫"は物語に浸るほど強くなる。ならば、騎士の強さは何で決まるのでしょうか?」




