362話「悪い人ではありませんから」
「……はあ? 何言ってやがんだ、お前……!」
アディラは目の前に立つ少女へ向けて、思わず呆れ果てた頓狂な声を張り上げていた。
普通ならば、命を賭した決闘の最中に口にしていい戯言ではない。あまりにも脈絡がなく、あまりにもふざけきった打診。
しかし――頭を上げたセラエナの表情には、ふざけた気配など微塵も存在しなかった。彼女は破れたレオタードの胸元を手で優しく押さえながら、凛とした声音で言葉を重ねる。
「だから、申し上げているのです。あなたの言うところの、"悪モンの使いっ走り"なんて、辞めましょうと」
「……っ、そんで、お前らにつけってのか? ハッ、お笑い草だな」
アディラは嘲笑を浮かべた。
腰に手を当て、警戒の眼差しを一切崩さぬまま、目の前のお目出度い"お姫様"へ向けて吐き捨てる。
「いいか、嬢ちゃん。戦争なんてもんはな、両方悪モンじゃねえと起きねえんだよ。正義なんてもんは、どこを探したって……」
「それは侵略戦争の場合は例外じゃないですか? そもそも、"マッチ売りの少女"は世界を焼き尽くそうとしているんですし、流石に悪者だと思います」
間髪置かず、平然と言い返すセラエナ。
彼女は良くも悪くも空気を読まない。否、周囲の顔色や場の雰囲気などという曖昧なものを最初から読む気など毛頭存在しないのだ。
己の信じる正論と直感を、ただそのまま、真っ直ぐに相手の喉元へ叩きつける。だからこそ、どれほど突拍子もないことであっても、一切の気負いもなく口にすることができる。
「……っ、言うじゃねえか。なら……あんたらが仰々しく担ぎ上げてるその頭――音に聞くノクティア嬢は、悪者じゃねえって言うのかい?」
試すように、アディラは目を細めて問いかけた。
舌戦を繰り広げながら、脳内で必死に冷徹な試算を巡らせるアディラ。この問答によって時間を稼ぎ、セラエナの意識を逸らしてこの場から離脱するための隙を伺おうとしていたのだ。
――しかし。
「――知りませんよ、そんなこと」
返ってきたのは、アディラのあらゆる想定を力任せに覆す、あまりにも意外で無責任な言葉であった。
「……は……?」
思考が、一瞬だけ完全に停止した。
セラエナは風に髪をゆらゆらとなびかせながら、当然の真理を述べるかのように言葉を続けた。
「仔細無用。誰が悪者だとか、誰が正義だとか、そんなこと私は気にしていません。考えたって分かりませんから」
「はあ!? お前……どこまでいい加減なんだよ……!」
「いい加減じゃありませんよ。善悪なんてものは、その場の環境と立ち位置で変わるでしょう」
静かに、けれど揺らぐことのない確信を込めて語るセラエナ。
そこで彼女は、ほんの僅か視線を落とし、崩れ去った石組みの足元へと視線を伏せた。
「……かつての教国も、そうでした。"姫"の力の研究が、"災厄の姫"の降臨が世界を救う鍵になると信じて、私たちは非人道的な実験に手を染めてきました」
聖教国プレアデスが隠し続けてきた、光の裏に蠢く漆黒の恥部――地下深くに築かれた"遺棄層"、そしてそこに座していた怪人、"禁忌の番人"と、封じられていたモノのの存在。
プレアデス聖教国の騎士団長たるセラエナは、そのおぞましい真実を知っていた。知っていた上で、己には知恵がなく、世界の理など分からないからと、ずっと見て見ぬ振りを決め込んで生きてきたのだ。
「けれど……ノクティア様は違います。何かに目を瞑ることはありません。背けることもありません。功罪の全てを、あの人は真っ向から見つめている」
セラエナの声音に、熱い熱量が宿り始める。
「だからこそ――あの人の力になりたい。そう思わせてくれる人なんです」
「……力に、なりたい……?」
「ええ。少なくとも、あの人の後についていくことに迷いはない――納得して、戦えるんです」
誇らしげに、けれど慈しむように語るセラエナの姿を、アディラは凝視していた。
胸の奥底で、重苦しい波紋が広がる。
――納得など。自分の歩んできた人生において、ただの一度たりとも抱いたことなど存在しなかった。
あちらの世界で生きていた頃も。こちらの世界へ召喚され、帝国の兵器として生きている今も。アディラは常に、誰かに命令され、与えられた役割を冷めた頭でこなしてきただけだった。
誰かの力になりたいなどと、そんな風に考え、自発的に足を踏み出す生き方など――彼女の半生には存在しなかったのだ。
「……だから、ウチにも力を貸せってのか?」
「ええ。だってあなた、悪い人ではありませんから」
「……どうして、そう言い切れる?」
アディラの疑問に対し、セラエナは己の破れたレオタード、その中央に刻まれた凄惨な胸の傷口へと小さな指先を向けた。
「――あの、散弾の後の一射。私は被弾を覚悟して、防壁を張りました。しかし、防ぐことはできないと、分かっていました」
"黒湖泥濘・水鏡の盾"――あの時展開した、セラエナの防御魔法。
しかし、数キロメートル先から解き放たれたアディラの魔力弾の前には、その盾すらも易々と撃ち抜かれることを、セラエナは瞬時に察知していたのだ。
「そう判断した私は、敢えて胸元に魔力を集中しました。一点集中すれば、戦闘不能にならない程度に、損傷を抑えられると思いましたから」
「……ウチが、あんたの頭を狙ってたらどうするつもりだったんだい?」
「……狙ってたんですか?」
セラエナが、小首を傾げて聞き返してくる。
「……いや、そうじゃねえけど……お前、ウチの善性を信じ過ぎだろ。戦いなんてのは、相手の嫌がることをやってなんぼなんだぜ」
「事理明白。でも、相手が悪であると疑うよりも、善であると信じたほうが良いと思いませんか?」
あまりにも純粋で、あまりにも危うい倫理観。
アディラが呆れ果てて言葉を失っていると、セラエナはさらにその唇を滑らかに動かした。
「それに……やっぱりあなたは、悪い人ではありませんでした。だってほら、さっき私に引き金を引けなかった――あれは、私の向こうにある村を気遣ってのことでしょう?」
「――っ!?」
アディラの全身の血が、一瞬で凍りついた。
頭を力任せに殴られたかのような強烈な衝撃。
あのとき、アディラから標的たるセラエナまでの距離は、わずか数十メートル足らずであった。
しかし――セラエナの背景、数キロメートル先には、緑豊かな丘陵の斜面にへばりつくようにして存在する、あの小さな農村の集落が広がっていたのだ。
アディラの放つ魔力弾は、数十キロメートルを易々と貫通する常識外れの超火力と威力を誇る。
もしもあの至近距離から最大威力の貫通弾を解き放っていれば――セラエナの肉体を破壊して突き抜けた死の光条は、そのまま背後に広がる穏やかな農村部へと着弾し、そこに残されていた人々の営みや家々を残らず吹き飛ばし、焦土へと変えていたはずだった。
かと言って、村への被害を抑えるために魔導弾の出力を削れば、"姫"たるセラエナには生温い打撃となってしまう。
狙撃手としての長年の本能。
背後の村を吹き飛ばすことを土壇場で忌避し、威力を絞ることもできず、葛藤の末に引き金を引くことができなかった――それこそが、先ほどアディラの右脚が撃鉄を落とせなかった本当の理由であったのだ。
(――なんだよ……っ)
アディラは自嘲気味に、口端を引きつらせた。
(なんだよ、ウチの心は……まだ、あの故郷にあるってのかよ……)
悪党として泥を舐め、他人の悲鳴を笑ってきたはずの自分。
けれど、故郷の面影を残すあの穏やかな村の風景を目にした時、彼女の魂の底に眠っていた人間としての良心が、死の引き金を引くことを拒んだのだ。
そんな彼女の胸の奥底に、再びあの懐かしい声が蘇ってくる。
『――ディーネ。善く、善く生きなさい』
寒冷なユトランドの冬の日。擦り切れた毛布の中で自分を抱きしめてくれた、死にゆく母親の最後の祈り。
母から愛されて名を呼ばれていた、本当の自分。
(……別に、こいつらについて行ったとして……それが"善く生きる"ことになるかなんて、分かりやしねえ)
結局のところ、特使団へ寝返ったところで待っているのは戦いであり、命の奪い合いに変わりはないのだから。
しかし――。
(――それでも。今よりは多分……納得して生きていける)
アディラの瞳から、泥のような冷めた諦念が、綺麗さっぱりと消え去っていた。
彼女は大袈裟に肩をすくめると、深々と溜め息を一つ吐き出した。そして、まっすぐにセラエナを見据え、ハスキーな声音で言い放った。
「――いいぜ。その話、考えてやってもいい」
「一諾千金! 本当ですか、二言はありませんね!?」
セラエナの表情が、ぱあっと咲くように明るく輝いた。
「まだ考えるだけだっての! それに、こっちにも条件がある」
「……条件、ですか?」
怪訝そうに首を傾げるセラエナに対し、アディラはニッと野性味のある不敵な笑みを浮かべると、己の両拳へ向けて濃厚な魔力をギュッと充填させ始めた。
「――流石に、タダで寝返ったんじゃ筋が通らねえだろ。固有魔法無しの殴り合い……それでウチを倒せたら、お前らについて行ってやるよ」
それが、己の誇りを守るための、そして帝国との決別を告げるためのアディラなりの筋であった。
だが、それを聞いたセラエナは、心底理解できないとでも言いたげに眉をひそめた。
「奇奇怪怪。そんなことする必要ありますか? 私もう、結構血を流しているんですけど……」
「うるせえな、お前、空気読めよ! 今、そういう感じじゃねえだろうがッ!」
怒鳴り散らすアディラに対し、セラエナは「仕方ありませんね」とばかりに渋々といった様子で、己の両足へと魔力を纏わせた。
古砦の崩落跡、風が吹き抜ける高地の上で。固有魔法を捨て、純粋な肉体と魔力のみを拳と脚に宿した、二人の“姫”による原始的な殴り合いが、威勢よく始まった。
飛び交う拳と蹴りの衝撃波の中で、アディラの表情はどこまでも清々しく――吹っ切れたような晴れやかさに満ち溢れていたのだった。
◆◇◆




