358話「女王の根源」
空間を満たしていた冷気が、悲鳴を上げて蒸発していく。
私の背中に顕現した、一対の"翼"。
千度を遥かに超える高熱の溶融硝子が、まるで生き物のように蠢き、赤熱した光を撒き散らしながら、大気を凄まじい勢いで加熱させていた。
バサァッ……ッ!
私がその翼を力任せに一羽ばたきさせるたび、太陽の破片を直接叩きつけたかのような灼熱の熱風が、"大沸流坑"の全域へと向かって暴風となって駆け抜ける。
先ほどまでボイラー室の支柱や床面を真っ白に覆い尽くしていたアダーラの絶対零度の霜が、不気味な音を立てて瞬時に溶け落ち、蒸気となって上空へと消え去っていく。
(……動ける……! 翼が、私の手足と同じように……ううん、それ以上に思い通りに駆動してくれているわ……!)
背中から伝わる、熱い血脈の鼓動。
プレアデスで魂の"根源"へと至り、引きずり出したこの灼熱の不条理は――強敵たちとの死闘を経て、もはや単なる防御や飛行の道具ではなくなっていた。
私は赤熱する翼の推進力を爆発させ、湿った石畳の上を低空で滑走した。
シュンッ!
残像すら置き去りにする超音速の機動。
巨大なボイラーの管面をなぞるように滑空しながら、私は背中の流体硝子の一部を触手のように伸長させ、前方の支柱へと力任せに打ち据えた。
熱で赤く染まった溶融硝子の打撃が、鋼鉄の支柱を軽々と溶断し、破壊の火花を撒き散らす。
羽ばたきによって周囲の気温を限界まで引き上げ、攻撃の威力を増幅させ、さらには翼そのものを変形させて打撃や刺突の武器として振るう。
対するアダーラは、押し寄せる熱波の風上へと退避を重ねていた。
彼女が足元から生成する氷の床は、私の翼が撒き散らす圧倒的な熱量によって瞬時に溶かされ、満足な滑走すら許されていない。
空間の支配権は完全に、私の手に握られていた。
「くっ……"女王の酷刑・首吊りの――"」
押し込まれたアダーラが、歯を食いしばりながら叫んだ。
大気中の水分が一瞬で極細の結晶へと凝縮され、まるで大蛇のようにうねる、数本の白濁した氷の縄へと姿を変える。
それは擦れ違いの暴風を潜り抜け、私の動きを完全に封じ込め、その首元を絞め殺さんとして目にも留まらぬ速度で迫り寄ってきた。
――だが。今の私にとって、そんな攻撃はもはや脅威となり得なかった。
「――もう、あなたの冷気じゃ、私は凍てつかないわ」
私は低く叫ぶと、背中の溶融硝子の翼を前方へと向けて大きく一閃させた。
ドッッッッッ!!!!!
翼の表面から解き放たれたのは、膨大な熱量を誇る溶融硝子の高熱弾丸、そして熱風の極大障壁であった。
迫り来ていた氷の縄は、私に接触することすら叶わず、バチバチと音を立てて水蒸気へと一瞬で溶かされ、蒸発して消滅した。
それだけに留まらない。
解き放たれた無数の高熱弾丸が、大気を爆ぜさせながら、アダーラへ向かって一直線に降り注いだ。
ドガガガガガガガガッッッッ!!
「……っ!?」
アダーラは咄嗟に両手を交差させ、自身の正面へ向けて何重もの氷の多層防壁を展開した。
しかし――かつてなら私の硝子を易々と粉砕していた彼女の絶対零度の壁も、高熱を帯びた"根源"の弾丸の前には脆く崩れ去るしかなかった。
バギィィィン! ズドォォォンッ!
一発、二発と弾丸が突き刺さるたび、氷の防壁には巨大な亀裂が走り、熱によって表面がドロドロと溶け出していく。
最後には防ぎきれなくなった防壁が豪快に弾け飛び、衝撃波の余波を受けたアダーラは、小さな悲鳴と共に数十メートル後方へと激しく吹き飛ばされた。
転がるようにして石畳の上を打ちつけられ、どうにか膝を突いて着地するアダーラ。
その衣服の端は熱で黒く焦げ、綺麗な頬には薄っすらと熱傷の赤みが刺していた。
形勢は、完全に逆転していた。
少し前まで、私はアダーラの前に追い詰められ、首元へ氷刃を突きつけられて絶体絶命の淵に立たされていたのだ。
だが――"根源"を解放した今。
アダーラは私の背中に輝く溶融硝子の翼を破る術を持たない。
(――これなら、いけるわ……!)
胸の奥で、確固たる手応えが激しく脈打つ。
プレアデスの地で己の過去と向き合った成果が、いま目の前で確実に結実している。
アダーラをここで戦闘不能に追い込むことができれば――私はすぐにでも、ミラクの元へ駆けつけることができる。
(待っていて、ミラク……! 今、助けに行くから……!)
私は全身の魔力を右足の踏み込みへと集中させた。
濡れた石畳を強く踏みつけ、翼を大きく引き絞る。
熱風を巻き上げ、更なる爆発的な推進力をもってアダーラへトドメの一撃を叩き込もうと、再び空中へ跳び立とうとした――まさに、その瞬間であった。
「――おねえちゃんだけ、ずるいよ」
ぽつり、と。
膝を突いたままのアダーラの口から、小さく、けれど恐ろしいほどに透き通った呟きが漏れ出た。
「……え……?」
私が呼吸を止めて見つめる先。
伏せられていたアダーラの顔が、ゆっくりとこちらへ向けて持ち上げられていく。
そこに広がっていたのは――これまで彼女が見せていた無感情な空っぽの表情ではなかった。
アダーラ瞳の奥底に、先ほどまで存在しなかった、暗く、禍々しく、そしてどこまでも深い狂気の光が、泥のようにドロリと宿っていたのだ。
ドッ……!
次の瞬間、大沸流坑の空間全体が、嫌な音を立てて激しく震えた。
アダーラを中心として、溢れ出す冷気の質と量が、二次関数的な異常な跳ね上がりを見せ始める――。
パリパリパリパリパリパリッッッッ!!
それは、先ほどまでの絶対零度すら温いと感じさせるほどの、あまりにも過酷な死の冷気であった。
私の背中の翼が放っていた、灼熱の熱風。
周囲の空間を支配していたはずの焦熱の領域が、アダーラの体内から湧き出る暗い冷気の奔流によって、凄まじい音を立てて押し戻され、削り取られていく。
ボイラーから吹き出していた過熱水蒸気が、空間に届くより早く白い氷片となって空中へと沈降する。
石畳が、鋼鉄の支柱が、天井の配管網が、アダーラの冷気に触れた先から白濁色へと変貌していく。
その常軌を逸した魔力の変容、そして魂の奥底から引きずり出されてくる圧倒的な圧力に――私の全神経が、激しい警鐘を鳴らし始めた。
(……っ!? この……魔力反応……この、魂の深層が疼くような感覚……まさか……ッッ!?)
知っている。私は、この波長を知っている。
聖教国プレアデスで私自身が辿り着いた境地、そして、"零落の聖女"エレクトリアが放った、凄絶な一撃。
己の魂の根幹に触れ、魂の形そのものを世界へと叩きつける、あの絶対の領域――。
(……嘘でしょ……!? まさか……アダーラも……"根源"の魔法が使えるというの……っ!?)
背筋を、恐ろしいほどの冷痛が駆け抜けた。
冷や汗が、私の額からダラリと伝い落ち、顎から滴り落ちた。
考えてみれば、それは至極当然のことだったのだ。
彼女は我が物顔で死を振り撒いてきた帝国軍の"姫"の一角であり、不条理なる『雪の女王』の物語を背負う本物の怪物。
そんな彼女が、魂の深層――"根源"の領域へと足を踏み入れていたとしても、何の不思議もなかった。
(マズい……! マズいわ……っ!!)
脳内で、警報が狂ったように鳴り響く。
いま、私が溶融硝子の翼によって得ている圧倒的な有利。
アダーラを押し込み、勝利の手応えを掴みかけていたこの戦況のすべてが――もしも彼女に"根源"を発動されてしまえば、それは崩れてしまう。
(発動させる前に……潰す……!)
思考を捨て、私は全魔力を背中の溶融硝子の翼へと叩きつけた。
千度の液体硝子が背中から超高圧の噴射となって吐き出され、私の身体を弾丸以上の速度でアダーラへ向けて射出させた。
残像すら描かせない、最速・最大の突進。
私は手元に集中させた流体硝子を、一筋の巨大で研ぎ澄まされた重槍へと変形させた。
アダーラの胸元――その生命の核を、彼女が"根源"を完全に解放しきるよりも早く、撃ち抜いて破砕するための刺突。
「ハァァァァァァァァッッッッ!!!!」
私の叫びが、赤熱する大気を切り裂く。
目にも留まらぬ速度で肉薄する私の視界の向こう側。
膝を突いたアダーラが、暗い光を宿した瞳で私を真っ直ぐに見つめ返し――そのたおやかな右手を、ゆっくりと、けれど拒絶するように前方へと差し出してきた。
彼女の小さな手に凝縮されていくのは、全存在の運動を停止させ、世界そのものを死へと追いやるほどの、惨烈極まる絶対零度の極光。
アダーラが己の内に眠る渾身の魔力を解放し、その掌から"根源"の一撃を解き放とうとする――。




