375話「氷の横顔」-後
私の翼から放たれた熱線は、アダーラの氷の爪を打ち砕き、彼女の体を呑み込もうとしていた。
幾千度の溶融硝子。
それがアダーラの体表を覆う氷の皮膜へと到達し、亀裂を走らせていく。
このまま押し切れば――私の硝子は、アダーラを破砕し、彼女の抱える『雪の女王』の物語に致命的な損傷を与えられる。
それが、戦いとしての正解。正しい判断。
目の前の危険な侵略兵器を排除し、フォーマルハウトの平穏を守るための、最も確実で安全な道筋であるはずだった。
――けれど。
私の脳裏に焼き付いて離れなかったのは、あの見知らぬ裏路地の景色。
冷たい母の氷像の横で、悲しく涙を凍らせて死んでいった、幼いアダーラの悲壮な面影。
何一つとして温もりを知らず、愛を知らず、世界を呪うことすらできずに狂い果てて死んでいく。
そんな惨めな末路を辿らせることが――私にできるわけがなかった。
「――やっぱ、無理っ!」
私は叫び、大きく目を見開いた。
そして、深く重ね合わせていた左右の硝子の翼を、力任せに左右へと開いた。
同時、アダーラを呑み込もうとしていた幾千度の光条が、一瞬にして拡散し、弾け飛ぶ光の粒となって霧散していく。
「できるわけないじゃん、そんなの! だってあなた、こんなに……救われたがってる!」
確かに、アダーラは取り返しのつかない罪を犯した。
ガーランドの地を血で染め、ディバルド大公を殺し、幾百もの騎士たちの命を理不尽に奪い去った。
その罪は、消え去ることはない。
だからこそ――ここで死んで逃げるなんて、絶対に許されないのだ。
生きて、背負った罪と正面から向き合い、一生をかけて償わなければならない。
殺してしまった人々の数よりも遥かに多くの人を救い、苦しみ、泥を舐め、泥臭く生き泥みながら――その先に、自分の命が存在した真の意味や、生まれてきた喜びを自らの手で見出していくのだ。
あちらの世界で妹を救えなかった私が、運命に狂わされた少女を目の前にして、ただ見殺しにするなんて真似は――できなかった。
(だって、それを教えてあげるのは――お姉ちゃんの役割、でしょ……!?)
胸の奥底で、不屈の炎がゴオッと狂おしく燃え上がった。
私が熱線を解き放つのを止めた直後、それまで力任せに押し返されていた、漆黒の冷気が、溜め込まれていた反動かのように、怒濤の勢いを以って押し寄せてきた。
視界のすべてが、極寒の暴風によって覆い尽くされる。
普通であれば、一歩退いて魔法で障壁を展開しなければ、肉体ごと凍てつかされて粉々に砕け散ってしまう死の領域。
けれど――私は一歩も退かなかった。
「はぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
私は覚悟の咆哮を上げると、背中に生やした硝子の翼を前へ向けて力強くはためかせた。
そして、押し寄せる絶対零度の冷気の津波を真っ正面から切り裂き、その渦中――冷気の中心に佇むアダーラへ向かって、全力で突進した。
ガギギギギギギギッッッッ!!!!!
全身を襲う、暴力的なまでの寒さ。
空気中の水分どころか、空間の熱量そのものが完全に停止させられた死の空間。
私の皮膚が瞬時に白濁し、指先から手首、腕に至るまで、骨の髄まで凍りつかせるような痛みが全身の神経を突き刺した。
その感覚に手が悴み、ガクガクと激しく震え、意識が暗転しそうになる。
けれど――"根源"の熱が、私の体を駆け巡り、冷え切った指先を俄かに、けれど力強く温め直してくれた。
冷気の嵐を強引に突き破り、私はついにアダーラの至近距離へと肉薄した。
目の前に佇む――"閉ざし、盲いた雪の女王"。
全身を不透明の氷の皮膜で覆われ、顔面すらも目も鼻も口もない白無垢の如き氷の塊と化したアダーラ。
私が至近距離まで踏み込み、その凍てついた肩へと手を触れさせてもなお、彼女はまるで無機質な石像か氷像であるかのように、微動だにすることすら無かった。
ただ、周囲の命を等しく凍てつかせる現象として、そこに固定されているだけ。
「お願い……! アダーラ! 止まって……! ここで終わりにして!!」
私は悴む手を伸ばし、彼女の氷の肩を掴みながら必死に叫んだ。
けれど――私の叫びは、彼女の心には届かなかった。
全ての感情を閉ざし、世界との繋がりを完全に遮断してしまった今の彼女には、私の声も、言葉も、存在すらも知覚できていなかったのだ。
目の前の動かない氷の仮面を見つめながら、私の胸の中に激しい苛立ちと愛おしさが同時にこみ上げてきた。
分かっている。届かない理由なんて、痛いほど分かっているのだ。
彼女の心が拒絶しているのではない。
彼女の肉体と精神を冷たく包み込み、世界から切り離している――この不気味な氷の皮膜が、私の声を、温もりを遮断してしまっているのだと。
(これが……この子を閉じ込めているんだ……ッ!)
視界が涙で歪む。
「この……わからず屋ッ!!」
私は喉が千切れるほどの叫びを叩きつけた。
「いいから……お姉ちゃんの話を、聞きなさい――っ!!!」
私は右拳を天高く振り上げた。
魔力など込められていない、ただの、生身の拳。
私は振り上げた右拳を、アダーラの顔面を覆う不気味な氷の仮面へ向けて、力任せに打ち下ろした。
バギィン! と重い衝撃音が反響する。
もはや、私の頭の中から敵と戦っているという感覚は、綺麗さっぱりと抜け落ちていた。
いま目の前にいるのは、撃破すべき帝国の侵略者などではない。
悲しい過去に囚われ、自分の中に閉じこもり、泣きながら世界を拒絶している――ただの一人の小さな女の子。
あちらの世界で妹を、時に叱り、時に抱きしめた時のように。
私は振り上げた拳を何度も、何度も、何度もアダーラの氷の皮膜へと打ち据え続けた。
「届いて……! 届いてよ……っ! 届いてよぉぉぉぉっ!!」
一回打ち下ろすたびに、私の手首に強烈な反動が跳ね返ってくる。
魔法の氷は、生身の拳で容易く破壊できるほど柔らかくはなかった。
「そんな風に諦めないで……! こんな風に自分を閉ざさないで……ッ!」
拳を叩きつけるたび、私自身の魂の叫びが口から漏れ出る。
「まだあなたは……幸せがどんなものなのか……愛されることがどんなものなのか……何一つとして知らないんでしょ……!? 知らないまま終わっていいわけないじゃない……!!」
何度も、何度も、狂ったようにアダーラの氷の仮面を叩き続ける私の拳。
ついに、私の右手の皮膚が激しく破れて裂け、鮮やかな朱色の鮮血が空中へと舞い散った。
打ち下ろされる拳から吹き飛んだ私の鮮血は、アダーラの放つ漆黒の冷気に触れ、瞬時に空中で凍てつかされた。
赤く透き通る、幾百、幾千の小さな赤い粒。
舞い散ったそれは、まるで赤い宝石の雨のように空中を彩り、そのままアダーラの無機質な氷の仮面の表面へと、不規則に貼り付いていった。
白い不条理の氷の仮面に、私の朱色の血の粒が散りばめられていく。
けれど――アダーラは、それでも揺るがなかった。
顔面を血の粒で染められながらも、彼女は姿勢を一切崩さず、周囲へと冷気を容赦なく吹き荒らし続けていた。
ガギギギギギギギッッッッ!!!!!
アダーラの全身から溢れ出る冷気の波が、私の肉体をどこまでも深く侵食していく。
何度も拳を叩きつけたことで、私の右腕の骨は激しく軋み、筋肉は傷み、激痛と極寒によって急速に腕の感覚が失われていった。
視界が暗くなり、頭がクラクラと激しく揺れる。全身の体温が冷気に奪われ、心臓の鼓動すらもゆっくりと遅くなっていくのが解る。
(あ……ダメ……力が入らない……っ)
何度も打ち下ろしていた私の両腕から、急速に力が抜け落ちていく。
魔力を使い果たし、肉体も限界を迎え、指先一つ動かせなくなる間際。
私の叫びなど、虚しい足掻きに過ぎなかったのかという絶望が、私の胸をかすめかけた――。
まさに、直後のことだった。
ピシリ――……。
静まり返った周囲に、あまりにも微かな、けれど鮮烈な破砕音が響き渡った。
「――え……?」
私が霞む目を凝らして見つめた、視界の先。
アダーラの顔面を覆う不条理の氷の皮膜――その中央に。
一筋の、極めて小さな亀裂が、静かに、けれど確実に走り抜けていたのだった――!




