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374話「放たれた灼熱」

 先ほどまで過熱蒸気が配管から噴き出し、皮膚を焼き焦がすほどの重苦しい熱気が渦巻いていた巨大な空間は、いまや異様極まる漆黒の極寒が支配しつつあった。


 視界の先。立ち込める冷気を力任せに押し開くようにして、ゆったりと歩み出てくる一つの影。


 アダーラ。


 だが――そこに佇んでいたのは、もはや私が知る、美麗な彼女の姿ではなかった。


 全身を隙間なく覆い尽くしているのは、光を微塵も通さない、分厚く濁った氷の皮膜。


 かつて風になびいていた美しい白銀の髪も、宝石を溶かしたかのような碧眼も、幼い鼻筋も唇も――そのすべてが、分厚く凍てついた氷の真下へと完全に隠されてしまっていた。


 顔面を覆う氷の滑らかな表面には、目も、鼻も、耳すらも存在しない。


 まるで、造形される途中で捨てられた白無垢の石膏像か、あるいは一切の感情と知覚を遮断した無機質な氷の仮面。




 ――"閉ざし、盲(アダーラ・)いた雪の女王(ディストーション)"。




 宿した物語の領域を超え、己の人間性のすべてを代償として捧げることで手に入れた、悲しき"歪んだ"姿。


 カツン……ズズズ……ッ。


 一歩。アダーラが脚を踏み出すごとに、彼女の足元から惨烈な冷気が放射状に拡散していく。


 湿った石畳がクモの巣状に凍てつき、高熱を帯びて赤く明滅していた鋼鉄製の配管が、噴き出していた蒸気ごと一瞬で白濁した氷の柱へと変質し、砕け散った。


 彼女は、もはや私へ向かって攻撃を仕掛けようとすらしていなかった。


 ただ、あらかじめ決められた運命に従うかのように、真っ直ぐに歩を進め続けているだけ。


 けれど――ただそれだけで十分だった。


 彼女が踏み出し、通過するだけで、周囲のあらゆる物質は運動の熱量を強引に奪われ、悲鳴を上げる隙すら与えられずに死へと引きずり込まれていく。


 それは、もはや意志を持った生命体ではない。


 まるで、世界を等しく凍てつかせる氷結という現象そのものが、人間の輪郭を模して徘徊しているかのような、異様な光景だった。


「――"歪み"……! ここまでの力を……発揮するものなの……!?」


 私は自身の背中に生やした硝子の翼を強く羽ばたかせ、足元から押し寄せる氷結の侵食から間一髪で身を躍らせて頭上へ退避した。


 喉の奥から漏れたのは、抑えきれない戦慄の息。


 私はこれまで、数々の"姫"たちと戦ってきた。


 物語を纏い、常識外れの権能を振るう彼女たちの威圧感を、私は誰よりも知っているつもりだった。


 だが――物語の理すら超えて己の人間性を破砕し、完全に狂い果てて"歪み"へと堕ちた"姫"の姿を目の当たりにしたのは、これが初めてのことだった。


 ゆったりとした、恐ろしいほどに一定の足取りで歩を進め続けるアダーラ。


 顔面を氷で閉ざされ、一切の声を発することもなく、ただ周囲を氷の死地へと変えていく哀れな怪物の姿。


 迫り来る絶対の冷気を前にして、私の胸の中に沸き上がってきたのは――不倶戴天の敵に対する激しい敵意や憎悪などではなかった。


 私の胸を締め付けたのは、あまりにも重く、切ない憐れみの情であった。


(……分かってる……。アダーラは、紛れもない私たちの敵だ……)


 脳裏に消え上がってくるのは、あのガーランドの地での惨劇。


 ディバルド大公の命を無惨に奪い、幾十、幾百ものガーランドの騎士たちを冷酷に惨殺した、許されざる帝国の侵略兵器。


 彼女の手は、取り返しのつかない血と惨劇で汚れている。どのような言い訳をもっても、犯した罪が消え去ることはない。彼女を叩き潰すことこそが、散っていった騎士たちへの義務なのだと、頭では分かっている。


 ……けれど。それでも。


(こんな末期を辿るの……? それが……"姫"の宿命だと言うの……!?)


 見た目は、大人びた美しい成人女性に見えても、アダーラの精神(こころ)は、ほんの幼い子供のそれなのだ。


 温かい家庭や親の愛を知ることもなく、善悪の区別すらつかぬまま、帝国の歪んだ野望のために兵器として洗脳され、利用され。


 最後は己の物語すら保てなくなり、絶望の末に人間性を捨て去って、こんな感情すら持たない化物となって果てる。


 そんな終わり方、あまりにも惨めすぎる。あまりにも、救いがなさすぎる。


(――駄目。そんなの、絶対に駄目……!!)


 私は強く両唇を噛み締め、両拳を血が滲むほど固く握り締めた。


(いくら許せない敵だからって……絶対に許されない殺戮者だからって……こんな惨めな終わり方が認められるわけない……!)


 罪には罰を。けれど、その魂に届くのは、冷酷な破壊であってはならない。


 世界に歪められた可哀想な少女を――これ以上、この醜い狂気の中で苦しませないために。


「――仕留める……! ここで、確実に……!」


 私は宙で大きく身を躍らせ、背中の硝子の翼を前方の空間へと大きく展開した。


 私の体内を駆け巡る全魔力を、硝子の翼へと注ぎ込む。


 不快な高周波の駆動音が空間を打ち揺らし、透明であったはずの硝子の翼が、内側から千度、数千度を超える熱量を注ぎ込まれて、真っ赤な蓮華の如く凄絶に発光し始めた。


 翼の周囲の大気が過熱によって歪み、ボイラー室内に残されていた僅かな蒸気が、私の展開した魔力の渦へと引き寄せられていく。


「――っ!」


 過負荷(オーバードライブ)によって、私の全身の皮膚と血管が激しい軋みを上げ、焼き切れるような激痛が走る。


 身体が内側から焼き尽くされそうな感覚。


 けれど――私は一ミリたりとも魔力の収束を緩めなかった。


(これ以上……あの子を……アダーラを苦しめさせないためにも……!)


 私は空中で身体を深く前傾させると、左右に広げていた巨大な硝子の翼を、胸の前でピタリと重ね合わせるようにして深く交差させた。


 重ね合わされた両翼の隙間――そこに形成されるのは、極限まで収束・圧縮された、流動する硝子の魔力。


 赤熱する硝子の粒子が、超高密度に圧縮され、幾千度の純粋な熱量へと変質していく。


 アダーラが撒き散らす漆黒の冷気と、私が練り上げる千度の熱量が衝突し、大気がバリバリと激しい火花を散らし始めた。


 私は、全身全霊、文字通り魂のすべてを込めて、高らかに叫ぶ。



「――苦しまずに逝きなさいッ! "瑠璃の(ヴィトリス・)聖熱線(プロミネンス)"―――ッ!!!」



 天地を破砕するほどの、絶大な熱波が放たれる。


 胸の前で重ね合わされた両翼の隙間から、一筋の光が解き放たれた。


 それは、単なる火炎でも、物理的な熱線でもない。千度を超える溶融硝子――まるで夕暮れの空と深い海が溶け合ったかのような、美しくも禍々しい瑠璃色の流動光条。


 極限まで収束された熱線は、解き放たれた直後、"大沸流坑"を一直線に切り裂いて疾走した。


 アダーラが全身から放つ漆黒の冷気の層が、瑠璃色の光条の通過によって紙のように容易く破砕され、瞬時に蒸発していく。


 空間の分子運動を停止させる冷気と、あらゆる分子を強制的に運動・溶融させる熱線。


 対極の概念を秘めた二つの不条理が、真っ向から激突する。


 アダーラの無機質な氷の体が、初めてわずかな反応を見せた。


 顔面を氷で覆われた彼女は、差し伸ばされた瑠璃色の光条に対し、その氷の皮膜に覆われた両腕を突き出し、冷気の爪をもって、真っ正面からその硝子の奔流を力任せに掴みかかったのだ。


 ガギィィィィィンッ! パリパリパリッ!


 接触面から弾け飛ぶ、白濁した氷の砕片と、赤熱する瑠璃色の硝子粒。


 アダーラが放つ惨烈な冷気が、私の解き放った光条の威力を強引に殺し、相殺しようと狂ったように冷気を注ぎ込んでくる。


 大気が悲鳴を上げ、焦熱と極寒の冷気が渦となって周囲の壁面を削り取っていく。


 激しい拮抗。


 アダーラの抱える力は、あまりにも絶大だった。


 人間性を捨て去り、狂気に身を委ねたことで得た冷気は、私の放った熱線を、その不気味な氷の爪でガチリと受け止め、一歩も退かずに耐え忍んでいるのだ。


 私の両翼に、激しく軋む音が奔る。

 視界が赤く染まり、血の味が口中に広がる。


 ――けれど。私は一歩も退かない。


「――押し通す……! 私の熱は……こんな程度で……!!」


 私を支えるのは、携えた意志。仲間を守り、死んでいった者たちの無念を背負い、そして何より、目の前で苦しむアダーラを解放する――ただそれだけの想いが、熱量を上げていく。


 幾千度の溶融硝子が、ついにアダーラの不条理な冷気の爪を少しずつ、けれど確実に熱で侵食し、圧倒し始めていく。


 それはアダーラの氷を少しずつ押し込み、彼女の肉体へと向かって確実に迫っていた――!



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