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371話「球体関節人形(ビスクドール)」

◆◇◆



「――恐らく、根治は絶望的でしょう」



 白衣を着た医師の、酷く冷淡な声。


 幼いミリアムにとって、その言葉の持つ真の意味を、すぐには理解することができなかった。


 ドイツの古い街並みが残るローア・アム・マインの病院。


 無機質な消毒液の匂いが鼻腔を突き、窓の外からはマイン川の穏やかなせせらぎと、季節外れの冷たい風が吹いていた。


 小児急性リンパ性白血病。


 わずか三歳か四歳の頃に発症し、彼女の幼い人生の大半を奪い去った恐ろしい病。


 首の静脈から太いチューブを叩き込まれ、骨髄に太い針を刺され、吐瀉物と血を戻しながら絶叫した日々。白血球の数値に一喜一憂し、骨が軋むほどの投与治療の苦痛に耐え抜き、ようやく一度は寛解の二文字を手にしたはずだった。


 地獄のような治療の日々から解放され、ようやく自宅の部屋で父親の作る人形を撫でることができるのだと、幼いミリアムは信じて疑わなかったのだ。


 けれど――病の魔の手は、ミリアムの小さな身体を離してはいなかった。


「大丈夫だ……きっと治るさ。なあ、ミリアム」


「ええ、一度は落ち着いたんだもの。今度だって絶対に……」


 病室のベッドの脇で、震える手でミリアムの痩せた肩を抱きしめる両親。


 父親の唇は青ざめ、母親の瞳からは涙が溢れ出していた。


 幼い彼女は、両親が口にするその気休めに、何の価値も意味もないことを子供ながらに悟っていた。


 一度目の寛解の時、医師たちがどれほど神に感謝し、胸を撫で下ろしていたか。


 そして今、その医師たちがどんな顔をして目を伏せ、首を横に振っていたか。


 言葉などなくても、幼い少女の鋭い感性は、己の肉体に再び巣食った不条理な死の足音を正確に聞き取っていたのだ。


 父がミリアムの寂しさを紛らわせようと持ち込んだ、白磁の美しい肌を持つ人形たち。


 それらは傷一つなく、変わらぬ永遠の美しさを保ったまま、ガラスの瞳で病床のミリアムを見つめ返していた。


 鏡を見るたび、髪が抜け落ち、肌が土色に痩せこけていく自分の醜い姿。


 それに対し、決して年老いず、病に冒されず、完璧な美を誇るビスクドールたち。


 永遠の美を持つ人形と、醜く朽ち果てていく幼い自分。


 球体関節人形たちに囲まれた病室の静寂の中で、ミリアムはただ一人、窓の外の灰色の空を見つめながら、胸の底で繰り返すのだった。



(――どうして、私は生まれてきたの……?)




◆◇◆


◆◇◆


 ――"大沸流坑"の重苦しい暗がりの中。


 全魔力を解き放つミラクは、胸の奥底で燻るものを感じていた。


 あの幼き日の病室で、白磁の人形たちに見下ろされながら味わった、底なしの絶望と諦念。


 それらが、全身の回路を通じて、冷たい、けれど狂おしいほど激しい熱となってミラクの身体を駆け巡っていた。


 熱はミラクの華奢な脚から、足元の石畳へと向かって勢いよく流れ出していく。


 パリパリパリ……と、足元の石畳が一瞬にして飲み込まれ、白銀の繊細な結晶模様が十方へと爆発的に侵食・拡散していく。


 だが――そこに起きた現象は、単なる氷結や魔力の放出などではなかった。


(これが私の全身全霊……! 私の……"根源"……ッ!)


 地面へと伝っていった冷たい魔力。


 それが空間そのものと溶け合うと同時に――ミラクの意識の中に、異様極まる感覚の変容が巻き起こった。


 まるで、自分という存在の感覚、触覚、視覚が、空間全域へと何重にも、何百重にも多重複製(コピー)されていくような感覚。


 これまで彼女が操ってきた"七人の虚人"――あれは、ミラク自身の魔力を切り分けて造り出した、純粋な分身に過ぎなかった。


 しかし、いま地面から、生み出されようとしている"それら"は、従来の"虚人"とは根本から異なっていた。


 もっと暗く。


 もっと歪で。


 そして何よりも――生ある者すべてを押し潰すほどに、悍ましく惨烈な憎悪の塊。



「――絶望の中で踊りなさい。私と同じ……痛みを孕んで……!」



 ミラクの群青の双眸が、冷酷な光を宿して可憐に細められた。


 その静かな言葉に応じるかのように。


 ガラガラガラガラ……ギチギチギチギチッッッッ!!!!!


 "大沸流坑"の全域から、不快極まる磁器(セラミック)と関節の軋み音が響き渡り始めた。


 石畳の亀裂から、高熱のボイラー配管の陰から、そして空気中の白銀の空間歪みから。


 白磁の美しい肌を持ち、しかしその関節部分は球体状に歪に連結された――無数の球体関節人形(ビスクドール)たちが、ギョロリと硝子の瞳を一斉に巡らせた。


 その硝子の瞳が向けられた先。


 そこに佇む"かぐや姫"ルーナへ。


 あるいは、誰なんて関係なく、この場に存在するすべての命ある者を憎悪し、呪い、引きずり降ろそうとするかのように。


 影が、無数に、無数に、無数に、無数に――立ち上がっていく。


 ミラクは静かに右手を掲げ、覚醒の宣告を世界へと叩きつけた。




「――"怨嗟の白人(シュネー・ビスク)形・開幕(・アウフタクト)"!!!」




 その言葉と同時に、立ち上がった無数の球体関節人形たちが、一斉に動き始めた。


 カチカチカチカチ……ッ!


 一体一体の人形が放つ魔力の質量――それは驚くべきことに、ミラクがこれまで展開していた"七人の虚人"と同等、"姫"に匹敵する。


 しかし、何より恐ろしいのは――その圧倒的な"数"であった。


 十体、二十体――三十、五十!


 空間の歪みから次々と産み落とされる白磁の人形たちは、留まることを知らずその数を加速度的に増やし続け、まるで白い津波となってルーナへと向かって殺到していったのだ。


 不気味な関節の音を響かせ、無表情な磁器の顔を並べ、白銀の長剣や鋭利な磁器の爪を振り上げて迫る白磁の軍勢。


 その異様な光景と、押し寄せる白い絶望に――さしもの"かぐや姫"ルーナの顔面も、激しい衝撃に引きつった。


「――なんっ……だよ……これぇっ!?」


 ルーナの口から、驚愕の叫びが漏れ出た。


 本来であれば、ルーナの立体機動と脚力をもってすれば、人形の群れなど一蹴できるはずであった。


 実際、ルーナは迫り来る三体のビスクドールへ向けて、渾身の蹴撃を放ち、その頭部と胸郭を豪快に蹴り飛ばした。


 バギィィィンッ! ガシャァァンッ!


 磁器の頭部が派手に砕け散り、胴体が木端微塵に粉砕されて石畳の上へと四散する。



 ――しかし。



 かつての"七人の虚人"であれば、一定以上のダメージを与えればそのまま消滅していた。


 だが――この人形たちは違う。


 頭部を砕かれ、首から上が完全に失われたビスクドールが、何事もなかったかのように立ち上がり、そのまま爪を立ててルーナの首元へと飛びかかってくる。


 機構的に行動不能にならない限り、どれほど肉体が破壊されようとも攻撃行動を一切停止させない冷酷無比な殺戮人形。


 それだけに留まらない。


 脚部を切り飛ばされて動けなくなった人形に対し、隣にいた別のビスクドールが自らの脚部パーツをカチリと球体関節から取り外し、瞬時に欠損した人形へと移植・接合してみせたのだ。


 腕が破砕されれば、後ろから迫る別のビスクドールの腕パーツを強引に奪い取って自分の肩へと嵌め込む。


 白磁の球体関節(パーツ)を互いに無限に交換・結合し合いながら、欠損を瞬時に補い、何事もなかったかのように再生・進化を遂げて押し寄せてくる不条理な永久機関。


 ガガガガガッ! カチカチカチッ!


 壊しても壊しても、パーツを組み替えて何度でも蘇り、しかもその総数は減るどころか加速度的に増え続けていく。


「っ……あ……っ!?」


 初めて。


 捕食者として常に圧倒的な高みから相手を弄んできた"かぐや姫"ルーナの瞳に――隠しきれない焦燥と恐怖の色が浮かんできた。


 跳び上がって上空へと逃げようにも、天井の配管や梁の上にはすでに無数のビスクドールたちが待ち構えており、逃げ場などどこにも存在しない。


 力任せに蹴り散らそうにも、どれほど脚を振り抜こうとも、無数に押し寄せる白磁の波の前には、砂浜に波を打ちつけるような虚しさしか残らなかった。


 一歩、また一歩。


 白磁の人形たちの群れに足首を掴まれ、長剣で着衣を切り裂かれ、ルーナはついにその圧倒的な物量によって泥沼の中へと押し込まれていく。


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