↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
407/411

376話「女王の雪解け」

◆◇◆


 深い、深い、漆黒の氷の底。

 あらゆる音も、光も、運動の熱量すらも遮断された絶対零度の暗無の中で、少女の意識はゆらゆらと漂っていた。


 アダーラ・シリュウ=ギルダリア。


 それが、いまの彼女に与えられた名前であり、地位であり、配役であった。


 ――けれど。


 あちらの世界からこの世界へと連れてこられてもなお、彼女の魂のありようは何一つとして変わってはいなかった。

 アダーラは、この世界に来ても一人ぼっちだった。


 彼女には、何もなかった。正しく、自分と言えるようなものが何も。


 それは単純に生前に与えられなかったからであり、この世界に来たからといって、そして、"姫"として名と地位を与えられたからといって、変わることではなかったのだ。


(わたしには、なんにもわからない。だってわたしには、なんにもないから)


 そう、彼女の魂の最奥には、何もなかった。


 正しく自分と呼べるようなものも、譲れない意志も、守りたい愛おしい記憶すらも。


 空っぽの彼女は、他者との繋がりを作ることもできないまま、孤独でいた。


 そんな彼女に――"マッチ売りの少女"は、こう囁いたのだった。



「――あなたはそれでいいのですよ、アダーラ」



 密やかな、甘く囁くような声音。


 それは、他者に怯え、空っぽの自分に戸惑っていた幼いアダーラにとって、優しく感じられた。


 ……けれど。それは、あまりにも恐ろしい、甘い毒であったのだ。


 彼女が、それ以上進ぬようにするための枷であり楔――けれど、幼いアダーラに、それを理解することなどできなかった。


「ただ、あなたは言われた通りに舞えばいい。世界はこれ、一つの舞台。あなたは役割の通りに、演じればいいのです」


「……やく、わり? えんじる?」


「ふふ、難しかったですね。大丈夫です、全て、全て、私の言うとおりにすれば――」


 唯一、アダーラに関心を持ち、恐れず接してくれた彼女の言葉は、幼いアダーラにとって唯一の指針となっていた。


(……おねえさまのいうとおりに、してきたのに)


 氷の深層で、不条理な物語の残渣が静かに崩れ落ちていく。


 いま、全身を分厚く濁った不条理の氷の皮膜で覆われ、感情も感覚すらも殺して、"閉ざし、盲いた雪の女王"となったアダーラ。

 

 その氷像の内側で、閉ざされた世界の中で、アダーラはぼんやりと思考する。


(ああ、でも、わたし、わかったの)


 彼女はここに来て、ようやく一つの真実へと辿り着いていた。


(わたしが、"こんげん"をつかえなかったのは――わたしがからっぽだから。わたしのねっこには、なんにもないからなんだ)


 ノクティアやミラクたちが解き放った、魔法の最奥の領域たる"根源"。


 それは、己の魂に眠る原罪やトラウマ、譲れぬ自己の意志と向き合い、自らの手で掴み取った者だけが扱える力。


 結局、言われたとおりでは駄目だった。


 自分で考えて、自分で願って――そのために、自分を満たさなければいけなかった。


 しかし、そのための方法を教えてくれる人も、学べる環境もなかった。だから彼女はこうして、氷の中に身を埋めることになったのだった。


(――もう、いいや。もう、つかれた。このまんま、ずーっと、ずーっとくらいままで……)


 魂の底から溢れ出る、深い、深い沈殿。


 闇の中で、一人ぼっちのまま消えていけばいい。


 誰も自分を知らず、自分も誰も知らず、冷たい現象となって消え去るのだと。


 そう、諦めて目を閉ざそうとした、その瞬間だった。




「いいから……お姉ちゃんの話を、聞きなさい――っ!!!」




 暗闇を鋭く突き破って、激しい打擊音と共に、どこからともなく聞こえてきたのは、そんな声だった。


 アダーラの凍てついた意識の奥底へと、力任せに打ち込まれてくる言葉。



 誰かが自分に呼びかけている。


 自分をただの現象や兵器としてではなく、一人の人間として力任せに呼びかけている。


「届いて……! 届いてよ……っ! 届いてよぉぉぉぉっ!!」


 ドガッ! ガンッ! と、氷の皮膜を叩きつける凄絶な衝撃。


 その衝撃のたびに、呼びかけてくる声の主の悲痛な思いが、熱となって氷の隙間から滲み込んできた。


(……もういいの、わたしはもう、このままで)


 アダーラは、閉ざしかけた心の中で弱々しく首を振った。


 自分は兵器で、空っぽで、罪を犯した怪物なのだから。このまま冷たく消えていくのが当たり前なのだと。


 けれど――外からの叫びは、一瞬たりとも止むことはなかった。


「そんな風に諦めないで……! こんな風に自分を閉ざさないで……ッ!」


 アダーラは思う。


 どうして、この声の主はこんなに、自分に声をかけてくれるのだろうかと。


 どうして、自分を見捨てないのかと。

困惑と、除けられようもない諦念に支配されながら、彼女は考える。


(なんで、どうして。どうして、おねえちゃんは――)


 アダーラの深い自問に答えるように。


 氷の壁をぶち破って、その声が、彼女の内側にまで響いてくる。



「まだあなたは……幸せがどんなものなのか……愛されることがどんなものなのか……何一つとして知らないんでしょ……!? 知らないまま終わっていいわけないじゃない……!!」



 ――その言葉に、心臓が跳ねた。

 


 ドクン――ッッ!!!!!


 小さな胸が、生まれて初めて、激しく、熱く跳ね上がった。


 愛。

 幸せ。


 そんなものはもう、すっかり忘れてしまっていた。


 温かい手で抱きしめられることも、愛おしそうに名前を呼ばれることも、一緒に笑い合うことも。かつて母からもらった思い出たちは、とっくの昔に凍てついていた。


 彼女にとって、世界はただ冷たく、痛く、辛い場所でしかなかったのだ。


 けれど――いま、目の前で血を流しながら自分を叫び続ける彼女は、自分が幸せを知らないことを、愛を知らないことを、涙を流して悔しがり、悲しんでくれている。



(――わたし、あいされて、いいの? しあわせになって、いいの?)



 諦めていたそれらが、空っぽだった彼女の体を満たしていく。


 染み渡っていく。


 冷え切っていた胸の奥底が、愛おしい温もりによって満たされていく。


 "マッチ売りの少女"が与えた甘い毒の枷が、音を立てて砕け散っていく。


 役割なんていらない。配役通りに舞わなくていい。


 自分自身の手で愛を知り、幸せを探して生きていっていいのだと、暖かな拳が、彼女の存在を根底から肯定してくれていた。



 それと同時に、暖かな熱が、彼女の全身を巡っていくのだった――。



◆◇◆

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。