363話「掌撃と爪撃」
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フォーマルハウトの防衛作戦を総括する最高統制拠点――"晶潮館"の最深部に位置する大会議場。
かつては連邦の文官や各地区の代表が集い、都市の未来について熱い議論を交わしていたその円卓の広間は、いまや惨烈極まる氷の牢獄へと変貌を遂げていた。
大会議場の重厚な二重観音開きの出入り口の扉。
その表面は、すでに数センチにおよぶ白濁した不気味な氷の層によって完全に覆い尽くされ、鍵穴もヒンジも凍てつかされていた。
外部からの補給も、防衛兵たちの侵入も、あるいは内部からの脱出も――一切を拒絶する絶対の密閉空間。
「……くっ……総議長、正気なのですか……!?」
「なぜだ……なぜこのような真似を……っ!?」
大会議場の外縁を取り囲むようにして控えていた十数名の警備兵たちが、抜き放った長槍や魔導銃を構えたまま、酷く悲痛な叫びを上げていた。
その中央にはイザールの姿もあった。彼はその瞳を怒りと悲痛に激しく揺らし、固く握り締めた長剣の柄に指を喰い込ませていた。
しかし、彼らとて軽々に二人の死闘の間合いへと飛び込んでいくことはできなかった。
円卓を中心に広がる広大な床面は、触れるもの全てを凍てつかせる惨烈な冷気によって白く霜張り、素手で触れれば一瞬で皮膚が剥がれ落ちるほどの死地と化していたからだ。
イザールたちが安易に手を伸ばせば、最前線で対峙するギエナの足引っ張りになるばかりか、ザウルの不条理な冷気の余波を受けて一瞬で凍土の骸と化してしまう。
部屋の中央、円卓を挟んで対峙する二つの影。
腰の軍刀を静かに抜き放ち、呼吸を整えるヴァルゴの智将――"砂の鬣"ギエナ・アルファルド。
そして、両手の掌から蒼白い不気味な冷気を揺らめかせ、可憐とも言える微笑を口元に浮かべるフォーマルハウトの若き総議長――ザウラシス・アカル。
かつて、この街を守るために並び立っていた二人の男が、いまや言葉を挟む余白すら存在しない殺し合いの渦中に立たされていた。
「――シッ!」
静寂を切り裂いたのは、ギエナの低く短い鋭い掛け声であった。
言葉による問答など、最初から無用。
ギエナは一歩を踏み出すと同時に、その身体の全構造を不条理な魔力によって一瞬で変化させた。
人間の肉体が瞬時に硬質で透徹した、巨大な硝子の獅子へと変貌を遂げる。
夕闇の光を乱反射させる結晶の毛並み、鉄をも容易く噛み砕く巨顎、そして研ぎ澄まされた十本の硝子の極太の爪。
硝子の獅子と化したギエナは、凍てつく大会議場の壁面を力任せに蹴りつけた。
重厚な石壁にクモの巣状の亀裂が奔り、その反動を利用して、ギエナの巨躯が跳弾のような凄まじい初速をもって空中を舞った。
上空からの超高速の強襲。
狙うは――涼しげに佇むザウルの首元。
一撃でその頸椎を断ち切り、戦闘不能へと追い込むための絶大な爪撃が、大気を引き裂いて振り下ろされる。
――しかし。
襲い来る巨大な硝子の獅子を前にしても、ザウルの表情は驚くほどに至極冷静であった。
彼は飛来するギエナの凶悪な爪に対し、回避行動を取ろうとすらもしなかった。
それどころか、まるで親しい友人を迎え入れるかのように、その両手を緩やかに前方へと差し出し、そのままギエナの爪を正面から諸手で受け止めたのだ。
(――舐めやがって……! このまま、首ごと切り裂いてやるぜ……!)
ギエナは心内で咆哮し、体重を乗せて、両腕の爪を振り抜こうとした――。
――まさに、その瞬間のことだった。
ズズズズズズ……ッ!
「――っ!?」
ギエナの爪先から、一瞬にして感覚が吹き飛んだ。
爪の先端から、前足の肉球、そして手首の関節に至るまで――接触した直後、惨烈極まる冷気が、血脈を伝って這い上がってきたのだ。
いかなる衝撃や物理打撃にも耐えうるはずのギエナの硝子の肉体が、不気味な白濁色へと染まり、内部からミシミシと嫌な音を立てて脆く白体化していく。
「――グ、ルルルルルゥ……!?」
ギエナの顎から、思わず苦悶と驚愕の低音の唸り声が漏れた。
(なんだこりゃ……出鱈目な凍結速度だぜ……っ!)
そのまま押し込めば、腕全体が根元から凍てついて粉々に砕け散ると直感したギエナは、強引に前足を引くと、空気の反動を利用して後方へと大きく躍り退いた。
凍てついた床面を滑りながら距離を取ったギエナは、即座に変化を解除し、元の姿へと戻った。
しかし――変身を解いたギエナの右腕、そして左腕の手首辺りまでが、見るも無惨な重度の凍傷によって黒ずみ、感覚を失って酷く痺れ切っていた。
皮膚の表面にはびっしりと白い霜が張り付き、僅かに動かすだけで激痛が神経を焼き切ろうとしてくる。
(……くそっ……油断したぜ。……俺の"変身"は、あいつの魔法と決定的に相性が悪い……!)
汗を額から滲ませながら、ギエナは冷静に己の過失を分析した。
ギエナの固有魔法――硝子の獅子への変身。
それは圧倒的な物理攻撃力と機動力を誇る反面、直接攻撃以外の戦闘手段を持たない。故に、相手の接触による凍結に対して、格好の標的となってしまうのだ。
変身して肉弾戦を挑めば挑むほど、自らの身体を凍結の危険に晒すことになる。
そんなギエナの苦痛に満ちた惨状を見下ろし、ザウルはさも楽しそうに、朗らかな声で笑い声を上げた。
「あっはっはっは! これが僕の魔法――"氷の掌"』さ。触れたものを瞬時に凍結させ、内側から打ち砕く……!」
ザウルは両掌を優雅に開いて見せながら、その瞳に感情の削ぎ落とされた暗い冷気を宿していた。
手首の凍傷に耐えながら、ギエナは薄く笑みを浮かべると、口端から吐き捨てるように言葉を返した。
「……へえ。そいつぁ、悪かねえ魔法だ。……酒を冷やしといてくだせえよ。此度の戦の祝杯をね」
激痛を一切感じさせない、いつもの不敵な軽口。対するザウルも、変わらぬ微笑を崩さぬまま、静かに言葉を打ち返してきた。
「ああ。だけどそれを……君たちと味わうことは、ないだろうけどね!」
言葉の応酬と同時に、ギエナの頭脳は超高速で回転を続けていた。
(直接の接触は駄目だ。……だが、完全に距離を取って撃ち合いになれば、この狭い部屋じゃ部屋ごと凍てつかされて詰みになる。……まずは、相手の出方と、間合いの癖を探る……!)
ギエナはジリジリと足裏を擦りながら、大会議場の中央に鎮座する巨大なマホガニー製の円卓へと向かって、不自然にならないよう間合いを詰めていった。
凍傷の残る手首の痛みを意識の外へと追い出し、視線はザウルの肩の微かな筋肉の揺らぎに全集中させる。
円卓の縁へと腰が触れた――その瞬間。
ギエナは卓上に散らばっていた、長年の作戦立案で使われていた鋼鉄製の万年筆や、重量感のある金属製の筆記具を幾つも素早く掴み取り、それらをザウルの顔面へ向かって力任せに投擲した。
しかし、ザウルは首をわずかに傾げ、あるいは手を一振りさせるだけで、飛来する筆記具を事もなげに軽々と回避してみせた。
そして――投擲の隙を突くように、ザウルは地面の氷を滑走し、一瞬でギエナの至近距離へと肉薄してきたのだ。
「食らえ……"氷の――"」
ザウルの両手が、冷気を渦巻かせながら、ギエナの胸板へと向かって一直線に突き出される。
両手が肌に触れれば、その瞬間に心臓まで一瞬で凍てつかされて即死する死の接触。
――しかし。
「っ、オラぁっ!」
ギエナは引き下がらなかった。
彼は突き出されたザウルの両腕の軌道を紙一重で身を捻ってかわすと、手首の代わりに、己の右足の爪先を強烈に突き出した。
正確無比な――ザウルの無防備な鳩尾に向けて放たれた、渾身の前蹴り。
「ぐっ……!?」
体幹を直接砕く強烈な衝撃。
鳩尾を打ち抜かれたザウルは、肺の中の空気を吐き出し、苦悶の表情を浮かべて身体をくの字に激しく折れ曲げた。
接触凍結の隙すらもない、刹那の一撃。
身体が折れ曲がり、ザウルの頭部が無防備に落ちてきたその隙を、智将ギエナが見逃すはずがなかった。
「――これでも、喰らいやがれってんだッ!!」
ギエナは前蹴りの軸足を滑らせながら、右腕だけを瞬時に、獅子の腕へと部分変形させた。
手首までの凍傷を魔力で強引に押し殺し、太く研ぎ澄まされた硝子の巨大な五本爪を顕現させる。
そして、身体を半回転させた遠心力を乗せ、ザウルの無防備な首元へ向かって、横一文字の爪撃を振り抜いた。
肉を割き、骨を砕く凄絶な破砕音――が、響くはずであった。
――しかし。
ガギィィィィィンッッ!!!!
嫌な金属打撃音と共に、激しい火花と透明な氷の砕片が、空間へと派手に飛び散った。
くの字に折れ曲がりながらも、ザウルは己の掌から、多層構造の氷の結晶を瞬間的に生成させていたのだ。
厚さ十数センチにおよぶその氷の盾が、ギエナの渾身の獅子の爪撃を、紙一重のところで受け止め、衝撃を霧散させていた。
「チッ……!」
ギエナは即座に腕の変身を解除し、反動を利用して後方へとバックステップを踏んだ。
円卓の縁まで戻り、呼吸を整えるギエナ。
右腕の手首からは、先ほどの強引な部分変形と氷結の衝撃によって、血と霜が混ざり合った不快な液がだらりと伝い落ちていた。
(クソっ……身のこなしや格闘術自体は、大したことねえ……! だが、あの冷気のせいで、あと一歩のところで攻めきれねえ……!)
ギエナは苦々しく顔を歪め、目の前のザウルを激しく睨みつけた。
対するザウルは氷の盾を砕け散らせながら、ゆっくりと姿勢を正す。鳩尾を蹴られた激痛に呼吸を乱しながらも、その顔には相変わらず、完璧な笑みが張り付いたままであった。
圧倒的な冷気と、隙のない氷の即時生成。
一見すれば、ギエナは不利な状況へと追い詰められ、手詰まりの泥沼にはまり込んでいるかのように見えたが――。
(――あ? なんだ、ありゃ)
苦々しくザウルを凝視していたギエナの瞳は――"それ"を捉えたのだった。




