359話「黒の冷気と歪む"姫"」
アダーラの突き出した右手から解き放たれたのは、大気を一瞬で凍土へと変えるほどの凄まじい密度の冷気の濁流。
対する私は、溶融硝子の翼の爆発的な全推進力を乗せ、高熱の硝子槍を構えて正面から突進していた。
赤熱する焦熱と、死をもたらす絶対零度。
二つの領域が交錯した瞬間、空気の密度が異常なほどに跳ね上がり、激しい衝撃波と蒸気の爆風が吹き荒れた。
――しかし。
ぶつかり合った瞬間、私の掌に伝わってきたのは、想定していたような手応えではなかった。
「……っ!?」
拍子抜けするほど呆気なく。
アダーラが放った膨大な冷気の膜は、私の放った重槍によって、まるで薄い氷の膜でも打ち破るかのように容易く貫通され、四散したのだ。
勢いを殺されることなく突進を継続した私の槍は、その鋭利な切っ先をもってアダーラの胸元を完璧に捉えていた。
「あっ……!」
アダーラの口から、小さく悲鳴が漏れる。
彼女は全戦闘本能に従い、力任せに体を真横へと倒した。
凄まじい摩擦音と、肉が焼ける不快な異臭。
私の槍先はアダーラの心臓を穿つことこそ逃したものの、彼女の小さな右肩口の肉を強烈に抉り取り、そのまま吹き飛ばした。
抉られた肩口からは、本来であれば朱色の鮮血が勢いよく吹き出すはずであった。
しかし、私が纏っていた高熱により、傷口の肉と血管は血が流れ出る余白すら与えられず、一瞬にして不気味に黒く焼き固められていた。
肩口を焼かれ、攻撃の衝撃波を身に受けたアダーラの体は、弾丸のように後方へと吹き飛ばされ、激しく転がっていった。
私は着地と同時、すぐさま槍を構え直し、追撃の体勢を整えながらも――胸の中には、言葉にできない巨大な困惑が渦巻いていた。
(……どういうこと……!? 呆気なさすぎるわ……!)
冷や汗が、私の額から頬へと伝い落ちる。
おかしい。あまりにもおかしい。
先ほどアダーラが放った冷気は、確かに直前の攻撃よりも圧倒的な密度と魔力を誇っていた。
彼女が暗い狂気を宿し、身体から溢れ出させたあの気配は、間違いなく彼女が自身の魂の深層――"根源"の領域へと足を踏み入れた兆候そのものであったはずなのだ。
もしもアダーラが私と同じように"根源"を完全に覚醒させていたのだとしたら、私の焦熱の槍と彼女の冷気は、もっと凄絶な拮抗を引き起こし、私の方こそ吹き飛ばされていたかもしれない。
なのに――結果は、私の完全な一方的な勝利。
困惑していたのは、攻撃を叩き込んだ私だけではなかった。
石畳の上を何メートルも転がり、どうにか崩れるように膝を突いて立ち上がったアダーラ。
彼女は黒く焦げ付き、肉を抉られた右肩を左手で押さえながら、信じられないとでも言いたげに目を限界まで見開いていた。
「あ……あ……っ?」
彼女の小さな唇から、言葉にならない掠れた声が漏れ出る。
ふらふらと覚束ない足取りで後方へと後退りながら、彼女自身もまた、己の手に何が起きたのかを理解できずに動揺しているようだった。
その彼女の惨状と、私に向かって漂ってきた冷気の余波を感じ取り――私の思考は、そこに行き着いた。
(アダーラは……"根源"の力が……使えなかったの……!?)
息を飲む。
"根源"の領域について、私自身も完璧に理論を理解できているわけではない。
私にとってあれは、プレアデスの修行場にて、どうにか己の魂の深層に触れ、奇跡的に引きずり出した力に過ぎないのだから。
けれど、これだけは断言できる。
もしもアダーラが"根源"を十全に発動させることができるのなら、この敗北の直前という土壇場において、それを使わない理由などどこにも存在しないのだ。
つまり――理由はわからない。
何故、これほどまでに圧倒的な死を撒き散らしてきた帝国の怪物が、魂の深層の扉を開くことに失敗したのか、その根本的な原因までは私には知る由もなかった。
だが、理由はどうあれ、アダーラは"根源"を使えないという事実だけは揺るがない。
となれば――馬力においても、出力においても、空間の支配率においても、今の私がアダーラに押し負ける道理など、どこにも残されていない。
(なら……ここで決める……! 次は確実に心臓を貫いて……戦えないようにすれば、私の勝ちよ……!)
私は背中の溶融硝子の翼へ向けて、再び体内の全魔力を怒涛の勢いで注ぎ込み始めた。
地面を強く踏みつけ、突進の初速を高めるための体勢を整える。
――しかし。
私が再び大気を蹴り破って跳び立とうとした、まさにその直後のことであった。
「……なんで」
ポツリ、と。
崩れた石畳の上で肩を押さえていたアダーラの口から、震えるような小さな呟きが落ちた。
その声の質に、私の身体が、猛烈な寒気と共に凍りついた。
「……なんで……? なんで……わたしには……できないの……?」
アダーラは、血の気の引いた顔をゆっくりと持ち上げた。
彼女の視線は、焦点が完全に定まっておらず、まるで空虚な暗闇を彷徨うかのように不気味に揺れ動いていた。
肩の焼け焦げた激痛すら、もう彼女の意識には届いていない。
ただ純粋な困惑、理不尽への苛立ち、そして底なしの絶望が、彼女の精緻な顔を醜く歪ませていく。
それと同時に――彼女の小柄な体を中心として放たれ始めた気配が、明確に、そして悍ましく変質を開始した。
ズズズズズズ……ッ!
"大沸流坑"を満たしていた熱気と冷気が、これまでの規則正しい魔法の波動とは全く異なる、不気味で禍々しい歪みを帯びて凝縮を始める。
黒ずみ、歪み、不快な高周波の摩擦音を立てながら、アダーラの周囲の空間そのものが、まるで捻じ切られた硝子のように歪んでいく。
その異質極まる魔力の奔流を目にした瞬間、私の足は、突進の体勢のままピタリと石畳の上に縫い止められてしまった。
(――あ、あれ……は……ッッ!?)
背筋を、氷の針で突き刺されたかのような激しい戦慄が駆け抜ける。
知っている。私は、この禍々しい力の正体を確かに知っていた。
かつて、あの極寒のガーランドの地における決戦。アルトが死闘を繰り広げ、ギリギリの激戦の果てに討ち果たした、帝国側のもう一人の"姫"――"赤ずきん"。
彼女は、己の内に抱える激しい激情や憎悪、そして背負う物語への屈折した執着ゆえに、自らの物語の枠組みそのものを破壊し、異形へと変貌を遂げたという。
"姫"が、その抑えきれぬ感情の爆発によって、背負うべき物語すらも歪めてしまった時に発動する暗黒面――。
――"歪み"。
物語のルールすら無視し、配役の理を力任せに破砕して暴走する、あまりにも恐ろしい闇の力。
(マズい……マズいわ……! アダーラが……"歪み"に呑み込まれようとしている……!!)
根源に至れなかった絶望と困惑が、彼女の中の『雪の女王』という物語を不気味に歪ませ、より凶悪で不条理な怪物へと変貌させようとしているのだ。
もしも……もしも彼女が完全に"歪み"きってしまえば、その先にあるのは手がつけられないほどの破壊と惨劇だけである。
(――っ、でも、やるしかないわ! 完全に歪みきる前に……ここで仕留めないと、誰も手がつけられなくなる……!)
恐怖を力任せにねじ伏せ、私は翼に自らの魂のすべてを注ぎ込んだ。
迷っている時間などない。
アダーラが完全に魔力を解き放つ隙を突き、私の持てる最大最強の技をもって、彼女を完全に破砕して閉じ込めるしかなかった。
「――ハァァァァァァァァッッッッ!!!!」
私の叫びと共に、背中の翼が激しい熱波を吹き上げながら、全方位へと向かって限界を超えて拡張・展開された。
ドワァァァァァァァァッッッッ!!!!!!!
千度を超える赤熱した流体硝子が、アダーラを中心に、半径数十メートルに及ぶ巨大なドーム状の完全密閉空間を一瞬で形成する。
湿った床、鋼鉄の支柱、さらには天井の配管網までもを呑み込み、アダーラを逃げ場のない焦熱の檻の中へと完全に隔離した。
不条理な高熱によって、ドーム内部の大気は一瞬で歪み、呼吸すら不可能な灼熱の死地へと変貌を遂げる。
だが――この大魔法の真価は、単なる熱密閉などではなかった。
「――"玻璃の聖殉釘"ッッ!!!!」
私の覚悟の叫びに呼応し、溶融硝子のドーム内壁全体から、ギチギチギチと嫌な金属摩擦音が響き渡った。
千度の棘の群れが、アダーラの華奢な身体を完全に呑み込み、撃ち抜かんと肉薄する――。
(勝てる。これで確実に、彼女を終わらせることができる――!)
そう、胸の中で確信めいた叫びが上がった、まさにその刹那のことであった。
「――もう」
数千の高熱の棘が殺到するその最中心から、信じられないほど静かで、透明な呟きが漏れ聞こえてきた。
それは、世界に対する一切の感情、温もり、未練を残らず削ぎ落としたかのような、不気味な死の声音。
「――なにも、いらないや」
その呟きの直後。
私が展開していた"玻璃の聖殉釘"のドーム、そしてアダーラへと刺さるはずだった数万の焦熱の棘が一瞬にして――真っ白に凍りついた。
「――なッ!?」
私の口から、驚愕の悲鳴が漏れた。
あり得ない。絶対に、あり得ない現象が目の前で起きていた。
私が放っていたのは、最高熱の硝子であり、魂の"根源"から引きずり出した絶対の熱量だ。
それが……法則すらも完全に無視し、内側から瞬時に白濁した不気味な氷へと変質させられていたのだ。
バリパリパリパリパリパリッッッッ!!!!
ドームの内側から広がる、不気味な氷結の侵食。
赤熱していた溶融硝子が、一瞬にして不透明な白い硝子へと凍てつき、そのまま破砕の悲鳴を上げ始める。
まるで――極寒の猛吹雪の中に放置され、急速凍結された繊細な花びらが、巨大な悪魔の手によって力任せに握り潰されるかのように。
バギィィィィィンッッ! ガシャァァァァァンッッ!!!!
私が持てる全ての魔力を注ぎ込んで作り上げた巨大な硝子の半球が、内側から弾け飛び、粉々に砕け散って石畳の上へと崩落していった。
舞い散る、白濁した硝子と氷の鋭利な粉塵。
その白く濁った破片のカーテンの向こう側に、ゆらりと立ち上がっていたのは――。
「……あ……っ……」
私の声が、喉の奥で酷くかすれ、絶句した。
そこにいたのは、もはや私の知るアダーラではなかった。
右肩の焼け焦げた傷口すらも、不気味な氷の結晶によって強引に塞がれ、その全身からは、この場の全熱量を一瞬で死へと追いやるほどの、惨烈極まる黒い冷気が渦を巻いていた。
彼女の瞳からは一切の光が消え去り、まるで氷で作られた人形のように、完璧で、冷酷で、死そのものを体現したような異形――。
"歪み"きった"雪の女王"アダーラが、白煙の中から、静かにその恐ろしい姿を現したのだった――!




