367話「小舟の上」
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空が、焦がしたように暗い茜色に染まっていた。
フォーマルハウトを網の目のように切り裂く無数の水路。その清冽な水面が、西の空から傾く夕陽の残光を受けて、まるで溶けた純銅のように不気味なほど赤々とした不吉で美しい輝きを照り返している。
水上を滑るように進む、一隻の小さな木造船。
ギィ……ギィ……と規則正しく響く船頭の漕ぐ櫂の音と、静かな水音。その船縁に、幼き日のザウルはぐったりと肘をついていた。
小さな掌で顎を支え、膝を抱えるようにして座り込む彼の瞳には、夕影を映す水面のゆらめきも、水路の両脇に整然と立ち並ぶ白亜の石造建築の壮麗さも、何一つとして鮮やかには映っていなかった。
「なあ、ザウルよ。お前はこの街が好きか?」
静寂を破って頭上から降ってきたのは、低く、重厚で、けれどどこか包み込むような温もりを帯びた老人の声音であった。
船の対面に腰掛け、太い腕を船縁に預けていたのは――ザウルの実の祖父であり、このフォーマルハウトの政界において長年にわたり絶対的な重鎮として君臨してきた男、ムルフレド・アカルであった。
最高意思決定機関たるエリダヌス議会の議長職を自ら退き、実の弟へとその座を譲ったばかりであったムルフレドは、豪奢な議員服ではなく、仕立てのよい落ち着いた上着を羽織り、白髪交じりの立派な髭を蓄えていた。
かつて議会をその威厳で束ね上げた鋭い眼光は、孫へ向けられる時には優しく穏やかな光へと和らいでいる。
ザウルは、祖父の問いかけに対して即座には答えなかった。
ただ、水面を漂う一枚の枯れ葉を追うように視線を動かし、幼い唇をキュッと不満そうに尖らせるだけだった。
「……そんなの、わからないよ、お祖父様」
抑え気味の、どこかすねたような小さな声。
当時の少年ザウルの胸の中には、言葉にしきれない不満と、漠然とした不機嫌さが常に滞留していたのだ。
ザウルの実の父親は、フォーマルハウトの書記官として働いていた。
連日のように徹夜で執務室に籠もり、山のような書簡と向き合い、議会や他国との複雑な折衝に追われていた父親は、幼いザウルと顔を合わせる時間すら満足に作れずにいたのだ。
朝、目覚めた時にはすでに屋敷を後にし、夜、眠りにつく頃にもまだ戻ってこない。重々しい執務室の扉越しに見える父親の後ろ姿は、幼いザウルにとって遠く寂しい存在だった。
そんな孫の抱える孤独と、幼心ゆえの屈折をいち早く察していたのが、引退したばかりの祖父ムルフレドだった。
彼は時間を見つけては幼いザウルを連れ出し、こうして二人きりで街の水路を船で巡り、あるいは賑やかな市場を歩き回っていたのだ。
朝の光が水面に跳ねる時も、昼下がりの賑わいの中でも。街を巡るたび、ムルフレドは決まって同じ問いを投げかけるのだった――この街が好きか、と。
「ほう、それはどうしてだ。こんなに美しい街はないぞぅ。見なさい。水はこんなに澄んでいて豊かだ。そして、街は"人魚兵"に守られている!」
ムルフレドは白髪の眉を押し上げ、豪快に破顔しながら、広大な水路の先へと太い指先をかざしてみせた。
彼の視線の先――夕陽の朱を反射する水面の下を、しなやかな動作で数筋の影が滑るように泳ぎ抜けていく。
水上にぬっと姿を現したのは、腰から下が美しい銀鱗に覆われ、手に鋭利な三叉槍を携えたフォーマルハウト誇る精鋭部隊――“人魚兵”たちであった。
彼らは水路を巡回し、都市の静謐と安全を監視しながら、船上のムルフレドと幼いザウルへ向かって、敬意を込めた壮麗な一礼を捧げて水中へと再び姿を消していった。
水底から沸き立つ清らかな泡、幾重にも連なる水路網、そして街を守る精強な兵たち。
誰の目から見ても、フォーマルハウトの光景は一国の首都として至高の繁栄と平穏を体現しているように思えた。
しかし、少年ザウルは冷めた瞳のまま、不満そうに呟くのだった。
「……そんなの、わからないってば。……全部、ほかの国にはないものなの?」
「ないともさ! 全て全て、我らフォーマルハウトの民だけに与えられた特権だ!」
ムルフレドは胸を張り、心底誇らしげに声を張り上げた。
「水資源に乏しい外の世界では、一杯の清澄な水を得るために血が流れることすらある。だが、この街では誰もが豊かな清流の恵みを享受し、豊かな実りを分かち合っている。そして、どんな猛悪な侵略者であっても、この清冽な水路と精強な人魚兵たち、そして何より我がフォーマルハウトの誇る"人魚姫"の防壁を破ることはできん。……どうだ? 誇らしいとは思わんか?」
「……それが凄いかどうかも、僕にはわかんないよ」
ザウルは顔を背け、船縁の木肌を爪先で小さく引っ掻いた。
清らかな水路のせせらぎも。
水中を自由に滑る精強な人魚兵たちも。
そして――街の象徴である、美しく強い"人魚姫"すらも。
生を受けたその瞬間から、ザウルの周囲には常にそれらが、当たり前に存在していたのだ。
朝起きて息を吸うのと同じ。陽が昇り、夜が訪れるのと同じ。
生まれてから一度として失われたことのない景色、一秒たりとも途絶えたことのない平和。
他の世界を知らないザウル少年にとって、それらは何の新鮮味もない、退屈な日常の一部に過ぎなかったのだ。
当たり前の景色が、当たり前のようにそこにあり続けること――それがどれほど奇跡的な均衡の上に成り立っているのか、どれほど尊く有難いものであるのかを噛み締める知恵など、当時の彼が持ち合わせているはずもなかった。
「はっはっは! そうだな、そうだろうとも」
ムルフレドは怒る風もなく、むしろ孫の冷めた返答を慈しむように、大ぶりの掌でザウルの頭を優しく撫で、お腹を揺らして豪快に笑い飛ばした。
「今はそれでいい。お前がその価値を知らんということは、この街がそれほどまでに平和で、お前が何不自由なく守られているという証拠だからな」
「……お祖父様はそう言うけどさ。それって、いつわかるの?」
ザウルはチラリと祖父を見上げ、不機嫌そうに尋ねた。
「いつかはいつか、だ。お前が大人になる頃にはわかるさ。……故郷の尊さってやつがな」
「……ふうん」
ザウルは気のない生返事を返し、再び水面へと視線を落とした。
(大人たちは、いつもそうだ。答えに困ると、そうやって『大人になればわかる』なんて、ごまかすんだ――)
胸の中で小さな反抗心をくすぶらせながら、幼いザウルはただ赤く染まる水路の影を見つめ続けていた。
――いつか、わかる日が来る。
それから数年の歳月が流れた。
祖父ムルフレド・アカルは、老いに伴う酷い肺咳を患い、静かな病室のベッドの上で寝たきりの生活を送るようになった。
薄暗い病室の中に響く、酷い落葉のような痰の絡んだ咳音。
瘦せ細り、かつての豪快な面影を失っていった祖父は、死の直前まで、見舞いに訪れた若いザウルの手をカサカサとした老いた手で固く握り締め、同じ言葉を繰り返していた。
『……ザウルよ……この街を……フォーマルハウトを守るのだぞ……。いつか……お前にも……わかる時が来る……』
枯れ果てた木々のような掠れた声。
だが、病床の祖父が息を引き取り、その遺体がフォーマルハウトの清らかな水葬へと送られた後も、ザウルの胸の深層にその言葉が真の意味で届くことはなかった。
父親の後を追うように政治の世界へと足を踏み入れ、若くして優秀な官僚として台頭していったザウル。
それでも、彼の心の中にはどこか冷めた距離感が残り続けていた。
街は相変わらず穏やかで、水は澄み、人魚兵たちは水路を守り続けている。
平和な景色は変わらずそこにあり、故郷の貴重さなどというものは、彼にとって依然として概念の域を出ないものであったのだ。
そう。あの"目覚めなかったアリス・リデル"アルゴラによる、"晶潮館"襲撃事件が巻き起こる、その瞬間までは――。
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