360話「故郷の風に」
◆◇◆
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
荒い息が、乾いた喉から薄い白煙となって漏れ出た。
帝国と連邦の国境沿い。標高数百メートルの高地にひっそりと佇む、古びた石造りの監視砦。その屋上に陣取っていたアディラは、全身の肉体を強張らせていた緊迫感を緩め、ゆっくりとアイアンサイトから視線を外した。
(……ギリギリだった。今度こそ、終わったかと思ったが……)
額から伝う粘ついた汗を右腕の袖で乱暴に拭いながら、アディラは胸の内で小さく息を吐いた。
数キロメートル先――空中に漂っていたレオタード姿の"姫"。
(本当のところを言えば、ドタマをブチ抜いて終わらせたかったが……いや……まあ、そこまでは要らねえか)
アディラが放った一射は、たとえ不死身の"姫"であっても、まともな継戦など到底不可能なダメージを負うはずだった。
アディラは深々と息を吐き出すと、集圧していた体内の魔力をゆっくりと解除した。
ギチギチ……と嫌な肉体変形音が響き、大口径の無骨な鋼鉄の銃身へと変化していた彼女の右脚が、元のしなやかな生身の脚へと戻っていく。
長時間の超遠距離精密射撃によって強張っていた関節を軽く回し、体重を両足へと預け直す。
そして、彼女は煙管をくわえ直し――右手の指先に集中させた魔力の熱を焚べ、刻みタバコが詰まった雁首へと火を灯す。
紫煙が、一筋の細いラインを描いて空中へと上り、高地の涼やかな風に煽られて揺らめき散っていった。
煙管の吸い口をゆっくりと口に含み、紫煙を肺の奥まで深く吸い込んでから、アディラは何気なく砦の縁へと歩み寄った。
煙管を指に挟み、吹き抜ける風を感じながら、彼女は眼下に広がる世界へと視線を向けた。
帝国と連邦の国境沿いに位置する、この高台からの見晴らし。
緑豊かななだらかな丘陵地帯と、その向こう側に遠く小さく見える、透き通った青い入り江の水平線。
そして、斜面にへばりつくようにして点在する、穏やかで静かな農村部の集落の景色――。
戦火と重油の匂いに包まれているフォルナクスや、今や戦地となってしまったフォーマルハウトの巨大な都市部から遥か遠く離れたこの土地には、避難しきれなかったのか、あるいは戦争の気配から取り残されたのか、まだ僅かに地元住民たちの慎ましい生活の気配が残されていた。
煙突から立ち上るささやかな薄煙。放牧地で草を食む家畜の姿。
アディラがあれほどの大音響を轟かせて大口径の砲撃音を何度も周囲に響かせたのだ。流石にこの期に及んで外を出歩いている能天気な住民など一人もいるはずがなかった。皆、固く扉を閉ざし、家の中で嵐が過ぎ去るのを祈っているに違いない。
だが――それでも。
その静謐な農村の光景は、アディラの胸の奥底に眠っていた郷愁を強力に刺激するには、余りにも十分すぎる代物であった。
(……似てんなぁ……)
アディラは煙管の煙を吐き出しながら、目を細めた。
この景色は、彼女があちらの世界で生まれ育った故郷――ユトランド半島はスキーヴェの景色に、驚くほどによく似ていたのだ。
風になびく緑の牧草地。穏やかなリムフィヨルドの海の輝き。静かに時を刻む小さな街並み。
かつて、"姫"として異世界へ召喚される前の自分。
その頃の記憶が、煙草の苦い匂いと共に、脳裏へとしんしんと広がっていく。
(……いや、もう考えたって仕方ねえか。ウチはもう、戻れやしねえんだから)
自嘲気味に、アディラは首を横に振った。
それは単に、異世界へ来てしまったから物理的に帰れない、という生易しい話ではなかった。
もっと深い、彼女の魂の根本的な部分において、彼女の心はすでにあの清廉な故郷の街から永遠に途絶えてしまっていたのだ。
どれほど景色が故郷に似ていようとも、自分はもう、あの静かな町で生きていけるような人間ではない。
遠くの入り江を見つめるアディラの思考の奥底で、一人の女性の姿が不意に浮かび上がってきた。
『――ディーネ。善く、善く生きなさい』
ディーネ。
それが、アディラが"姫"となる前の、彼女の本名であった。
そして、そんな彼女に送られた、どんなに貧しくとも、他人を脅かさず、誠実に、正しく生きなさいという、切実なまでの祈り。
だが――今の自分はどうだ。
善く生きるどころか、向こうの世界でも、こちらの世界でも、暴力と硝煙の中に身を置き、他人の悲鳴を嘲笑うような悪党の道具として使い潰されている。
「――ハッ」
アディラは紫煙を空へ吹き出すと、吐き捨てるように自嘲の笑みを浮かべた。
「ざーんねん。あんたの娘は……向こうでもこっちでも、悪モンの使いっ走りですよ、っと」
煙管の先端に残った灰をトントンと手すりに叩きつけ、ぽつりと呟く。
そうして、己の運命を自虐的に嗤った、まさに次の瞬間のことであった――。
「――善因善果、ならば、悪いことなど止めればいいではないですか」
静かに。けれど、高地の風の音を破って、あまりにもはっきりとアディラの耳元で響き渡った声音。
それは、冷徹なまでに澄み渡り、凛とした強靭な意志を宿した少女の声であった。
「―――っ!?」
アディラのアドレナリンが一瞬で沸騰し、全身の毛穴という毛穴から猛烈な冷や汗が噴き出した。
あり得ない。絶対に、あり得ない。
ほんの数十秒前まで、彼女は数キロメートルも離れた上空において、アディラの魔力弾をその胸元に真っ向から食らい、空中から地表へと撃墜されたはずなのだ。
どれほどタフな"姫"であっても、まともに心臓や胸郭を粉砕されれば、指一本動かすことすら不可能なはずであった。
なのに――なぜ。
なぜ、その声が、目と鼻の先から聞こえてくるのか。
アディラが反射的に喉を鳴らし、目を見開いて正面へと顔を上げた瞬間――そこに広がっていたのは、悪夢のような光景であった。
高地の強い風を受け、そこに佇んでいたのは、他でもない、あのレオタード姿の"姫"――セラエナであった。
「な……ッッ!?」
アディラは息を飲んだ。
セラエナの胸元のレオタードは、先ほどのアディラの弾によって無惨に大きく破砕されていた。
透き通るような白磁の肌には生々しい亀裂が走り、そこから朱色の鮮血がボタボタと滴り落ちて、彼女の胸元を赤く染め上げている。
明らかに、普通であれば即死、あるいは身動きすら取れないほどの致命傷。
しかし――セラエナのその碧眼には、激痛への怯えも、恐怖も、一ミリたりとも存在していなかった。
数キロの距離を、胸を穿たれた状態で、一瞬で肉薄してきた白鳥の怪物。
「あんた……っ! 胸を撃ち抜かれておいて……なんで動けるッ!?」
アディラが叫ぶ。だが、セラエナはその問いに答えることすら惜しむように、すでに次の動作へと移行していた。
セラエナの動きには、一瞬の隙も、僅かすらも無駄なものは存在しなかった。
アディラの目の前――わずか数メートルの至近距離。
セラエナは風を孕むように軽やかに踏み込むと、その長くてしなやかな右足を、まるで舞踏の極致を見せるかのように、天高くへと一直線に振り上げた。
すうっ、と重力を無視して垂直に立ち上がる右足。
セラエナの脚部から解き放たれるのは、黒鳥の影を纏った不気味なほどの破壊の衝撃波。
天高く掲げられたその右足は、まるで処刑台から振り下ろされる巨斧であり、あるいは城門を叩き潰す巨槌そのものであった。
「――っ、しま……ッッ!!」
アディラは、生身の脚を再び魔導狙撃銃へと変形させ、至近距離からの緊急迎撃を試みようと、脚を突き出した――まさに、その瞬間。
天高く垂直に固定されていたセラエナの足先が、アディラが陣取っていた古びた石造りの砦の屋上へ向かって、流星の如き凄まじい加速度をもって垂直に振り下ろされた。
「――"黒湖泥濘・旋脚戦鎚"―――ッ!!!」
ズドォォォォォォォォォンッッッッ!!!!!!!!
空間が、激しく破砕した。
セラエナの放った極大の踵落としが、目の前の壁面――そして、彼女が身を隠していた厚さ数メートルにおよぶ頑丈な古砦の屋上へと直接叩き込まれたのだった。




