373話「龍の息と尽きる源」-後
魂の最奥から引き出していた"根源"の魔力は、いまや完全に枯渇し、その輝きは失われていた。
全身が焼き切れそうなほどの過負荷。指一本動かすことすら困難なほどの倦怠感と激痛が、彼女の華奢な体躯を容赦なく打ちのめしている。
――けれど。
ミラクは諦めなかった。血塗られた唇を噛み締め、最後の力を振り絞って、滑り落ちるように後方へと大きく飛び退く。
そして、途切れかけた意識を歯を食いしばって強引に繋ぎ止め、残された魔力を限界まで絞り出した。
「……っ! "七人の虚人"!!」
悲壮な叫び。
ミラクの輪郭が揺らぎ、白銀の粒子と共に、数体の分身が、前方の空間へと滑り込むように展開された。
分身たちは、手にした盾を重ね合わせ、迫り来るルーナとの間を遮るように立ち塞がる。
だが、ルーナは、その分身たちの展開を目にした瞬間、喉を鳴らして心底楽しそうに笑った。
「あはっ……あははははっ! 今さらそんなので、ボクに届くわけないじゃんかぁッ!」
嘲笑。
ルーナは首元のチョーカー――"龍の首の玉"へ向けて軽やかに指先を這わせると、顎をほんの僅かに持ち上げた。
再び解き放たれる龍の息。
大気を一瞬で蒸発させ、屈折すら歪ませる熱光線が、一閃を描いて空間を薙ぎ払った。
ミラクが最後の力を振り絞って展開した"七人の虚人"たちは、光条の熱波がかすめた直後、僅かな抵抗許されず焼き尽くされ、爆砕・消失していった。
ドサッ……!
血を吐きながら、ミラクはついに支えを失い、湿った石畳の上へと崩れ落ちるように倒れ伏した。
龍の息が過ぎ去った後、残った熱が、白煙と共に漂う。
ミラクは地面に突伏したまま、浅い息を繰り返した。
全身の感覚が麻痺し、指先ひとつ動かすことができない。扱いきれない魔力によって引き裂かれた肉体は、崩壊寸前であった。
そんなミラクの無残な姿を見下ろしながら、ルーナは優然とした足取りで歩み寄ってくる。
「ねえ、わかったでしょ〜? ミ、ラ、クちゃん」
頭をゆらゆらと揺らしながら、ルーナは呆れたように肩をすくめて見せた。
「自分の物語の研鑽をやめて、"根源"――あっちの世界の自分なんかに頼った奴が、ボクに勝てるわけないじゃんか。ボクとミラクちゃんの力は似てるけどさぁ……それでも、これだけの差があるんだよ」
勝ち誇る捕食者の言葉。
迫りくる敗北を前に、それでもミラクの頭脳は、決して思考を停止させてはいなかった。
(――"姫"の力の多寡は……物語に浸れているかどうかで決まる……。であれば……)
あらゆる運命を、理不尽な破滅を打ち破る"白雪姫"として、まだ、前を見つめ続けようとする。
自らの物語の理の中に完全に浸り切り、その力を縦横無尽に行使するルーナと、物語の力に限界を感じ、"根源"に手を伸ばしたミラク。
真逆にも思える二人に、相似な部分などあるだろうか――?
(……そうか……わかったわ……。そりゃあ……勝てるわけないわよ……)
ふっ、と。
ミラクの薄い唇から、弱々しく、自嘲的な笑みが漏れ出た。
("根源"の力だって……使いこなせるわけもないわ……。だって……私は――)
ミラクが浮かべた、自嘲の笑み。
悠然と歩み寄ってきていたルーナは、倒れ伏すミラクの顔に刻まれたその笑みを視界に捉えると、瞳を細め、酷薄に嗤った。
「……あれ、あれ、あれえええ? ミラクちゃん、諦めてんのぉ?」
大袈裟に両手を広げ、憐れむようなポーズを取るルーナ。
「ま、仕方ないかぁ! 所詮、上っ面だけの"姫"だもんねぇ」
ルーナはそう吐き捨てると、再び自身の首元へと手をあてがった。
キィィィィィンッ!
首元に装着されていたチョーカーの"珠"が、蒼白い光の粒子となって解け散り、"火鼠の皮衣"――赤黒い毛皮のマントとして再顕現した。
同時に、ルーナの周囲の大気が凄まじい密度の炎熱を孕み、赤熱が空間を歪め始める。
「んじゃ、終わりにしてあげる。ボクってば優しいからさぁ……もっとキミがお人形さんの気持ちがわかるように……こんがり焼いてあげるねぇッ!」
ルーナの狂気に満ちた叫びと共に、毛皮のマントから放たれる焦熱が、一点へと収束を開始する。
頬を焼き、髪を焦がすほどの恐ろしい熱波。
しかし――その直死の熱を真っ正面から浴びながらも、ミラクは動くことができなかった。
指先に命じても、脱力し切った手足は、まるで自分のものではない、他人の肉体であるかのように冷たく冷え固まっている。
奇しくも――それは。
かつて、ドイツの古い病院のベッドの上で、病魔に冒され、自由を奪われ、白磁の人形たちに見下ろされながら死を待つだけだった、あの幼き日の絶望的な感覚に、酷いほどよく似ていた。
(……私……こんなところで……)
悔しさに、涙を流す。
だが――白雪の少女の魂は、決して折れてなどいなかった。
ミラクは最後の死力を絞り出し、重い首をゆっくりと持ち上げた。
そして、その双眸を限界まで強く血走らせ、迫り来るルーナの姿を、目一杯の殺意と誇りを込めて睨みつけたのだ。
最後の一秒まで。
"鏡を砕いた白雪姫"は、一度たりとも膝を折り、運命に屈することなどしなかった。
「んじゃ、ばーいばーい! って、"姫"だからそう簡単に死なないか、ぎゃははッ!」
下品な笑い声と共に、ルーナが火鼠の皮衣を豪快に翻した。
骨まで一瞬で焼き尽くす、紅蓮の炎が、動けぬミラクへと向かって一直線に殺到する――!
「なるほど、"姫"の強さは、そうして決まるのですな――」
死の渦が、ミラクの視界を真っ赤に染め上げた――まさに、その瞬間だった。
「――ならば、騎士の強さが何で決まるか、ご存知ですかな?」
凛として、どこまでも重厚な男の声音が、轟炎を打ち破って響き渡った。
破滅の炎の渦と、倒れ伏すミラクとの間のわずかな空間。
そこに、銀色の眩い閃光と共に、一人の男が突如として割り込んできたのだ。
ドォォォォォォォンッッッッ!!!!!!!!
凄絶な衝突音。
ミラクの視界を覆ったのは――あちこちに痛々しい包帯を巻き、全身に血を滲ませながらも、仁王立ちで立ちはだかる、大きな、とても大きな後ろ姿であった。
バギバギバギッ! と吹き荒れる火鼠の轟炎。
男は手に抱えた鏡の盾を地面に突き立て、炎を真っ向から受け止める。
千度を超える炎が盾の表面を叩き、激しい火の粉と爆風が十方へと散っていった。
しかし――男の掲げた盾の背後、ミラクの元へは、たった一粒の火の粉すらも届くことはなかった。
"鉄壁"――正しくその名に、一切の相違なき完全なる守護の壁。
「……はあ? あんた……蹴り倒したはずじゃなかったっけ〜? お、じ、さ、ま」
炎の向こう側から、ルーナの不快そうな声が響く。
両腕の皮膚を焼け焦がし、包帯を血で染めながらも、その男は力強く、そして低く落ち着いた渋いバリトンで静かに答えた。
「――なんの。一度で折れていては、戦場になど立てませんよ」
――勇将、"鉄壁"のバナビー。
倒れたはずの男は、折れず、曲がらず、正しくその異名を表すかのような堂々とした姿で、そこに立っていた。
バナビーは手に握った巨大な盾を豪快に一振りし、表面に残っていた炎の最後の一吹きを、まるで払いのけるかのように一瞬で散らしてみせた。
「……ば、バナビー……! あなた、どうして……!」
「……遅くなりましたな、ミラク様。しばし、夢を見ておりまして」
散り行く火の粉の中で、バナビーはゆっくりと振り返った。
その全身には、未だにルーナとの激戦によって刻まれた凄惨な傷跡が痛々しく残されていた。
肌は焼け焦げ、あちこちに挫傷と打撲の痕が残る。まさしく、立っていること自体が奇跡のような満身創痍の体躯。
けれど――その顔に浮かんでいたのは、怯えでも疲弊でもなく、一人の騎士としての気高く、温もりに満ちた穏やかな微笑みであった。
バナビーは倒れ伏すミラクの前に、その巨躯をゆっくりと屈めた。
そして、血と煤に汚れた無骨で大きな右手を、優しく、けれど絶対に折れることのない確信を込めて、ミラクへ向けてすっと差し伸べたのだ。
「さあ――ミラク様。まだ、立てるでしょう。あなたは……強い子ですから」
「……バナ……ビー……っ」
ミラクの視界がじわりと歪み、そのままポロポロと零れ落ちる。
不屈の象徴。
どれほど強力な不条理な攻撃を浴びようとも、どれほど肉体が傷つこうとも、背負うべき主君と仲間の前に立ち続け、決して折れることのない"鉄壁"の騎士。
バナビーの手から伝わってくる、温かく、確かな人間の温もり。
ミラクの絶望に塗れていた胸の奥底で、途切れかけていた冷たい炎が、再び力強く息吹き始めた。
自嘲でもなく、諦念でもなく。
自分を信じて背中を守り続けてくれる仲間たちのために、もう一度だけ、己の足で立ち上がるという不屈の意志。
それが、ミラクの胸を温めていく――!
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