375話「氷の横顔」-前
『――さむいよ……おかあさん』
「―――――っ!?」
突然。
脳髄を直接揺さぶるかのような、声が、私の頭の中に直接響き渡ったのだ。
激しい爆音と熱風の渦の中、耳から入ってきた音声ではない。私自身の魂の深層、意識の奥底へと、直接滑り込んできた悲壮で切ない言葉。
それは、弱々しく震える、幼い少女の声であった。
今まで一度として聴いたことのない声。
けれど――私は本能的に、それが誰の声であるかを、疑う余地もなく理解していた。
(……これは、アダーラの声……!? どうして、私の頭の中に……!?)
困惑に揺れた、その直後。
私の視界を覆っていた白熱する瑠璃色の光条と、アダーラの漆黒の冷気の交錯が――ほんの一瞬、消え去る。
――そして、不意に、見知らぬ景色が私の脳内になだれ込んできた。
そこは、"大沸流坑"の地底空洞でもなければ、水上都市の街並みでもなかった。
灰色の重苦しい雲が天を隙間なく覆い尽くし、鼻を刺すような極寒の風が吹き荒れる、どこか冷たく寂れた古びた街。
赤錆びた煙突が並び、古びた黒ずんだ石畳と、煤けた煉瓦造りの建物がどこまでも連なる異国の風景。
空から絶え間なく降り注ぐのは、大粒の真っ白な雪であった。
その街の狭い影――吹雪を凌ぐための薄暗い裏路地の片隅に、二つの小さな影が不自然に蹲っていた。
ボロ布のような薄い布きれを幾重にも羽織り、互いの体を寄せ合うようにして丸まる、幼い少女と一人の女性。
――恐らくは母と子。
女性の顔立ちは酷く痩せこけており、唇は青紫に引きつり、雪を避けるようにして小さな少女を己の腕の中で強く抱きしめていた。
だが……その女性の身体は、すでにピクリとも動くことはなかった。
体温は失われ、皮膚は凍てつき、雪の白さに染まりながら――まるで、細工師が造り上げた、儚くも美しい氷像のように静まり返っていた。
そんな動かなくなった母親の冷たい胸元で、幼い少女が必死にその頬を擦り寄せていた。
『ねえ……おかあさん……? おきてよ、おかあさん……。さむくないように……わたし、もっとギューってしてあげるから……』
吐き出される息は白く、寒さに震える小さな手で、少女は母親の固く凍りついた衣服を揺さぶり続けていた。
けれど――母親から、返事が返ってくることは二度となかった。
死体となった母の顔には、死の瞬間に浮かべたのであろう、愛しい我が子を気遣う優しい微笑みだけが、そのまま凍りついて残されていた。
自分が抱きしめている母親がすでに息絶えていることすら理解できず、寒さに怯え、母の温もりを求めて、手を必死に握り締め、声をかけ続けていたのだ。
『おかあさん……さむいよ……。おなかすいたよ……。ねえ……おかあさん……っ』
降り注ぐ白雪が、少女の小さな頭や肩の上へ、容赦なく降り積もっていく。
母を呼ぶ少女の瞳から溢れ出た一滴の涙すらも、頬を伝う途中で冷たい風に打たれ、薄氷の粒となってカチリと凍りついて零れ落ちた。
やがて――少女の震えも少しずつ小さくなり、その視線から生命の光が失われていく。
絶望と極寒に包まれたまま、雪の中に伏せていく小さな横顔。
(……私は、この景色を知らない……。こんな悲しい場所に行ったことなんてない……)
私の胸の中に、猛烈な動揺と混乱が広がっていく。
私自身のものではない、誰かの記憶。
そこで、私は――ひとつの恐ろしい不条理の真実に辿り着いたのだ。
(……そうか……。"根源"と"歪み"……!)
"根源"の魔法。そして、己の人間性を代償として捧げた"歪み"の魔法。
それは、どちらも己の魂の最奥に眠る力や、宿した原罪や過去のトラウマを剥き出しにして世界へとぶつけるものだ。
いま、私とアダーラは、互いのすべてを賭けて、魔力を限界までぶつけ合っている。
その衝突面において、私とアダーラとの剥き出しの心――あるいは、魂と呼べるものが直接干渉し合い、交感してしまっていたのだ。
(――これは……アダーラの記憶?)
彼女が『雪の女王』の物語を纏うに至った、その根底に存在する、あまりにも酷で凄絶な過去。
激しい魔力の打撃音が、私の鼓膜を打つ。
視界の中では、依然として私の放つ瑠璃色の光条と、アダーラの漆黒の冷気が熾烈な拮抗を繰り広げ、互いを喰らい合っていた。
しかし――私の頭の中からは、あの裏路地の光景が、アダーラの幼い横顔が、消え去ってくれない。
動かぬ母の氷像。
必死にそれを揺さぶり続ける、震える小さな手。
そして、二人を隠すようにして無情に降り積み続ける雪――。
絶望と極寒に包まれたまま、涙すらも凍りついて、薄氷の中で生命の火を消していこうとしていた少女の横顔。
その悲しき横顔が――私の脳裏の中で、決定的な誰かの面影と重なり合った。
(――ちはる……!)
私の胸が、激痛と共に跳ね上がった。
あちらの世界で、私がついに救うことができなかった――最愛の妹。
死の直前、必死に手を伸ばし、それでも届かなかった、妹の顔。
分かっている。頭では分かっているのだ。
目の前にいるアダーラは、私の妹などではない。
彼女はガーランドを襲い、ディバルド大公を殺し、騎士たちの命を奪った帝国の凶悪な侵略者であり、私たちが倒さなければならない敵なのだから。
それなのに――。
同じくらいの年回りの少女が、何一つとして報われることもなく、寒さと絶望の中で命を散らしていくその様は――私の中の決して消え去ることのない記憶を激しく揺さぶらずにはいられなかった。
(……このまま打ち砕くのが、正解なの……?)
翼に注ぎ込む魔力の勢いが、ほんの僅かに躊躇いを見せた。
(何一つとして幸せを知らず、温もりも知らず……ただただ寒さに怯え、世界を呪って狂ってしまったこの子を……このまま、終わらせていいの……!?)
葛藤が、私の魂を引き裂いていく。
"姫"にも、死は訪れる。
それは、彼女たちが背負う物語の完結を意味していた。
かつて、このフォーマルハウトを鏡の迷宮に閉じ込めようとした"目覚めなかったアリス・リデル"。
彼女は私とミラクの共闘によって敗北し、長き夢から目覚めることで、その物語に静かに幕を下ろした。
また、私自身は直接その最期を目撃したわけではないけれど――"どろけてしまった赤ずきん"と呼ばれていた彼女、アンタレス。
彼女はガーランドにおいて、アルトとの一騎打ちの果て、まるで憑き物が落ちたかのように穏やかな顔を取り戻し、その物語を完結させて消えていったのだと聞いている。
物語に狂わされた"姫"たちは、形は違えど、皆、結末を迎えて世界から去っていく。
けれど――いま、目の前にいるアダーラに対し、私の放つ硝子の熱線が、彼女の物語を綺麗に完結させてあげられる保証など、どこにもなかった。
私の翼が、アダーラの"歪み"を打ち破った時。
そこに待っている可能性は、残酷なまでに二通りしかなかったのだ。
ひとつ目。
『雪の女王』の物語を終わらせるには至らず、不条理の呪縛に囚われたまま、彼女は全身を幾千度の硝子で焼き焦がされ、生きながらにその傷と痛みに苦しみ続けるという最悪の末路。
ふたつ目。
物語が完結したとして――何一つとして愛を知らず、何一つとして幸せを知らぬまま、ただの兵器として苦しんだ末に、この世界から永遠に退場させられるという虚しい終わり。
(……どちらにしても……あまりにも……あまりにも救いがないじゃない……っ!)
頬を、熱い涙が伝う。
敵を倒すための力が、ただ相手を苦しめ、悲惨な死を与えるだけの暴力になってしまうのではないかという恐ろしさ。
――けれど。
(――それでも……! やらなきゃいけないの!)
私は血を吐くような思いで涙を拭い、迷いを振り払う。
迷ってはいけない。躊躇ってはいけないのだ。
私には、背負うべきものがある。
私を信じて戦ってくれている仲間たち。
無念のまま命を落としたディバルド大公や、ガーランドの騎士たちの誇り。
そして、このフォーマルハウトの街で、平穏を守るために命を懸けている市民や兵士たちの未来。
私がここで日和り、攻撃の手を緩めれば――アダーラは地上へ上がり、より多くの人々を殺すだろう。
私には、引き下がる選択肢など、最初から残されてはいなかったのだ。
(私が……終わらせる……! アダーラ……私が、あなたのすべてを背負って……ッ!)
翼が凄絶な発光を放ち、収束された瑠璃色の流動熱線が、さらに数倍の太さと熱量となって膨れ上がった。




