366話「兎狩り」-後
「――テメエッ! 余裕ぶってんじゃねえよ、雑魚があああああッ!!」
大気を切り裂いて、ルーナの金切り声のような金声が鼓膜を打った。
満身創痍で崩れかけているはずのミラクが見せた微笑。
それは、捕食者として常に圧倒的な高みから他者を弄び、見下してきたルーナにとって、己の存在価値そのものを否定されるに等しい侮辱であった。
(ボクが上! お前は下だろッ! 弱者の分際で調子に乗ってんじゃねえぞッ! 大人しくボコられときゃいいんだよッ!!)
脳髄が怒りで煮え滾る。
焦燥とプライドの破綻が、ルーナの思考から最後の理性と観察力を焼き尽くしていた。
高熱の配管が引き起こす足場の制約も、散らばる白銀の結晶の不自然な位置関係も、もはや彼女の瞳には映っていない。
ただひたすらに気に食わない"白雪姫"を物理的に叩き潰し、その顔面を惨めに踏みにじること――その一点にのみ塗りつぶされていた。
ズドォォォォンッ!
脚部に限界以上の魔力を注ぎ込み、灼熱の配管を強引に蹴りつける。
皮膚が焼ける激痛すら無視し、ルーナは弾丸のごとき凄まじい初速で空中へと跳躍した。
後先を考えない、直線的突進。空中を裂き、一直線にミラクの首元へと向かって襲いかかる。
目にも留まらぬ速度で迫り来る、死の槍先れが、ミラクを捉える――。
――その刹那。
ミラクの顔から、先ほどまでの微笑がすっと消え去った。
澄んだ双眸が、激しく血走ったルーナの突進軌道を、静かに、そして正確に捉える。
「――"七人の虚人"」
静寂をミラクの呟きが駆ける。
まるで幾重にも重なる影がズレていくかのように。
ミラクの身体の輪郭が曖昧に振れ、魔力の粒子と共に瞬時に分離、そして展開されていく。
(――ッ! しまっ……!?)
直線的に突っ込んでいたルーナの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
しかし、気づいた時には、すでに手遅れであった。
ミラクは、迫るルーナの兎足の爪先を、わずか一歩、横合いに逸れて、紙一重で躱してみせたのだ。
空を切る、ルーナの渾身の一撃。
――すれ違う、その瞬間。
無防備なルーナの脇腹へ向け、ミラクは右拳を強く引き絞った。
分離していた七体の"虚人"たちが、一斉にミラクの引き絞られた右腕へと吸い込まれ、重なり合っていく。
ギチ、と。筋繊維の締め上げられる音。七体分の"虚人"の持つ全質量、全魔力、全筋力を、たった一握りの右拳へと集約させる。
肉体の限界を超えて凝縮されたその膂力は――たとえ不死身の肉体を誇る"姫"であれ、骨肉を砕かれることは避けられぬ、"槍"と化していた。
そして、その一撃を――容赦なく振り抜く。
「――"統一・撃拳"ッ!!!」
空間そのものごと叩き割るが如き凄絶さを以て、ミラクの右拳がルーナの脇腹へと突き刺さった。
皮膚は爆ぜ、筋肉は挫滅し、肋骨が嫌な音を立てて砕け散り――。それでもなお衝撃は止まらない。
「がっ……ふぁっ……!?」
肺の中の空気を全て叩き出され、ルーナの小柄な体躯は真横へと吹き飛ばされた。
スーパーボールのように、天井や床、壁を猛烈な勢いでバウンドし、何十メートルも転がっていくルーナ。
それでも勢いを殺しきれず、彼女の背中は配管へと凄まじい音を立てて激突した。
シューーーーーーーッッッッ!!
衝撃によって太い配管がへの字に屈曲し、内部から吹き出した過熱水蒸気が、ルーナの肌を容赦なく焼き焦がしていく。
「あぐっ……あ……っ……」
肌を焼かれる感覚と、砕けた肋骨の激痛に身体を折り曲げながら、ルーナはボイラーの白煙の中で崩れるようにひざまずいた。
口端から血を垂らし、荒い呼吸を繰り返しながら――彼女はゆっくりと顔を持ち上げた。
白煙の向こう側には、拳を振り抜いた姿勢で固まるミラクの姿があった。
それを見つめるうち――ルーナの熱狂していた思考が、冷や水を浴びせられたかのように、急速に温度を失っていく。
(そうか……そういうことかよ……)
頭脳の中で、これまで起きていた違和感のパズルが、一気に噛み合っていく。
脳裏に浮かぶのは、穏やかな笑みを浮かべていた、フォーマルハウトの若き総議長――ザウラシス・アカルの声。
『僕が二人を孤立させて、君たちのもとに送り込む。だから、君たちはそれを各個撃破すればいい――』
(騙してやがったんだ……ッ! 最初から……あの優男がッ! ボクたちをこの穴倉に誘導して、仕留めるために……ッ!)
ザウルの裏切り、そしてこの戦場そのものが罠であるという事実。
そのすべてを理解したルーナは、ゆらりと立ち上がった。
折れた肋骨を魔力で強引に繋ぎ止め、焼かれた皮膚の激痛を不快そうに顔を歪めて押し殺す。
そんな彼女の足元へ向かって、静かな足音が近づいてきた。
カツン……カツン……。
白煙を割って、ミラクが姿を表す。今のルーナよりも遥かに負っている傷は多いはずなのに、彼女の立ち姿は、微塵も揺らいでいなかった。
「……なんだよぉ、お前。……偉そうに見下ろしてさぁ」
ルーナの口から、掠れた声が漏れる。
確かに、ミラクが放った今の一撃は凄絶であった。
しかし――客観的に戦況を見れば、勝利はまだ遠い。ミラクの魔力は限界に近く、全身は血と煤に塗れ、立っていること自体が奇跡のような有様であった。
対するルーナは、ダメージこそ負ったものの、その圧倒的な身体能力と魔力量は未だ健在であり、二人の根本的な実力差は何一つとして縮まってはいない。
ミラクが得た成果――それは、圧倒的な格上に対して、たった一撃、一矢を報いることができたという、ただそれだけの事実に過ぎない。
「たった一発だろうが……! ボクをまぐれ当たりで一発殴れた程度で……勝ち誇ってんじゃねえよ……っ!!」
ドッッッッッッッッ!!!!!!!!
ルーナの全身から、これまでの戦いとは根底から次元の異なる殺気が放たれた。
パリパリパリ……ッ!
大気が悲鳴を上げ、足元の石畳にクモの巣状の亀裂が走り抜ける。
それは、もう玩具を弄ぶ捕食者の気まぐれな殺意ではなかった。
目の前にいる敵を、油断も慢心も一切を削ぎ落とし、ただ純粋に、いかなる手段を使ってでも確実に殺害し、息の根を止めるためだけに研ぎ澄まされた――殺意の奔流。
ルーナの瞳は、濁り切った漆黒の殺意で塗り潰されていた。
押し寄せる、直死のプレッシャー。
だが――その絶望的な殺気の暴風を真っ正面から浴びながら、ミラクは怖気づくことなく、静かに言葉を返した。
「――そうね」
弱々しく、けれどどこまでも凛とした呟き。
「……あ゛?」
低い唸り声を上げるルーナに対し、ミラクは、己の弱さを一切隠すことなく口にした。
「あなたの言う通りよ、ルーナ。……私はあなたより弱い。……弱くて、迷って……何より脆いわ」
ミラクの告白には、自虐の響きは微塵も存在しなかった。
己の弱さを、未熟さを、過去の醜さを――すべて知った上で、それでもなお、立ち上がる。
ゆらり。
ミラクを中心として、空間の波長が静かに、けれど不可逆的に変化を始めた。
彼女の全身から溢れ出し始めたのは、先ほどまでとは根本から違う、絶大な魔力の波動。
ボイラー室に渦巻いていた熱風や白煙が、ミラクの周囲数十メートルにわたってピタリと静止し、彼女の足元から白銀の粒子が、まるで夜空の星々のように湧き上がり始める。
(――っ、これ……もしかして……!?)
ルーナの足裏に、猛烈な寒気が駆け抜けた。
知っている。この波長を、この魂の深層が疼くような圧倒的な威光を――。
目の前に立つミラクの姿は、いまや単なる弱者ではなく、世界へと抗う戦士へと変貌を遂げようとしていた。
「……そうね。まだ、あなたには見せたことなかったわね――」
ミラクは静かに右手を掲げた。
彼女の掌の上に、湧き上がる白銀の光粒が集圧されていく。
魂の最奥。
プレアデスの試練を経て、己の悲惨な過去と向き合い、その底から引きずり出してきた――彼女の真の権能。
ミラクの双眸が、覚醒の光を宿してルーナを真っ直ぐに射抜く。
「これが、私の"根源"よ。全ては、どんな運命も砕くために――!」




