369話「凍てつく爆風」
「――"氷の掌"」
静かに、けれどどこまでも澄み渡る冷静な声音が、爆炎の渦巻く室内に響き渡った。
その直後。
サダルスウドの両手から放たれ、大会議場の天井へ、壁面へ、排気口へ、そして逃げ惑う警備兵たちの頭上へと撒き散らされていた五十、百を超える"卵"の群れ。
空中で怪しい光を放ち、一斉に炸裂しようとしていた死の爆弾群の表面へ向けて、蒼白い冷気が怒涛の如く押し寄せた。
パリパリパリパリパリパリッッッッ!!!!!!
空間の熱量を力任せに塗り替える、圧倒的な冷気の伝導。
空中で今まさに赤熱した火花を散らそうとしていた無数の卵たちが、一瞬にして爆発のエネルギーごと分子レベルで凍てつかされ、厚い氷の膜に覆われていった。
カチャン、カチャン、カチャンッ!
爆発の閃光も、炸裂の轟音も生じることはなかった。
全方位へとバラ撒かれた殺戮の卵たちは、床面や絨毯の上へと無害な音を立てて転がり落ちるだけだった。
「……なにっ……!?」
硝子の獅子の巨躯を躍らせ、兵士たちを庇うようにして前脚を交差させていたギエナは、あまりにも劇的な空間の不発劇に、思わず言葉を失う。
猛烈な爆炎と悲鳴が満ちるはずだった大会議場に立ち込めるのは、極寒の冷気。
驚愕のあまり咄嗟に後ろへと振り返ったギエナの視線の先。
破砕された円卓の前に佇んでいたのは――ザウルであった。
両掌から蒼白い残煙を揺らめかせながら、ザウルは驚くギエナへ向けて、微笑と共に、片目を細めて気障なウインクを飛ばしてみせたのだった。
「やあ、ミスタ・アルファルド。……僕のこと、忘れちゃいないかい?」
「――っ! ザウル殿、あんた……まだその力は使えるんですかい!?」
ギエナは変身を部分解除し、人間の姿へと戻りながら、思わず素っ頓狂な驚き声を張り上げた。
ギエナの困惑と戸惑いに対し、ザウルは自身の両掌を軽く握り締め、強く頷いてみせた。
「ああ。……ギエナ殿が砕いてくれたのは、"呪いの鏡"――言ってしまえば、"雪の女王"アダーラが僕に取り付けた、監視装置みたいなものさ」
ザウルは崩れたマホガニーの床を踏み締め、自身の胸元へと手を当てた。
「あの鏡が破壊されたことで、僕は解放された。……けれどね、一度僕自身の魂と魔力回路の奥深くにまで根を張り、適合した不条理な魔法の力そのものは……どうやら、僕の中に失われずにそのまま残留しているようだ」
「……そうかい、そいつは助かりましたぜ……!」
ザウルが正気を保ったまま、あの絶対零度の冷気を行使できるというのであれば、これほど心強い話はない。
「戦えるんなら心強ええ。ちっとばかし、力を――」
ギエナが言葉を言い切るよりも、早く。
突如として、空間を切り裂くような甲高い怨嗟の悲鳴が叩きつけられた。
「おじさぁぁぁぁん! 僕を仲間外れにして、お話ししないでよぉおおおお!!」
自分の放った全方位の爆撃を打ち消され、目の前で呑気に会話を交わす二人を目にして、サダルスウドの顔面が激しい憎悪と不機嫌さに醜く歪み切っていた。
「ほら! ほら! ほらぁぁぁッッ!!」
壊れたオルゴールのように叫びながら、サダルスウドは懐から再び無数の"卵"を拾い上げ、ギエナの無防備な胸元へ向けて直接投擲した。
目にも留まらぬ速度で迫る、十数個の死の弾丸。
しかし――。
シュッ……!
ギエナが刀を構え直すよりも早く、彼の前へと割り込むようにしてザウルが滑り込む。
彼は目元を冷ややかに研ぎ澄ませると、迫り来る"卵"の群れへ向けて、両掌をすっと滑らかに差し出した。
「――無駄だよ、"氷の掌"……!」
ガギィィィィィンッ!
差し出されたザウルの掌から放たれた絶対零度の冷気が、飛来する"卵"の群れを正面から包み込んだ。
直後。投擲された十数個の卵は、炸裂の火花を散らす余裕すら与えられず、表面から芯に至るまで完全にカチカチに凍結させられた。
そのまま爆発を起こすことなく、石畳の上へとカツン、カツンと無力に落下し、氷の微粒子となってパラパラと砕け散り、消えていく。
消えていく氷の微粒子を見下ろし、ザウルサダルスウドに微笑を向けた。
「……どうやら、僕の力と君の魔法は、相性がいいみたいだね」
「……ふへぇ?」
サダルスウドの眉間の皺が、さらに深くなる。
一方で、ギエナは勝利を確信していた。
本来、自分一人でも圧倒できる相手だ。そこにザウルが力を貸してくれるのであれば、もはや負ける道理はない。
(――やれる、やれるぞ)
一方、自慢の爆撃を二度にわたって完全に封殺されたサダルスウドは、虚無の瞳を激しく血走らせ、ギリギリと歯を食いしばっていた。
「あ……あ……あ……っ! なんで……なんで割れないのさぁぁぁッ!」
地摺りのような怒りの咆哮。もはやそれにも、恐ろしさを感じる余地はない。
状況は、完全なる優勢。
――それなのに。
ギエナの胸の奥で――不気味な違和感が首を持ち上げる。
(……待てよ、おかしい……上手く行き過ぎてねえか……?)
戦力差、能力の相性、周囲の安全。
目に見える要素のすべてが、自分たちの圧倒的勝利を指し示している。
それにもかかわらず、彼の直感が、脳の裏側で冷たい警鐘を鳴らし続けていたのだ。
(――そう、気がかりなのは……"アリス・リデル"のことだ)
ギエナの脳裏に、かつてこのフォーマルハウトを絶望の淵へと叩き落とした、あの最悪の怪異の姿が蘇る。
"目覚めなかったアリス・リデル"。
二つの"アリス"の物語を纏い、このサダルスウドたちに権能を与え、従えていた、帝国の"姫"。
かつて彼女はこの"晶潮館"を占領し、"マッチ売りの少女"が"人魚姫"を誘拐するまでの時間を見事に稼いでみせた。
しかし――当の"アリス・リデル"は、すでに討伐され、この世界からは消滅しているはずなのだ。
ノクティアとミラクの共闘によってアリスの抱える歪んだ物語は完結へと導かれ、その不条理も霧散したと聞いていた。
主たる"アリス・リデル"は、もうどこにも存在しない。
(……だとすりゃ……こいつは一体、何を拠り所に力を使ってるって言うんだ……?)
背筋を、冷たい毛虫が背中を駆け上がってくるような不快な悪寒が通り抜ける。
"姫"やその従者たちが振るう不条理な魔法。
それはすべて、彼らが背負う物語が存在して初めて成立する超常の権能であるはずだ。
主である"アリス・リデル"が消滅し、根底にある物語との繋がりが絶たれているのだとすれば――なぜ、従者たるサダルスウドが、こうして以前と何ら変わりない……いや、以前以上の不条理な不気味さを纏って動くことができているのか?
(……あるいは、物語なんて関係なく……一度魂に根差した魔法の力は、主が消えようが消えまいが永遠に消えねえってのか……? それとも……)
それとも――自分たちがまだ気づいていない、もっと恐ろしい何かが、彼の中で蠢いているというのか?
答えの出ぬ不気味な疑問。
だが――戦場において、思考の沼に落ち続ける余裕など与えられてはいなかった。
サァッ……ッ!
ギエナの視線の先。
冷気を纏うザウルが、身を深く屈め、低空での突進体勢を取っていた。
壊れたマホガニーの床に強く爪先を立て、サダルスウドを見据えるザウル。
(ザウル殿も……察してやがるな)
ギエナは即座に理解した。
ザウルもまた、この不気味なサダルスウドの存在に対して同じ違和感を抱いているのだ。
加えて、ダラダラと長引かせれば長引かせるほど、この密閉された空間でどのような惨劇が巻き起こるか分からないという危険性を、正確に読み切っている。
長戦は無用。
不気味な違和感の答えを探るよりも先に、いま目の前にいる相手を、可及的速やかに完全に粉砕・沈黙させること。
それこそが、このフォーマルハウト防衛戦の中枢を守り抜くための、唯一の正解であった。
「ミスタ・アルファルド……一気に決めるよ!」
ザウルの低い、けれど凛とした叫びが響く。
「へっ、言われなくても……最初からそのつもりですぜ!」
ギエナはそう言い放ち、再び体内の全魔力を巡らせ、猛々しい硝子の獅子へと姿を変える。
この一撃で決める、その覚悟とともに、彼は地面を強く蹴った――。




