378話「水面を切り裂く櫂」
「……駄目だ、聞けねえな」
重く、低く、一切のつけ入る隙を与えない制止の声。
ギエナ、軍刀の柄を握り潰さんばかりに固く握り直したまま、ザウルが言葉を紡ぎ切るよりも疾く、その提案を突っぱねた。
「……どうしてだい? まだ、聞いてもいないのに……」
ザウルはどこか拍子抜けしたような、あるいは呆れたような。僅かな苦笑を孕んだ問いが薄い唇から漏れ出た。
「聞かなくてもわからぁ。あんた、自分を犠牲にしようとしてるでしょうがよ。そんなもん背負わされても、持っていけねえんだ、こっちは」
ギエナの眼光が、ザウルの瞳の奥底を鋭く射抜いていた。
戦場。命と命が削り合い、泥と血の中で人が理不尽に死んでいく苛烈な死地。
ギエナはこれまでの過酷で泥臭い旅路の中で、幾度となくその様を目にしてきていたのだ。
己の命の重さを天秤の皿からあっさりと取り払い、残されたすべての命数を他者の未来へと投げ打とうとする者――自己犠牲の悲壮な覚悟を宿した者の眼差し。
父や祖父から受け継いだ街を守るため、自分がここで捨て石となって相討ちを選べば全てが綺麗に収まる、とでも思っているのだろう。
ザウルが浮かべている気障で優雅な微笑みの真下に、それと同じ冷たい死の決意が燃え上がっていることを、ギエナの直感は見逃さなかった。
誰かを救うために、己の命を擲つ。
そんな美しい自己犠牲の遺志を遺されたところで、残された者は死ぬまでその重みに苛まれ、罪悪感を背負い続けることになる。
それを持っていかされる者の気持ちを、ギエナは骨の髄まで知っていた。
だからこそ――ギエナは、その提案を断固として拒絶したのだ。
(……とは言ったものの、手詰まりなのは事実なんだよな……。強がってみせたところで、現況が変わるわけじゃねえ)
ギエナは荒い呼吸を整えながら、冷徹に周囲の状況を分析していた。
サダルスウドの繰り出す不規則で無秩序な爆発攻撃。
その凄まじい衝撃波と過熱の熱線は、この晶潮館の強固な石造りの壁面や主要な支柱に着実かつ壊滅的なダメージを蓄積させていた。
フォーマルハウトの民が何世代にもわたって維持してきた、"晶潮館"の重厚な建築様式も、この不条理な炸薬の連打の前にはあまりにも脆い。
巨大な裂け目が天井や壁面を走り、過熱の石屑や瓦礫が雨のように激しく降り注いでいる。
加えて――サダルスウドはここで、渾身の爆発を放とうとしている。
このままここで奴が弾ければ、サダルスウドの魔力が尽きるよりも先に、この晶潮館そのものが耐えきれずに崩壊するだろう。
そうなれば――最悪の惨劇が訪れる。
隣の部屋には、ザウルが身を挺して庇い、避難させた文官たちやイザールが潜んでいる。
建物が崩壊すれば、戦闘能力を持たない文官たちやイザールは、なす術もなく大量の巨大な石材と瓦礫の下に生き埋めとなり、全滅を免れない。
(あの、デカい爆発だけはどうにかして防がなきゃいけねえ。そのためには……こうなりゃあ……ッ!)
彼は両足の筋肉に魔力を急速に注ぎ込み、再び硝子の獅子へと変じる。
ギエナの肌が光を屈折させる半透明の硝子結晶で覆われ、骨肉までもが不壊の硬度と弾性へと変わっていく。
一か八か。渾身の一撃を叩き込み、サダルスウドを、この晶潮館の壁を突き破って建物の外――可能な限り遠くの広場や空き地力任せに吹き飛ばす。爆発の余波や破片が、ここに届かないほどの遠くへ。
(――わかってらぁ、そんなにうまい話じゃねえってことくらいよ)
その作戦には、あまりにも致命的なリスクが存在していた。
遠距離からの攻撃手段を持たないギエナがサダルスウドを吹き飛ばすためには、どうしても超近接の間合いへと踏み込まざるを得ない。
全身が極めて危険な炸薬の塊と化しているサダルスウド。
その間合いへと飛び込んだ隙に、サダルスウドが爆発のタイミングを合わせて自爆したなら――踏み込んだギエナは、一巻の終わりだ。
(――へへ、ザウル殿に偉そうな説教を垂れておいて、俺自身も、結局は自己犠牲みたいな一か八かの博打しか思いつかねえとはな……。俺もヤキが回ったもんだぜ)
自嘲的な歪んだ笑みが、ギエナの唇に浮かぶ。
けれど――ギエナの頭脳は、どこまでも冷酷に、戦況を分析していた。
すでに腹部に致命的な傷を受け、意識すら失いかけているザウルが爆発を浴びれば死は免れない。
だが、比較的体力に余裕があり、硝子の装甲を纏える自分であれば――賭けにはなるが、あの自爆の直撃にギリギリで耐え抜き、生還できる可能性が残されている。
ここで体を張るべきなのは、間違いなく自分だ。
(よし……行くぜ。あとはもう、なるようになりやがれ――ッ!)
ギエナが全身の力を両脚へと集約させ、床を力任せに蹴り出そうとした――まさに、その瞬間であった。
「――駄目だよ、ミスタ・アルファルド」
凛とした、どこまでも静かな声。
ギエナの思考と初動を完全に置き去りにして、一瞬早く、空間を疾走したのは――ザウルであった。
「なっ……!? てめえ……何を……ッ!?」
まさか、あれほど重傷を負い、立ち尽くすのがやっとのはずのザウルが、自分よりも疾く突進するなど、ギエナの予測には存在しなかった。
ザウルは自分の足元を流れるような氷の滑走で凍らせ、摩擦を失わせることで、音すらなく、凄まじい推進力を生み出し、疾走する。
驚きによって、ギエナの初動が一瞬――ほんの零コンマ数秒だけ遅れた。
ギエナは慌てて踏み出し、手を伸ばして叫んだが、ザウルの背中を静止するには、到底間に合わなかった。
ザウルは乱れた髪をなびかせ、両掌を構えながら、いまにも部屋全体を巻き込んで極大の自爆を起こさんとしていたサダルスウドの目と鼻の先――その殺意の渦中へと、迷いなく真っ直ぐに突っ込んでいく。
「ケハ……ケヒヒヒヒヒヒヒッ!!」
突進してくるザウルの姿を捉えた瞬間。
不気味な"卵"の化身たるサダルスウドの顔面に、極限まで裂けた不気味で醜悪な嘲笑が浮かび上がった。
まるで――すべてが自分の手のひらの上で転がされていると言わんばかりの、歪んだ愉悦。
ザウルの指先がサダルスウドの赤熱する卵殻へと触れる――まさにその直前。
絶妙のタイミングで、サダルスウドの全身が凄絶な発光を放ち、蓄積された爆圧が一気に解き放たれる。
「――ザウルッッ!!!!」
ギエナの悲痛な絶叫が木霊する。
しかし――爆風の渦中に飛び込んだザウルは、振り返ることすらしなかった。
動じることも、怯えることもなく。
ただ、氷のように冷徹な覚悟をその瞳に宿したまま、自らの右手をすっと前方の爆炎の核へと伸ばす。
「……"氷の掌"――」
低く、けれど静かに空間を打ち揺らす重々しい声。
彼の伸ばした手先から、魂の最後の一滴まで絞り出された極大の魔力が、青白い光の結晶となって爆発の熱量を猛烈な勢いで喰らい尽くしながら収束していく。
千度を超える自爆の熱線と、ザウルの解き放つ絶対の極寒。
対極の概念がぶつかり合う爆心地の中で、収束した氷の魔力が――ひとつの美しい形へと結像していった。
それは、通常の刃を持つ剣ではない。
長く、幅広な棒状の形状。
まるで――静かな大河や湖の水面を力強く漕ぎ進めるための、櫂のような重厚で独特な輪郭を備えた、流動する蒼氷の剣。
爆炎の熱波をその蒼氷の表面で強引に受け止め、熱量を氷の結晶へと強制置換しながら。
ザウルは全身の全霊と誇りのすべてを込め、膨れ上がるサダルスウドの爆心地の中央に向けて、その櫂状の氷剣を力任せに一気に突き立てた。
「――"水面の櫂剣"ッ!!!」
白銀の一閃が走り、爆風の渦が氷の結晶となって弾け飛ぶ――!




