361話「単刀直入」
標高数百メートルの高地に建つ古びた監視砦は、たった一筋の強烈な踵落としによって真っ二つに両断され、豪快な地響きと共に音を立てて崩れ落ちていた。
砕け散った巨大な石組み、何十年もの時をかけて蓄積した白灰色の土煙、そして破砕された木骨の瓦礫が、暴風となって周囲の空間へ向けて勢いよく吹き荒れる。
「――っ、無茶苦茶しやがるッ!」
崩落する巨大な石塊の直撃を回避しながら、アディラは吐き捨てるようにして悪態を叫んだ。
次々と足元が崩れていく絶望的な状況。アディラは身を躍らせ、落下してくる瓦礫から別の壊れた石壁の破片へと跳び移り、軽業師のような身軽さでどうにか下層への滑落を防いでいた。
擦り傷だらけになった腕で石突を掴み、必死に体勢を立て直しながら、彼女は血走った瞳を激しく巡らせ、土煙の向こう側の敵の姿を探し求める。
(どこだ……!? あのレオタードの化け物は、どこへ行きやがった……!?)
アディラ――"一人孤独なスズの兵隊"の固有魔法。
それは、己の片脚を大口径の砲身へと変化させ、数キロメートル先の標的をも一撃で粉砕する極大の魔力弾を放つという圧倒的な権能。
遠距離における絶対的な攻撃力、そして精密射撃の精度において、アディラは全“姫”の中でも他を圧倒する最強の長距離火力を誇っている。
――しかし。その絶大な威力の代償として、彼女の魔法には極めて致命的な欠陥が存在していた。
足を砲身へと変化させている間、アディラは地面へと己の身体を固定しなければならず、一歩たりとも動くことができない固定砲台と化してしまうという点だ。
故に、足を元に戻した状態であったとしても、元来が狙撃手である彼女は、接近戦や白兵戦を不得手としていた。
音速を超える、凄まじい機動力をもって迫り来たセラエナと、超近距離で正面から対峙し、真っ向勝負を演じることなど、アディラにとっては自殺行為に等しかった。
だからこそ、彼女は一刻も早くセラエナの位置を捕捉し、十分な間合いを取り直さなければならなかったのだ。
(――っ、クソが! 油断した……油断した、油断したッ!!)
崩れ落ちる壁の陰に身を滑り込ませながら、アディラは胸の内で猛烈な自己嫌悪と焦燥を噛み殺していた。
思い返せば――生前の頃から彼女は一度だって、敵に対して"仕留めた"などという油断や慢心を抱いたことなどなかった。
他人を撃ち抜き、あるいは撃ち返された死線の日々において、相手の呼吸が完全に止まる瞬間まで警戒を解かないことこそが、彼女が生き残るための唯一の法則だったはずなのだ。
なのに――。
この異世界へと召喚され、なまじ"姫"としての力を手に入れてしまったばかりに。
(あんな一撃を胸に食らって、立ち上がれる奴なんているはずがねえ――なんて、一瞬でも頭に過らせちまった……!)
ギリ、と奥歯が砕け散るほど激しく噛み締める。
かつての自分なら絶対に犯さなかった致命的なミス。
己の内に芽生えていた微かな万能感と油断が、目の前の怪物に超近距離への肉薄を許し、この危機を招いてしまったのだ。
(なら……このまま、どうにか距離を取って、もう一度狙撃の姿勢に――)
脳裏に浮かんだその選択肢を、アディラは即座に激しく否定し、かぶりを振った。
ダメだ。そんな逃げの選択は通用しない。
相手は胸を撃ち抜かれ、血を撒き散らしながらも、数キロの距離を一瞬で詰めてきた不屈の怪物なのだ。
今ここで背中を向けて逃げ回ったところで、その圧倒的な機動力の前に再び間合いを詰められ、あの凄まじい踵落としで頭骨を叩き潰されるのが目に見えている。
今やるべきことは――逃げることではない。
この煙塵と瓦礫が入り乱れる極小の間合いの中で、何としてもあのレオタードの"姫"の姿を捕捉し、ゼロ距離からその肉体を撃ち抜くこと。
"姫"は死なない。不条理の肉体を誇る怪物だ。
ならば、この砦の崩落に巻き込まれ、石塊の下に埋もれた程度で、命を落とすはずなど毛頭なかった。
とはいえ、無傷というわけでもない――要は、その恐怖と痛みを乗り越えられるかだ。
(覚悟を決める時が来たってこったな……! いいぜ、ウチもここで……腹くくってやるよ……ッッ!)
アディラは崩れ落ちた巨大な外壁の破片――斜めに突き刺さった分厚い石組みの頂点へと身を滑り込ませると、そこを臨時の砲床として己の体幹を固めた。
ギチギチギチギチ……ッ!
大気中に不快な肉体変形音が重々しく響き渡る。
アディラの右脚の骨格と筋肉が凄まじい密度で圧縮・再構築され、服を破って黒光りする強固な鋼鉄の銃身――大口の狙撃銃へと姿を変えていった。
足裏が頑丈な石組の表面へとしっくりと固定され、周囲の瓦礫が与える僅かな振動すらも、アディラの優れた体幹によって完全に吸収されていく。
魔力が右脚の砲身へと怒涛の勢いで補充され、甲高い高周波の駆動音が耳朶を打つ。
アディラは膝を折り、目元へと引き寄せた照準器越しに、白煙の立ち込める崩落現場の全域を冷徹に捜索し始めた。
(どこだ……どこに行った……あの女……ッ!)
息を殺し、心拍数を極限まで低下させる。
視界を埋め尽くす白い土煙、パラパラと落ちる石片の隙間。網膜の隅々まで神経を研ぎ澄ませ、敵の呼吸、微かな魔力の揺らぎを逃さず追う。
そして――ほんの数秒の捜索の末、サイトの中央に、その姿が鮮明に捉えられた。
半ば崩れ終わった古砦の西側の壁沿い。
立ち込める白い土煙が風に煽られて薄れたその先、瓦礫の山の上に、ぽつりと佇む人影があった。
詰めた髪を風になびかせ、破れたレオタードの胸元から血を流しながらも、変わらぬ凛とした姿勢でそこに立つ少女――セラエナ。
彼女は、アディラが身を潜めているこの場所の存在には、まだ全く気づいていない様子であった。
アディラの砲口と、セラエナの背中。
その距離、わずか五十メートル足らず。
超遠距離精密射撃を専門とするアディラにとって、この間合いはもはや外すことすら不可能な距離であった。
アディラの右膝に集圧された魔力が、激しい熱を帯びて高酷な鳴動を上げ始めた。
照準の中心が、セラエナの胸の中心へと寸分違わず重なり合う。
(……悪いな。恨むなら、派手に砦を崩した自分を恨めよ――)
アディラは胸の内で静かに告げ、右脚のトリガーへと指をかけた。
次の瞬間には、死の光条が白鳥の少女を呑み込み、この戦いに終止符が打たれるはずであった。
――しかし。
アディラの右脚の中で、撃鉄の落ちる音は響かなかった。
(―――――っ!?)
アディラの胸中に、激しい衝撃が走った。
引き金が、引けない。
指に力が入らないというわけではなかった。
魔力の回路が途切れたわけでもない。
ただ――アディラの魂の根底にある"何か"が、この土壇場において、彼女の意思を強く引き止め、魔力の解放を躊躇させたのだ。
(駄目だ……撃てねえ……ッ!)
アディラの額から、ダラリと冷や汗が伝い落ちた。
目の前にいるのは、自分を殺しに来た敵の“姫”だ。
ここで撃たなければ、次の瞬間には自分が殺されるかもしれないのだ。
あちらの世界でも、こちらの世界でも生き残るために、敵の背中だろうが何だろうが無感情に撃ち抜いてきたこの自分が――今、土壇場で引き金を引くことを躊躇っている。
アディラは胸の内で酷く舌を打った。
狙撃手にとって、躊躇は死を意味する。
引き金を引けない以上、この無防備な砲撃体勢を晒し続けることほど危険な真似は存在しなかった。
彼女は即座に右脚の魔法を解除し、足を強引に生身の肉体へと戻した。
この場所から一刻も早く離脱し、仕切り直すために、瓦礫の上を蹴って別の影へと躍り出ようとした――まさに、その瞬間のことであった。
「……疑問提起。どうして撃たなかったんですか?」
静かに。けれど、大気の揺らぎすら従えるかのような澄み切った声が、アディラの真後ろ――わずか数十センチの距離から響いた。
「―――っ!?」
アディラの全身の毛穴という毛穴が激しく開き、背筋に強烈な走熱が駆け抜けた。
旋風のように振り返るアディラ。
彼女のすぐ背後のに、いつの間にか彼女が舞い降りていた――そう、セラエナが。
「水鏡……反射現象です。どうやら、目には自身がお有りのようなので、欺かせていただきました」
「なっ……くそっ……!」
アディラは手元に魔力をかき集め、せめて魔力を纏った肉弾戦に備えようと、咄嗟に身構えた。
――しかし。
背後に現れたセラエナは、アディラへ向けて攻撃をしようとはしなかった。
セラエナは破れたレオタードの胸元から薄い血を滲ませながらも、アディラを静かに見つめると――アディラに向かって恭しく頭を下げたのだ。
戦場の殺伐とした空気とは到底噛み合わない、礼節の所作。アディラはその予想外すぎる行動に毒気を抜かれ、かき集めた魔力を思わず滞らせてしまった。
頭を上げたセラエナは、一切の敵意を感じさせない、けれど透き通るように強い声音で、己の名のりを上げた。
「私はプレアデス聖教国騎士団長、セラエナ・レイク=オーディット。……あなたに、お話がございます」
澄み渡る碧眼が、アディラのサファイア色の瞳を真っ直ぐに見据えて放たれる言葉。
アディラは口の端を引きつらせ、警戒と動揺を隠しきれない声で吐き捨てた。
「……話、だと……?」
彼女の問いかけに対し、セラエナは一呼吸だけ静かに間を置くと、その凛とした可憐な唇を滑らかに開いた。
風が二人の間を吹き抜け、崩れ落ちた古砦の土煙を彼方へと連れ去っていく。
その静寂の中で、白鳥の"姫"は、一切の躊躇いもなく、それを口にした。
「単刀直入。あなた――寝返りませんか、こちら側に」




