365話「殻振る破滅」
――ズズズズズ……ッ。
黒い鏡が砕け散ると同時に、大会議場を埋め尽くしていた冷気が、まるで潮が引くように急速に威力を失っていった。
重厚な観音開きの出入り口を固く閉ざしていた白濁色の氷の層が、パラパラと不気味な音を立てて剥がれ落ち、床面を覆っていた分厚い霜が、瞬く間に無害な水滴へと戻って流れていく。
そして――。
「――やっぱり、やってくれたね」
――ドサリ。
黒い鏡を破壊されたザウルは、一切の抵抗を見せることなく、その場に膝を突き、滑らかな床の上へと倒れ伏した。
先ほどまで彼の両掌から吹き荒れていた蒼白い冷気は、綺麗さっぱりと消え去っていた。
それだけに留まらない。全身から放たれていた、刺すような鋭い殺気や冷酷な不気味さまでもが、まるで嘘であったかのように霧散していたのだ。
床に突伏したまま、ザウルはゆっくりと顔を持ち上げた。
「……流石は……"砂の鬣"だ。……よく、気が付いてくれたね……ミスタ・アルファルド」
息を整えながら、倒れ伏した体勢のまま小さく囁くザウル。
硝子の獅子から人間の姿へと戻ったギエナは、重度の凍傷が残る右腕の手首をさすりながら、バツが悪そうにポリポリと頭を掻いてみせた。
「……ケッ、うるせえやい。何が流石ですかい。……あんた、自分からその弱点を、俺の目の前に差し出して来たじゃねえですか」
ギエナの呆れ混じりの口調に、ザウルは苦笑いを浮かべ、ゆっくりと体を起こしながら首を横に振った。
「ふふ……それでも、僕の身体を傷付けることなく……あの"鏡の破片"だけをピンポイントで破壊してみせた、あなたの判断と手腕は、流石と言うほかないよ。……一体どこで、真線に気が付いたんだい?」
ザウルのその問いかけに対し、ギエナはすぐには答えなかった。
彼は腰の軍刀を鞘へと静かに納めると、一度思わせぶりに間を置き、勿体をつけるようにして口を開いた。
「……気が付いたってのは……アレですかい――」
ギエナはこれまでの戦況を頭の中で巡らせ巡らせる。
開戦から、現在に至るまでの奇妙な違和感の数々。
フォーマルハウトの地下深く、高圧蒸気と巨大配管が複雑に入り組む地下空洞――"大沸流坑"。
そこに特使団の"姫"たち――ノクティアやミラクたちを誘導し、閉じ込めるような策を取ったこと。
そして、先ほどの死闘におけるザウルの、あまりにもあからさまな弱点の提示。
それらのピースを繋ぎ合わせ、ギエナは確信に満ちた声を口にした。
「――あんたが、最初っから裏切ってなんざいなかった……ってことですかい」
静まり返った大会議場に、その言葉が重々しく響き渡る。
それを聞いたザウルの表情が、それまでの緊張から解き放たれたように、ふっと優しく和らいだ。
「……正解だ、ミスタ・アルファルド。……僕がこの街を、このフォーマルハウトを裏切ったりなど……するものか」
ザウルのその言葉を聞いて、ギエナは肩の力を抜くと、深く長い息を吐き出した。
「やっぱりな……おかしいと思ってたんでさぁ」
ギエナは大会議場の天井を見上げ、苦笑いを浮かべながら種明かしを始めた。
「"大沸流坑"――あんな狭苦しくて、千度近い高熱の蒸気パイプが縦横無尽に走ってる穴倉……流石に、こっちに有利すぎらぁ」
ギエナの解説に、外縁で固まっていたイザールや警備兵たちが息を飲んだ。
「熱や蒸気は"雪の女王"の冷気を阻害するでしょうし、"かぐや姫"は機動力を殺される。……大方、あんたが以前言っていた『"かぐや姫"を討ち果たすための策』ってのが……あの戦場のセッティングだったんでしょうよ」
ギエナの言葉に、ザウルは静かに頷いた。
「……ああ、その通りだ。……この作戦の全貌を知っていたのは、事前に密談を交わしていたミラク嬢だけ。……後は、誰にも話してこなかった」
「……全く、呆れた奴め」
それまで固く沈黙を守っていたイザールが、呆れと安堵の混ざり合った深い溜め息を吐きながら、歩み寄ってきた。
イザールは鞘に納めた長剣の柄を叩きながら、苦々しく首を振った。
「私や"鬣"くらいには、裏で打ち明けておけばよかろうが。ハラハラさせおってからに」
イザールの小言に対し、ザウルは申し訳なさそうに眉をひそめ、深々と頭を下げた。
「……悪かったね、セプテニア公。……でも、万に一つもしくじれなかったんだ。……僕がこうして、ミスタ・アルファルドに全力で叩き潰されるところまでを、一切の不自然さなく、臨場感を持って演じきらなければならなかった」
ザウルは自身の側頭部――先ほどまで黒い鏡が埋め込まれていた箇所を軽く指先で触れながら、真摯な瞳で続けた。
「それに、僕に埋め込まれた"鏡"は、アダーラと繋がっていた。……いや、そうでなくとも、僕の芝居に微かでも迷いや嘘があれば、"かぐや姫"には感づかれていたはずだ」
「……そうまでしねえと騙せねえとは……"かぐや姫"ってのは、随分と勘が鋭いんですねぇ」
茶化すように片眉を上げるギエナ。しかし、ザウルの表情は一切の緩みを見せず、酷く硬いままだった。
「……ああ。彼女――ルーナは、決して油断していい相手じゃない。自らの欲望のためなら一切の躊躇なく他者を喰らい尽くす、本当に恐ろしい怪物だよ」
ザウルのその言葉には、本物の戦慄が宿っていた。それだけで、ルーナという相手の大きさが、そして強さが、その場の全員に過不足なく伝わる。
しかし――ザウルはすぐにその暗い表情を振り払うと、すっと背筋を伸ばし、己の服についた白い霜と埃を優しく手で払い落とした。
「さて、とだ。……これで、舞台のお膳立ては全て整った。……作戦を、最終段階へと進めよう――」
ザウルの瞳に、フォーマルハウトの最高責任者としての力強い光が蘇る。
彼の計画の最終段階――。
それが何なのかは、誰にも話していなかった。けれど、機は熟したということだろう。彼は、朗々と駒を進める。
「イザール殿は総指揮の引き継ぎを。そして、ミスタ・アルファルド、あなたにはすぐに――」
ザウルが力強く一歩を踏み出し、イザールとギエナに向かって指示を出そうとした――まさに、その瞬間のことであった。
――凄まじい衝撃波と、天地を覆すほどの巨響が大会議場を激しく揺らした。
悲鳴を上げる石造りの壁、砕け散る天井の巨大な装飾硝子。
たった今、ザウルによって氷の呪縛を解かれたはずの扉が、外側からの凄まじい爆炎によって、木端微塵に粉砕されて弾け飛ぶ。
「――っ!? なんだ、これは……!」
「伏せなッッ!!」
ギエナは叫ぶと同時に前へ飛び出し、背後のイザールとザウルの二人をその背中に庇うようにして腕を広げた。
吹き荒れる凄まじい爆風と、瓦礫の暴風。
もうもうと立ち上る煙が、出入り口の空間を一瞬にして覆い尽くしていく。
煙幕の向こう側。
倒れ伏す警備兵たちの悲鳴と、未だ崩れる壁と天井の向こう――暗がりから、その足音は響いてきた。
カツン……カツン……と。
崩れた石組みを踏み越えて、爆煙の奥から"それ"がゆっくりと歩み出てくる。
その足取りは、あまりにも異質であった。
酒に酷く酔い痴れているかのような、あるいは一歩足を踏み出すたびに自身の肉体の輪郭そのものがブレて消えてしまいそうな――存在そのものが歪み、狂い切っている不気味な徘徊者。
そして――煙を破って聞こえてきたのは、壊れたオルゴールのように甲高く、裂けたような少年の声であった。
「――卵が……割れるよぉおおおおお……」
不気味な、正気を完全に失った呪詛の呟き。
「――卵が……ぐちゃぐちゃに……割れちゃうよぉ……あは……あはははは……っ」
ゆらりと、黒煙の幕を割り、その全貌を現した異形の存在。
艶やかな、夜の闇を溶かしたかのような漆黒の黒髪。
光を一切宿さず、底なしの虚無と惨殺の欲望だけを湛えた、歪んだ瞳。
その姿を目にした瞬間――ギエナの全身から、凄まじい冷や汗が噴き出した。
「――なッ!?」
イザールの口から、信じられないという驚愕の絶叫が漏れる。
そこにいたのは――かつてこのフォーマルハウトの地において、ギエナが打ち倒し、そして、ノクティアによって封印された帝国の戦士が一人。
"ハンプティ・ダンプティ"――サダルスウドが、そこに立っていた。
ギエナは冷や汗を顎から滴らせ、軍刀の柄を再び固く握り締めながら、絞り出すような低い声で呟いた。
「――冗談きついぜ、おい……ッ!」
完全なる勝利の手応えが掴まりかけたその瞬間に降り立った、最悪の復讐者。
大会議場の広間にて、新たなる死闘の幕が上がろうとしていた――。
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