364話「呪いの鏡」
ギエナが目にしたのは、衝撃波によって激しく乱れた、ザウルの美しい黄金の髪。
その幾重にも重なる金糸の隙間――右側の耳上、側頭部の皮膚のすぐ近くに、不気味な光を鈍く乱反射させる"何か"が見えたのだ。
(あれは鉄板……いや、鏡か……?)
ギエナは心の中で眉をひそめた。
これまで、"姫"たちや、他の魔法の"種"を使う者に比べ、ギエナ自身は魔法という概念に直接触れる機会が圧倒的に少なかった。
己の変形魔法――"硝子の獅子"についても、その原理や構造について深い理解を持っているとは到底言えない。
しかし――数々の死線を潜り抜けてきた生粋の騎士としての直感は、あの黒い破片から、不気味な魔力が絶え間なく湧き出していることを感知していた。
(……おいおい。あれが……ザウルの力の源だってのか……? いや、だとしたら……)
先ほど、ギエナが強烈な前蹴りをザウルの鳩尾へ叩き込んだ瞬間。
激痛に身体をくの字に折ったザウルは、まるで自分の頭部――あの黒い鏡の隠された右側頭部を、わざとギエナの視界へと晒し出すかのように、不自然に首をよじってみせたような気がしたのだ。
(――いや、考え過ぎか。……目の前の死闘で、そんな高度な仕掛けを意識的にやる余裕があるはずもねえ。……とにかく、あれが奴の弱所である可能性は極めて高けぇ……!)
確信めいた直感が、ギエナの胸の中で静かに、けれど熱く燃え上がった。
理由も背景も関係ない。敵が晒した隙を容赦なく撃ち抜くことこそが、戦場において生き残る鍵なのだから。
「……ふぅ」
ギエナは息を静かに吐き出すと、右腕の手首に走る猛烈な激痛を思考の外へと押しやった。
やるべきことは、すでに決まっていた。
「――仕掛けるぜ、坊ちゃんよッ!」
ギエナは低く叫ぶと、凍てついた床を力任せに蹴りつけた。
冷気に悴む足を駆動させ、体勢を崩しかけていたザウルへ向かって、一直線に躍りかかる。
右手に握られた軍刀が、夕闇の光を受けて一筋の銀閃を描き、ザウルの右側頭部へと向かって一直線に振り下ろされた。
しかし――。
ガギィィィィィンッッ!!!!
不快な金属音が、密閉された議場に反響した。
ザウルは一切の動揺を見せることなく、緩やかな動作で右手を差し出すと、その掌に凝縮させた蒼白い氷の結晶をもって、ギエナの渾身の斬撃を正面から完璧に受け止めてみせたのだ。
(チッ……固え……ッ!)
ギエナは武勇と剣術によって名を上げたわけではない。知略によって名を馳せる男であり、彼の強みは戦術眼と現場での機転にある。
勿論、一般の兵士や並の騎士と比較すれば、遥かに常識外れの強さと剛腕を有してはいるが――不条理な物語を背負う"姫"や、超常の魔力を宿した存在と、純粋な剣技で渡り合えるほどの武の領域には達していなかった。
二度、三度と、ギエナは身体を反転させ、死角からの連続刺突と斬撃を叩き込んだ。
しかし、ザウルはその全ての軌道を完璧に見切り、蒼白い冷気の掌をもって軽々と受け止めてしまう。
そして――打ち合う回数が重なるにつれ、ギエナの握る軍刀の刃先から、ザウルの掌から溢れ出る不条理な絶対零度が、軍刀の鋼鉄を伝って爆発的に侵食してきていた。
綺麗な銀色を誇っていた刃身が、瞬く間に不気味な白濁に染まり、内部の分子構造を破壊されていく。
ミシミシ……パキッ!
ついに、ギエナの軍刀の刃先に、クモの巣状の惨烈な亀裂が走り抜けた。
(――クソっ、俺の生半可な剣術じゃ、正面突破はできねえか……ならッ!)
軍刀が粉々に砕け散る直前、ギエナは瞬時に刀を引き抜き、後方へと跳び退いた。
滑る石畳の上で着地したギエナは、迷うことなく踵を返すと、大会議場の壁沿いに向かって猛然と疾走した。
目指すは――壁際に固まり、死闘の余波に息を飲んで震えていた連邦警備兵たち。
「っ……ギエナ殿……!?」
自陣へ向かって突進してくるギエナの姿に、若い警備兵が目を丸くして驚愕する。
ギエナはその警備兵とすれ違う瞬間、彼が両手で握り締めていた長槍の柄を、強引にひったくった。
「悪いな兄ちゃん、ちっとばかしこいつを借りるぜ!」
警備兵が声を上げる隙すら与えず、ギエナは奪い取った長槍を腕の中で滑らせると、そのまま駒のように旋回。
勢いをそのまま殺すことなく、追撃のために間合いを詰めてきていたザウルへ向けて、一直線に向き直った。
両手で固く引き絞られる、2メートル強に及ぶ槍。
間合いの優位性を活かし、ザウルの手元が届くよりも遥か遠くから、その右側頭部を撃ち抜くための鋭烈な刺突を放つ。
大気を穿ち、一直線に放たれる突き。
――しかし。
迫り来る長槍の穂先を目にしながら、ザウルは哀れむような嘲笑をその口元に浮かべた。
「――はん、"砂の鬣"ともあろう者が……槍術は不得手だったのかな!?」
ザウルのその嘲笑は、決してハッタリではなかった。
元より軍刀と爪牙を主武器とするギエナにとって、長槍の操術は専門外。
いま放たれた刺突は、ただの圧倒的な腕力と初速に頼っただけの大振りな突進に過ぎないし、それ以上の攻撃も難しい。
ザウルは目を冷ややかに細めると、身を極限まで捻り、飛来する長槍の穂先を紙一重の差で滑らかに躱してみせた。
そして――右手をすっと差し出すと、迫り来る長槍の柄を、その掌で易々と掴み取ってみせたのだ。
接触した瞬間、長槍の鋼鉄の柄を、冷気が爆発的な速度で伝っていく。
ギエナが借り受けた長槍は、一秒の後には真っ白な氷の棍棒へと変質し、内部から破砕の音を立てて、脆く凍結していった。
このまま柄を握り続けていれば、ギエナの両手は手首から先を残らず一瞬で凍てつかされ、粉砕される運命にあった。
だが――。
長槍を凍てつかせ、ギエナの体までもを包み込もうとしたその瞬間。
――ギエナの口端が、猛獣のような邪悪で不敵な笑みに歪んだ。
(……引っかかりやがったな、坊ちゃん……!)
長槍がザウルの掌によって掴まれ、冷気が柄を覆い尽くす直前。ギエナは迷うことなく、両手に握っていた長槍の柄をあっさりと手放したのである。
「……えっ……!?」
ザウルの瞳に、激しい驚愕の色が走った。
武人であれば、あるいは命を託した武器であれば、それを土壇場で易々と手放すなどという選択はあり得ない。
長槍を掴み、そのまま冷気で相手を拘束・粉砕しようとしていたザウルの意識が、獲物を手放されたことによって宙に浮き、須臾の致命的な思考の停滞を引き起こしたのだ。
その隙を、ギエナが逃すはずなどなかった。
武器を捨てたギエナは、ザウルが凍結させた床へ向けて、自らの身体を滑り込ませた。
体幹を限界まで低く倒し、ザウルの死角となる、右斜め下方向へと、一直線に潜り込んでいく。
長槍を掴んだまま固まっていたザウルは、慌てて手にしていた真っ白な氷の棍棒を投げ捨て、低空から迫り来るギエナを迎撃すべく、その両掌を下方へと向け直そうとした。
だが、生じた初動の遅れ。それは、接近戦において、決して取り返しのつかないものであった。
ザウルの両手が構え直されるよりも早く。
滑走するギエナは、すでにザウルの無防備な足元――至近距離へと肉薄していたのだ。
見上げるギエナの視界。
乱れる黄金の髪の隙間から、はっきりとその全貌を晒し出す――不気味で禍々しい黒い鏡の破片。
ギエナは血走った目を極限まで見開き、胸の底から咆哮を叩きつけた。
「――はッ! 一瞬の油断が命取りだぜ、坊ちゃんよッッ!!!!」
滑走する勢いのまま、ギエナは己の体内に眠る全魔力を、爆発的な勢いで開放させた。
滑り込みながら、ギエナの全身の肉体が、瞬時に変化を果たす。
硝子の獅子と化したギエナは、滑走の勢いをそのまま殺すことなく、ザウルの右斜め後方の空間へ向かって、低姿勢から弾丸のように跳ね上がった。
ただでさえ長槍のブラフによって初動の遅れを取っていたザウルは、躍り出た巨大な硝子の獅子の動きに対し、対応し切ることができない――。
「……な……っ!?」
蒼白い冷気の掌は、虚しく空を切り、ギエナの目は確かに捉えた。乱れる黄金の髪。その奥で不気味な魔力の光を揺らめかせる、黒い鏡の破片。
硝子の獅子の巨躯が、上空からザウルを見下ろす。
「――グルルルルオオオオオオオオッッッッ!!!」
硝子の獅子の太く強固な右腕が、極太の爪を引き連れ、全重量と推進力を乗せて振り下ろされた。
しかしそれは、ザウルの頭部を薙ぎ払うことはなく――その寸前のところ、頭部に刺さった破片だけを砕くように振り抜かれる。
凄絶な破砕音が、"大会議場"の空間を引き裂いた。
ギエナの爪が、ザウルの側頭部に存在する黒い鏡へと激突した瞬間。不気味な魔力を放っていたそれは、クモの巣状の巨大な亀裂を奔らせ――粉々に砕け散ったのだった。




