357話「翼を広げて」
死の冷気が、私の喉元の皮膚を直接凍てつかせ、不快な痺れと激痛が神経を焼き切ろうとしていた。
目の前で、不気味なほど静かに冷気を集めるアダーラ。
逃げ場はない。
背中を屈曲した鋼鉄配管に叩きつけられたままの私は、防御陣を形成することすら叶わず、ただ己の喉元へ向かって絶望的な精度で迫り来る白濁色の死刃を見つめることしかできなかった。
――これで、終わりなのか。
ザウルの裏切りによって完成してしまった、絶対無欠の"雪の女王"。その不条理の前に、私は何の爪痕を残すこともできずに絶命するのか――。
死の覚悟が私の脳裏を掠めた、まさにそのコンマ一秒の刹那。
――ピキッ。
微かな、けれどあまりにも不自然な亀裂の音が、アダーラの右手の甲から響いた。
「……なに、これ」
アダーラの可憐な唇から、怪訝そうな低く幼い声が漏れた。
彼女の指先に収束し、私を穿つはずだった絶対零度の冷気の渦。
その高密度の冷気の高まりが、まるで目に見えぬ泥の中に足を取られたかのように、明らかに、そして異常なほどに"遅れて"いた。
その声に、僅かな困惑と不審の色が差す。
アダーラ自身すらも予期していなかった、冷気の生成速度の致命的な狂い。
(……え……っ!?)
私は理由を問う暇すら惜しんだ。
この二度と訪れない千載一遇の隙」を本能的に察知していた。
激痛に悲鳴を上げる全身の筋肉を力任せに駆動させ、背しろの破損した配管を足裏で強く蹴りつけた。
ドバァァァンッ!
配管から吹き出す白い過熱蒸気を背に受けるようにして、私の身体は弾丸となって後方へと弾け飛んだ。
石畳の上を激しく滑走し、アダーラとの間に十数メートルの距離を取る。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……っ!」
荒い息を吐き出しながら、私は膝を突いて滑走を止めた。
凍傷で麻痺した喉元を手で押さえ、血走った目で遠くのアダーラを見つめ返す。
(――っ、本気で危なかった……! 今の隙ができてなかったら……本当に終わってた……っ!)
冷や汗が額から溢れ落ち、首元を伝っていく。
もしもあそこで、アダーラの冷気の収束が一瞬でも遅れなければ、私は今頃、喉から凍らされて、物言わぬ骸となっていたはずだ。
死の淵から間一髪で生還した安堵感と、心臓を直接掴まれるような恐怖。
だが――それ以上に、私の脳裏を強く支配したのは、一つの疑問であった。
(……どうして……? どうしてアダーラは、あの土壇場で動きを鈍らせたの……?)
私は荒い息を整えながら、周囲の空間へと素早く鋭い視線を巡らせた。
ボイラーの稼働音が重々しく鳴り響く、"大沸流坑"の暗がり。
飛び散った硝子の破片、白い霜に覆われた鋼鉄の支柱、そして――。
シューーーーーーーーーッッッッ!!!!!
私のすぐ目の前で、耳を刺すような高酷な噴出音を立てて白煙を上げ続けている、破砕された鋼鉄配管。
そこから勢いよく空間へと吹き出し続けているのは、ボイラー室の心臓部から汲み上げられた、千度近くにも達する超高圧の過熱水蒸気であった。
(……高熱の、蒸気……?)
私は眉をひそめ、己の頭脳を高速で回転させた。
勿論、アダーラが持つ不条理な絶対零度の前には、高熱の蒸気など本来であれば何の意味もなさない。
現に、彼女の身体から溢れ出る冷気の影響を受けた周りの配管や床面には、白く分厚い霜がびっしりと降り積もっているのだ。
常熱や多少の熱気程度であれば、彼女の存在そのものが一瞬で凍てつかせ、無へと帰してしまうはずだった。
――しかし。
先ほど私がアダーラの氷塊によって吹き飛ばされ、背後の配管を叩き破ったまさにその瞬間。
屈折した金属の亀裂から、高圧の過熱蒸気が突発的かつ爆発的に、周囲の空間へ向けて噴き出した。
その一瞬の出来事によって、アダーラの至近距離における空間温度が、急激かつ不自然に跳ね上がったのだ。
(アダーラの不条理な冷気は……あの突発的な温度上昇に対し、応答が一瞬だけ遅れた……? 局所的な高熱の急増に、冷気の収束が追いつかなかったというの……?)
導き出された推測。
だが――もしも私のこの推測が正しいとするのなら、そこにはあまりにも巨大で、歪な違和感が生じることになる。
(……だとしたら……でも、どういうこと……?)
思考が、不気味な底なし沼へと沈み込みそうになる。
(――ダメよ、私……っ!)
私は激しく首を振ると、思考の渦を力任せに脳の奥底へと押し込めた。
答えの出ない疑念や推測に、貴重な思考リソースを割り割いている余裕など、いまはないのだ。
目の前に立つのは、一瞬の油断すら命取りとなる"雪の女王"アダーラ。まとまりきらない疑問に気を取られていれば、次の瞬間には今度こそ本当の死が訪れる。
それに――理由が何であれ。
アダーラの冷気の収束が一瞬遅れ、私との間に間合いが生まれたという事実は変わらない。
唯一の好機。ここで怯み、脚を止めてしまっては、勝てる戦いすら勝てなくなってしまう。
(……もう、迷わない。ここで一気に畳み掛ける……!)
私は血塗られた右手を固く握り締めた。
(――もう、出し惜しみは無しだ)
腹を括った私の脳裏に、不意に苦々しい顔と、重々しい忠告の声が蘇ってきた。
『"根源"の力は、あんまり乱用しねえ方がいいぜ』
そう忠告してくれたのは、私の知る限り最も強い"姫"の一人――カノンだ。
しかし――私は胸の中で、彼女へ向けて静かに謝罪の言葉を紡いだ。
(……ごめんなさい、カノン。……それでも私は、ここで負けるわけにはいかないの)
私は、ここで自分のすべてを投げ打ってでも、アダーラを打ち破らなければならない。
身体の深層――魂の奥底に眠っていた高熱の“根源”の扉を、私は躊躇うことなく力任せに解き放った。
次の瞬間、私の背中から、猛烈な大爆発と共に灼熱の奔流が迸り出た。
現れたのは――あらゆる物質を溶かし尽くす、千度を超える高熱の流体。赤熱した灼熱の液体硝子が、巨大な二枚の翅脈となって私の背中に顕現したのだ。
翼が羽ばたいた瞬間、太陽の破片でも降臨したかのような凄まじい熱波が、暴風如く吹き荒れた。
先ほどまで空間を密閉していたアダーラの絶対零度の冷気。
ボイラー室の壁や配管にびっしりと張り付いていた白濁色の分厚い霜。
それらすべてが、私の背中の翼から放たれる圧倒的な熱量によって、一瞬にして蒸発し、根こそぎ焼き尽くされて消滅していく。
一瞬にして上昇する室温。
ボイラー室の生温かい空気すらも超え、大気そのものが赤熱した溶岩の窯へと変貌を遂げていく。
それはまるで――アダーラが展開していた冷たい物語の領域が、私の放つ焦熱によって力任せに塗り替えられていくかのようであった。
――この空間における支配率が、絶対零度の氷から、赤熱する硝子の熱へと、反転していく。
「……なに……それ……」
赤熱する熱波の風上。
舞い散る冷気を焼き払われ、押し戻されたアダーラが、瞳を大きく見開いていた。
彼女の無機質な顔に――戦闘が始まって以来初めて、明確な驚きと狼狽、そして微かな恐怖の色が浮かび上がっていた。
アダーラすらも気圧される圧倒的な熱量の奔流の中で、私は溶融硝子の翼を羽ばたかせ、まっすぐに彼女を見据えて言い放った。
「……アダーラ。あなたは確かに強いわ。……それに、自分の背負う物語をより強固なものにして、とんでもなく強大な存在になったことも理解している」
私の声が、赤熱する大気を震わせて響く。
「――でもね、そんなもの、私には知ったこっちゃないのよ。私は……"間に合わなかったシンデレラ"。 与えられた運命を自らの手で書き換えなければ、救いなんてどこにもないの――!」
物語に定められた結末。
そんなあらかじめ決められた悲劇のシナリオなど、私は認めない。
例え世界そのものを焼き尽くし、物語の枠組みそのものを粉砕することになったとしても――私は私の力で、未来を新しく書き換えなければならない。
私の叫びを聞いたアダーラは、不快そうに小さな眉をキュッとひそめた。
「……わかんないよ。……なにいってるの、おねえちゃん」
アダーラが、消え入るような小さな声で呟く。
私の解き放った熱波に肌を焼かれながら、彼女は拒絶するように、その華奢な両腕を頭上へと掲げた。
「あついのは、いや。……くるしいのも、いや……っ!」
見た目よりも遥かに幼い彼女の、痛切で身勝手な叫び。
「ぜんぶ……ぜんぶ、こおらせて……! ぜんぶ……ぜんぶ、ねむらせるの……っ!!」
ドッッッッッッッッ!!!!!!!!
アダーラの体躯から、私の熱波を押し返さんとする、これまでを遥かに凌駕する冷気が放たれた。
空間を焦がす赤熱の熱量と、すべてを死へと誘う絶対零度の冷気。
その只中へ、私は地面を蹴って、飛び込んでいく――!




