370話「"割れて戻らぬ卵"」
「――あ、はぁ……!」
サダルスウドの口から、空気を引き裂くような掠れた吸気音が漏れ出た。
その直後、夜の闇を溶かし込んだかのような彼の瞳が、目を見開くと同時に網膜の端々に至るまで惨烈な血走りを見せ始めた。
黒目の周囲が赤く染まり、人間のものとは思えない狂熱と不気味な充血が、彼の可憐な顔立ちを醜く歪ませていく。
ズズズズズズ……ッ!
空気の密度が急速に跳ね上がり、不快な高周波の摩擦音が大気を震わせ始めた。
サダルスウドの小柄な体躯の中央――その胸元へと、周囲の魔力が全方位から吸い込まれ、極限まで凝縮されていく。
収束し、圧縮され、熱量を極限まで高めていく不条理の塊。
相手の攻撃に備え、"硝子の獅子"へと変じていたギエナの全身から、猛烈な冷や汗が噴き出した。
(――こいつは……まさかッ!)
知っている。ギエナはこの禍々しい魔力の収束の不気味さを、痛烈な記憶と共に覚えている。
かつての、フォーマルハウトの最初の開戦時。
追い詰められたサダルスウドが、己の全身の不条理を暴走させ、周囲のすべてを巻き込んで死へと追いやろうとした最後の大技――自爆の前兆。
あの時は、"姫"たるノクティアが間一髪でその場へ滑り込み、サダルスウドの身体ごと空間を密閉・封印することで、破滅の爆発をどうにか未然に防ぎ切ることができたのだ。
しかし――いま、この場にノクティアはいない。
そして背後には、避難しきれていない生身の警備兵たちや文官たち、イザールが残されている。
もしも、ここでサダルスウドの自爆を許してしまえば、少なくともこの大会議場は吹き飛ばされ――魔法の力を持たぬものは、爆炎の露と消えてしまうだろう。
(自爆させんのは……絶対にマズいッ!)
ギエナは前方を鋭く睨み据えたまま、一度も振り返ることなく、胸の底から野太い叫びを叩きつけた。
「――ザウルっ!!!!」
その一言に、全ての意図が込められていた。
この土壇場において、サダルスウドの体内から膨れ上がる全方位の爆発エネルギーを抑え込んで停止させ得る魔法――。
それは、ザウルの振るう"氷の掌"以外に存在しなかった。
「ああ……わかっているともッ!」
ギエナの絶叫に対し、背後に立つザウルの凛とした返答が即座に返された。
ザウルは両手を前方へと突き出した。彼の全身から、これまでにないほど怒濤の勢いで、氷結の魔力が解き放たれる。
ガギギギギギギギッッッッ!!!!!
大会議場内に残されていた僅かな水分、過熱蒸気の残煙、そして空間を漂う粉塵の粒子が一瞬にして氷結。
ザウルの両掌から放たれた冷気は、空中を滑走しながら膨張し、幾重にも重なる白銀の冷気の枝へと姿を変えて伸びて行った。
それはさながら、極寒の深森に生い茂る巨大な古木の枝葉のようでもあり。
あるいは、空間そのものの分子構造が悲鳴を上げて破砕されていく、クモの巣状の惨烈なヒビのようにも見えた。
サダルスウドの体内から膨れ上がる、自爆のエネルギー。
それを外側から丸ごと包み込み、分子の運動そのものを停止させて凍土へと沈めるための、ザウルが放つ渾身の凍結術式。
ザウルは、己の魂の全てを込めてその技名を高らかに宣言する。
「行くぞ……喰らえッ! "氷の掌・樹氷"――ッ!!」
白銀の樹氷の枝が、大気を切り裂いて一直線に疾走する。
サダルスウドの華奢な胸元へと、ザウルの解き放った冷気の枝の先端が接触し、全てを凍てつかせようとした――まさにその瞬間であった。
「――なあんて……思っちゃったぁ?」
裂けたオルゴールのような、凶悪で軽薄な少年の嘲笑が、至近距離から響き渡った。
「――っ!?」
ドガァァァァァァァァッッッッ!!!!!!!!
天地がひっくり返るほどの、破滅の重音。
ザウルの渾身の一撃が直撃する寸前。
サダルスウドは体内に集圧していた膨大な爆発のエネルギーを、熟成しきる前に自ら強引に破裂・炸裂させたのだ。
結果として、爆発の規模は小さくなったものの――一手、先んじられてしまう。
熱気と衝撃波の津波が、八方へと爆発的に吹き荒れた。
大会議場の頑丈な石造りの天井が粉砕されて豪快に崩れ落ち、残されていた巨大な円卓が木端微塵に破砕されて四散する。
腕を前方に交差させ、踏ん張りを利かせていたギエナの体すらも、その圧倒的な爆圧の直撃を受けて、と床面を滑らされ、後方へと強引に吹き飛ばされた。
(――クソっ、間に合わなかった……ッ!)
ギエナは硝子の爪を石畳の隙間に深く突き立て、全身の筋肉をギチギチと軋ませながら、どうにか完全な滑落を阻止した。
"姫"が全開で放つ一撃にも匹敵する、あまりにも凶悪な爆発の威力。
ただその場で耐え忍び、吹き荒れる過熱の爆風と石片の暴風から身を守ることだけで、ギエナの思考と肉体は完全に一杯一杯であった。
崩落と破砕の音が何秒もにわたって響き渡り、やがて大会議場の中央を覆い尽くしていた猛烈な黒煙と白煙が、ゆっくりと薄れ始めていった。
シュー……シュー……。
立ち込める硝煙の向こう側、悲鳴すら途絶えた惨状の中で、ギエナは前脚の爪を地面から引き抜くと、喉を激しく開いて大声で叫んだ。
「っ、ザウル! セプテニア公! 皆……大丈夫か――ッ!」
必死の叫び。
しかし――そのギエナの言葉は、途中で酷く喉の奥で詰まり、永遠に途絶えることとなった。
薄れゆく黒煙の深部。
破砕された円卓と石組みの瓦礫の山の上に、立ち上がっていた人影。
そこにいたのは――もはや、サダルスウドの姿ではなかった。
「……なんだよ、……あれ……っ」
外縁で瓦礫の陰に身を潜めていた若い警備兵が、失禁せんばかりの絶望的な悲鳴を漏らした。
煙の向こう側に蠢いていたのは、完璧なまでの異形であった。
滑らかで不気味な光沢を放つ、巨大な白濁した卵型の胴体。
その巨大な卵の側面から、歪んで細い人間のような手足が、滑稽でシュールな角度で生え出でている。
まるで、子供が描いた歪な落書きを、そのまま立体へと具現化したかのような不快極まる姿。
――だが。
その滑稽な姿とは裏腹に、胴体の中央――横一文字に大きく不気味に裂けた大口のような傷口からは、直視した者の精神を狂わせるほどの殺意と魔力が溢れ出ていた。
ギエナの瞳が、戦慄に大きく見開かれる。
(なんだよ……ありゃあ……ッ!)
言葉が出ない。
サダルスウドの全身から放たれている魔力の波長――それは、先ほどまでを遥かに超越していた。
いまや、その存在そのものが、物語を背負う本物の"姫"――あるいはそれをすら凌駕するほどの、圧倒的な威光を放っていた。
主たる"アリス・リデル"を失い、行き場を失った不条理な物語の残滓が、サダルスウドという不気味な依り代を呑み込み、完全に再構築を果たした姿。
物語『ハンプティ・ダンプティ』――二度と元には戻らない、割れた卵の化身。
「……どうやら……ここからが……本番のようだね……」
戦慄に息を飲むギエナのすぐ横合いから、酷く掠れた、けれど力強い声音が聞こえてきた。
我に返ったギエナが横へと視線を向けると、そこには崩れた石壁に肩を預け、どうにか立っているザウルの姿があった。
「ザウル……! あんた……無事で……っ!」
胸を撫で下ろそうとしたギエナの言葉が、再び激しい衝撃と共に止まった。
ザウルの体勢。
彼が左手で強く押さえている自身の腹部――その指隙から、どくどくと溢れ出し、スーツを黒赤く染め上げている大量の鮮血を目にしたからだ。
「なっ……オイ……その傷は……ッ!?」
ギエナに、激しい動揺が奔る。
先ほど、サダルスウドが爆発を強引に炸裂させたあの瞬間。
ザウルは自身の絶対零度の防壁を展開して耐え凌ぐと同時に――背後にいたイザールや兵士たちを守るための盾となり、鋭利な瓦礫の破片と凄まじい爆圧の直撃を、真っ向から受けていたのだ。
ザウルは吐血しそうになるのを強引に呑み込むと、青白く血の気の退いた顔にいつもの気障な薄笑いを浮かべてみせた。
「……ああ……これかい? ……す……少し、ドジを踏んでしまってね……。大丈夫さ……セプテニア公たちは……隣の部屋へ……避難したさ……」
弱々しい、けれど、堂々とした言葉。
血の気を失い、膝を震わせながらも、ザウルは一歩も退くことなく、目の前の異形を見据えていた。
そんな二人を見下すように。
卵型の不気味な胴体の中央、裂けた大口から、グロテスクに歪んだ笑みを浮かべた"壊れて戻らぬ割れた卵"の化身が、狂気に満ちた声を響かせたのだった。
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