366話「兎狩り」-前
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「――ミラク様、あなたはまだ力ヲ、使いこなせておりませんネ」
石造りの天井がどこまでも高く聳える、プレアデス聖教国の第二修練場。
大気中に濃密な魔力の粒子が静かに揺らめく中、"零落の聖女"エレクトリアは、一切の情念を排した無機質な声音でそう言い放った。
彼女の目の前で、肩を激しく上下させ、息を荒らげていたミラクは、額から落ちてきた雫を拭う。
汗に濡れた白銀の髪が頬に張り付き、手に握りしめた長剣が、かすかに震えていた。
「……っ、そんなこと言われても……じゃあどうすればいいっていうのよっ!」
ミラクの口から漏れたのは、抑えきれない苛立ちと、自嘲の混ざり合った鋭い返答であった。
力不足――あるいは、手に入れたはずの力に己が振り回されていることくらい、他人に指摘されるまでもなく、ミラク自身が痛いほど理解していた。
プレアデスの地において、己の過去と向き合う試練――"狂想の庭"を突破し、確かに彼女は魂の奥底に眠る"根源"に触れた。
だが、触れたことと、それを自在に手足として従えることとの間には、果てしなく深い隔たりが存在していたのだ。
そもそも、ミラクは生来、魔力の制御を不得手としていた。
彼女が、自身の背負う『白雪姫』という物語を"甘言の埋葬"や"七人の虚人"といった、局所的かつ限定的な使い方しかできないのも、それが原因だ。
彼女の魔力操作の不器用さ――それは同時に、彼女の心が無意識のうちに己の力を制限し、狭い枠組みの中に押し込めている証左に他ならなかった。
「あなたは"狂想の庭"を乗り越えテ、力そのものは手にできましタ。しかシ、力は支配しなければ意味がなイ」
エレクトリアは修道服の袖から覗く細い指先をすっと立て、感情の読めない瞳でミラクを見つめ返した。
「……ミラク様、あなたの弱さはそこにあル。もっト、自分を知ってくださイ」
「……自分なら、知ってるわよ。だから、あの"庭"も超えられたし――」
幼い頃、病室の冷たいベッドの上で死の恐怖に怯え、鏡に映る醜く痩せこけた自分の姿に絶望していた記憶。
その惨めな過去を受け入れ、鏡を叩き割る覚悟を決めたからこそ、自分は今ここに立っているのだと――そうミラクが言葉を重ねようとした、その時であった。
「ノン、それだけがあなたではないでしょウ」
エレクトリアは、小さな首を静かに横に振った。
「気付かないのならバ、そこまでかもしれませんがネ――」
氷のように冷ややかな、けれどどこか深遠な余韻を残す言葉。
気付かないのなら――そう、エレクトリアは確かに言ったのだ。
だが、その言葉の真意を解き明かし、悟りを開くための時間は、ミラクには残されていなかった。
数日後、彼女は己の奥底に抱えた問に答えが出せないまま――プレアデスを去ることになったのだから。
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――そして、場面は現在へと戻る。
"大沸流坑"の暗がりの中。
凄まじい重音と金属の摩擦音を撒き散らしながら、縦横無尽に空間を駆け回っていた"かぐや姫"ルーナは、突如として自身の足裏から伝わってきた違和感に眉をひそめた。
(……ん? さっきから、なにこれ……?)
それは、満身創痍のミラクへ向けてさらなる致命的な追撃を加えようと、高所に張り巡らされた巨大な鋼鉄配管を強く蹴りつけ、頭上からの急降下を試みようとした、まさにその瞬間のことであった。
今まさに兎足の爪先をかけ、跳躍の軸にしようとした太い配管の表面――そこから、大気を激しく歪ませるほどの猛烈な高熱が吹き出していたのだ。
「ちっ……! あっつ……!」
舌を打ったルーナは、高熱の鉄管から弾かれるように足裏を離した。
踏み込みの力を途中で強引に殺さざるを得なくなり、彼女は一瞬だけ姿勢を崩した。
やむなく少し遠くに見えた石造りの壁面へと強引に足を伸ばし、壁を蹴ることでどうにか空中での機動を再開・加速させる。
しかし、それでは本来の威力は乗らない。崩れた姿勢から放たれた蹴りは、ギリギリのところで弾かれた。
(――なんなのさ、さっきから……!)
思えば――先ほどからの攻防においても、似たような不快な引っかかりが何度も繰り返されていた。
死角へと滑り込もうとした際、そこから吹き出す過熱蒸気を避けるためにあえて遠回りの踏み込みを選択させられたり。
あるいは、頭上から蹴りを叩き込もうとした際、支柱から発せられる熱気によって踏み込みの威力が殺され、変に身体を曲げて捻ることになってしまったり。
その結果として放たれた攻撃は、ルーナが意図していた本来の威力を大幅に下回り、ミラクの"七人の虚人"によって、間一髪のところで防ぎ切られてしまっていた。
(足場が無数にあるのは、ボクにとっておあつらえ向きの戦場のはずなのに……なんなのこれ。全然違う。……まるで、目に見えない蜘蛛の巣に引っかかったみたいに、すごくやりづらい――)
宙を舞いながら、ルーナの眉間には深い皺が刻み込まれていった。
不快感が、狂乱の兎の思考を急激に蝕んでいく。
"かぐや姫"という"姫"の真価――それは、他者を寄せ付けない常識外れの超近接機動力にある。
認知速度を超える踏み込み、不規則で立体的な跳躍、そして敵の意識の隙間へと滑り込む縦横無尽の残像。
思考を挟む間すら与えず、奔放な暴力の乱舞によって押し潰すことこそが、彼女の戦闘スタイルの真骨頂であった。
しかし――いまの彼女を取り巻くこの戦場は、その奔放な舞踏を確実に阻害していた。
"大沸流坑"の全域に張り巡らされた、高圧ボイラーの配管網。
それらの弁や配管の破損部から吹き出す過熱蒸気は、いまやルーナの行動範囲を狭め続ける、見えない壁へと変貌していたのだ。
直感的に、思うがままに跳び回ることができない。
高熱の配管を避けようとすれば、どうしても踏み込める足場は限られ、空中での跳躍軌道は必然的に遠回りにならざるを得ない。
まっすぐ跳べない。
本気で体重を乗せた、最速の蹴りが放てない。
自由を愛し、敵を玩具のように踏み潰すことを至上の快楽としていたルーナにとって、この緩やかな麻痺のような制約は、脳髄を焼き焦がすほどのフラストレーションとなって蓄積されていった。
「あはっ……あはは……! なんなのさ、これぇ……ッ!」
空中を舞うルーナの口から、嘲笑の体裁を保ちきれない、怒りに満ちた甲高い叫びが漏れる。
視界が苛立ちに赤く染まり、彼女の思考から冷静さが急速に失われていく。
怒りに支配されつつあるルーナは、高熱の配管を避けつつ、ミラクの正面へと向かって直線的に突進した。
――しかし、それこそが、ミラクの狙いであった。
かつて変幻自在であり、無限の残像を生み出していたルーナの軌道。
それが、環境の制限と怒りによって狭められた結果――容易く予想できるようになっていた。
キィィィィィンッ!
直線的に飛来したルーナの蹴りに対し、ミラクは慌てることなく白銀の長剣を滑らせた。
完璧な角度で滑り込ませた長剣の腹が、ルーナの蹴りの威力を横方向へと滑らせ、衝撃を逃す。
さらに、あらかじめその軌道上に配置されていた二体の"虚人"が割り込み、ルーナの脚を挟み込むようにしてその推進力を強引に殺す。
ズドォォォンッ!
衝撃波が虚人を砕き、魔力の粒子が舞い散る。
だが、ミラク本人には、爪先すら届いていなかった。
「……っ、ああもう……! ストレス溜まってしゃーないなぁッッ!!」
空中へ跳び退き、鋼鉄の梁の上に着地したルーナは、爪を立てて自身の頭髪を激しくかき乱した。
不気味な兎足の筋肉がギチギチと嫌な音を立てて波打ち、その瞳が、狂乱の光を帯びて激しく濁っていく。
「なんなのさ、なんなのさぁっ! ボクよりもずっと雑魚のくせに! お人形さんを並べることしかできないくせにっ!!」
己の自慢の一撃が、泥に足を取られたかのように思い通りに機能しない苛立ち。
格下と見下していたはずのミラクに対し、決定的なトドメを刺せない焦燥。
完全に頭に血が上り、その視野は一点――ミラクの首元だけに極限まで狭められていた。
足場の熱気も、白煙の流れる方向も、周囲に漂う微かな魔力の不自然な揺らぎすらも――いまのルーナの目には、何一つとして入っていなかった。
「もういいや……! ぐちゃぐちゃに踏み潰してあげるよぉッッ!!」
咆哮し、脚の筋肉を膨張させて、再び天井へ向かって躍り上がるルーナ。
その殺意を正面から受け止めながら――崩れた石造の路上に立つミラクの表情が、静かに変化した。
口端から血を流し、全身の甲冑を砕かれ、満身創痍の体勢でありながら。
ミラクの群青の双眸には、恐怖も悲壮感も存在していなかった。
そこに宿っていたのは、不気味なほどの静寂。ルーナの荒い跳躍、狭まった視野、そして焦りに任せて繰り出される直線的な機動。そのすべてが、己の描いた戦術の筋書き通りに動いていることを確信した、淡く、薄氷のように冷ややかな――"微笑"。
ミラクの薄い唇が、静かに滑らかな弧を描いた。
その表情が、ルーナの目に入る。




