376話「女王の雪解け」
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深い、深い、漆黒の氷の底。
あらゆる音も、光も、運動の熱量すらも遮断された絶対零度の暗無の中で、少女の意識はゆらゆらと漂っていた。
アダーラ・シリュウ=ギルダリア。
それが、いまの彼女に与えられた名前であり、地位であり、配役であった。
――けれど。
あちらの世界からこの世界へと連れてこられてもなお、彼女の魂のありようは何一つとして変わってはいなかった。
アダーラは、この世界に来ても一人ぼっちだった。
彼女には、何もなかった。正しく、自分と言えるようなものが何も。
それは単純に生前に与えられなかったからであり、この世界に来たからといって、そして、"姫"として名と地位を与えられたからといって、変わることではなかったのだ。
(わたしには、なんにもわからない。だってわたしには、なんにもないから)
そう、彼女の魂の最奥には、何もなかった。
正しく自分と呼べるようなものも、譲れない意志も、守りたい愛おしい記憶すらも。
空っぽの彼女は、他者との繋がりを作ることもできないまま、孤独でいた。
そんな彼女に――"マッチ売りの少女"は、こう囁いたのだった。
「――あなたはそれでいいのですよ、アダーラ」
密やかな、甘く囁くような声音。
それは、他者に怯え、空っぽの自分に戸惑っていた幼いアダーラにとって、優しく感じられた。
……けれど。それは、あまりにも恐ろしい、甘い毒であったのだ。
彼女が、それ以上進ぬようにするための枷であり楔――けれど、幼いアダーラに、それを理解することなどできなかった。
「ただ、あなたは言われた通りに舞えばいい。世界はこれ、一つの舞台。あなたは役割の通りに、演じればいいのです」
「……やく、わり? えんじる?」
「ふふ、難しかったですね。大丈夫です、全て、全て、私の言うとおりにすれば――」
唯一、アダーラに関心を持ち、恐れず接してくれた彼女の言葉は、幼いアダーラにとって唯一の指針となっていた。
(……おねえさまのいうとおりに、してきたのに)
氷の深層で、不条理な物語の残渣が静かに崩れ落ちていく。
いま、全身を分厚く濁った不条理の氷の皮膜で覆われ、感情も感覚すらも殺して、"閉ざし、盲いた雪の女王"となったアダーラ。
その氷像の内側で、閉ざされた世界の中で、アダーラはぼんやりと思考する。
(ああ、でも、わたし、わかったの)
彼女はここに来て、ようやく一つの真実へと辿り着いていた。
(わたしが、"こんげん"をつかえなかったのは――わたしがからっぽだから。わたしのねっこには、なんにもないからなんだ)
ノクティアやミラクたちが解き放った、魔法の最奥の領域たる"根源"。
それは、己の魂に眠る原罪やトラウマ、譲れぬ自己の意志と向き合い、自らの手で掴み取った者だけが扱える力。
結局、言われたとおりでは駄目だった。
自分で考えて、自分で願って――そのために、自分を満たさなければいけなかった。
しかし、そのための方法を教えてくれる人も、学べる環境もなかった。だから彼女はこうして、氷の中に身を埋めることになったのだった。
(――もう、いいや。もう、つかれた。このまんま、ずーっと、ずーっとくらいままで……)
魂の底から溢れ出る、深い、深い沈殿。
闇の中で、一人ぼっちのまま消えていけばいい。
誰も自分を知らず、自分も誰も知らず、冷たい現象となって消え去るのだと。
そう、諦めて目を閉ざそうとした、その瞬間だった。
「いいから……お姉ちゃんの話を、聞きなさい――っ!!!」
暗闇を鋭く突き破って、激しい打擊音と共に、どこからともなく聞こえてきたのは、そんな声だった。
アダーラの凍てついた意識の奥底へと、力任せに打ち込まれてくる言葉。
誰かが自分に呼びかけている。
自分をただの現象や兵器としてではなく、一人の人間として力任せに呼びかけている。
「届いて……! 届いてよ……っ! 届いてよぉぉぉぉっ!!」
ドガッ! ガンッ! と、氷の皮膜を叩きつける凄絶な衝撃。
その衝撃のたびに、呼びかけてくる声の主の悲痛な思いが、熱となって氷の隙間から滲み込んできた。
(……もういいの、わたしはもう、このままで)
アダーラは、閉ざしかけた心の中で弱々しく首を振った。
自分は兵器で、空っぽで、罪を犯した怪物なのだから。このまま冷たく消えていくのが当たり前なのだと。
けれど――外からの叫びは、一瞬たりとも止むことはなかった。
「そんな風に諦めないで……! こんな風に自分を閉ざさないで……ッ!」
アダーラは思う。
どうして、この声の主はこんなに、自分に声をかけてくれるのだろうかと。
どうして、自分を見捨てないのかと。
困惑と、除けられようもない諦念に支配されながら、彼女は考える。
(なんで、どうして。どうして、おねえちゃんは――)
アダーラの深い自問に答えるように。
氷の壁をぶち破って、その声が、彼女の内側にまで響いてくる。
「まだあなたは……幸せがどんなものなのか……愛されることがどんなものなのか……何一つとして知らないんでしょ……!? 知らないまま終わっていいわけないじゃない……!!」
――その言葉に、心臓が跳ねた。
ドクン――ッッ!!!!!
小さな胸が、生まれて初めて、激しく、熱く跳ね上がった。
愛。
幸せ。
そんなものはもう、すっかり忘れてしまっていた。
温かい手で抱きしめられることも、愛おしそうに名前を呼ばれることも、一緒に笑い合うことも。かつて母からもらった思い出たちは、とっくの昔に凍てついていた。
彼女にとって、世界はただ冷たく、痛く、辛い場所でしかなかったのだ。
けれど――いま、目の前で血を流しながら自分を叫び続ける彼女は、自分が幸せを知らないことを、愛を知らないことを、涙を流して悔しがり、悲しんでくれている。
(――わたし、あいされて、いいの? しあわせになって、いいの?)
諦めていたそれらが、空っぽだった彼女の体を満たしていく。
染み渡っていく。
冷え切っていた胸の奥底が、愛おしい温もりによって満たされていく。
"マッチ売りの少女"が与えた甘い毒の枷が、音を立てて砕け散っていく。
役割なんていらない。配役通りに舞わなくていい。
自分自身の手で愛を知り、幸せを探して生きていっていいのだと、暖かな拳が、彼女の存在を根底から肯定してくれていた。
それと同時に、暖かな熱が、彼女の全身を巡っていくのだった――。
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