356話「"カイ"」
ザー……ザザッ……バリバリバリッ……!
"大沸流坑"に、突如として耳障りな金属摩擦音が響き渡った。
それは、吹き抜けた高い天井に設置された、放送設備から発せられた不気味なノイズであった。
不吉な雑音の余韻。
次の瞬間、そのスピーカーの奥から、歪んだ音質に乗って"ある男"の声が吐き出された。
『……へえ。じゃああんた、マジで裏切り者ってことでいいんだな。ザウラシス・アカル……!』
嗄れた、不敵な、けれど極限の焦燥と警戒を孕んだ低い声。
間違いなかった。それは、フォーマルハウトの最高指揮本部――"晶潮館"で作戦の指揮を執っているはずのギエナの声だった。
(……え……? ギエ、ナ……?)
アダーラと激しく火花を散らし合っていた私の脳裏に、激しい困惑と衝撃が走る。
ギエナさの言葉の意味が、一瞬だけ理解できなかった。
ザウラシス・アカル――あの、誰よりもこの水の都を愛し、市民の平和と復興のためにその身を粉にして働き、私たちを優しく迎え入れてくれた、ザウルが……裏切り者……?
(……どういう……こと? ザウルが……?)
嘘だ。そんなはずがない。
思考の糸が乱れ、激しい混乱が私の一身を駆け巡る。
だって、彼は誰よりも高潔で、誰よりも非道な殺戮を嫌っていたはずだ。
連邦のために、この街の未来のために、私たちと一緒に悩み、共に戦ってくれていたはずの仲間ではないか。
彼が私たちを嵌め、敵と通じて裏切るなんて――そんなことが、あり得るはずがない。
(お願い……嘘だと言って……! 誰か、否定して……っ!)
胸の奥で必死に叫び、否定の言葉を求めようとした――まさにそのコンマ一秒の隙。
死闘の真只中において、思考を他所へと奪われてしまった、一瞬の致命的な暗転を、目の前の冷酷な死神が逃すはずなどなかった。
「――おねえちゃん。ぼーっとしちゃ、だめだよ」
耳元に直接吹きつけられたかのような、感情の籠もらない声。
ハッと我に返り、視線を正面へと向けた時には――すでに手遅れであった。
アダーラの小さな両掌の前には、私の頭部よりも遥かに巨大な、超高密度に凝縮された氷塊が形成されていた。
大気中の水分を根こそぎ吸い上げ、絶対零度の冷気を纏った巨大な氷。
それが、私との僅か数メートルの至近距離から、爆発的な推進力を伴って一直線に放たれたのだ。
「っ……あ……っ!?」
直撃を避けるための回避行動どころか、手にしていた剣を構え直す時間すら残されていなかった。
ドガァァァァァァンッッ!!!!!!
「がっ……あぁぁぁぁっっっっ!?」
重厚な氷塊が、私の胸板へと真っ正面から容赦なく激突した。
骨が軋み、肺の中の空気が残らず力任せに吐き出される。
胸骨を叩き潰されるような凄まじい衝撃波と共に、私の身体は宙へと吹き飛ばされ、湿った石畳の上を何十メートルも激しく転がっていった。
ゴロゴロと体躯を激しく叩きつけられ、激痛に叫びを上げながらどうにか姿勢を立て直そうともがく私。
――その時。
頭上のスピーカーから、絶望を決定づける"第二の声"が、重々しく響き渡った。
『――ああ。悪いけれど、麗しの姫様の元へは、絶対に行かせない……!』
静かで、けれど氷のように冷たく、一切の揺らぎも残されていない強い意志を秘めた声色。
――紛れもない、ザウルの声であった。
「……っ……あぐ……っ!?」
石畳の上で血を吐きながら、私は息を飲んだ。
間違いない。通信機の向こうでギエナと対峙しているのは――他でもない、私が信じていたザウルその人なのだ。
彼のその声には、脅迫された者や迷っている者の怯えなど微塵も存在しなかった。
自らの選択に微かな疑問すら抱かず、明確な目的を持って私たちと対立する、そんな意思が宿っていた。
絶望が、冷たい毒のように私の全身の血脈へと広がっていく。
信じていた仲間の裏切り。
自分たちが歩んできた道が、最初から仕組まれた罠であったという凄絶なショック。
しかし――私の心が挫けかけたその隙に、アダーラの追撃は容赦なく畳み掛けられた。
ドガッ! ズドドトンッ!
転がる私へ向けて、間髪入れずに叩き込まれる第二、第三の氷塊の連撃。
私は半狂乱になりながら手元に硝子の破片を集めて防御姿勢を取ったが、不条理な質量の前には耐えきれなかった。
咄嗟に展開した硝子の防御盾が粉砕され、私は背後にそびえ立っていた巨大な鋼鉄製のボイラー配管へと、背中から凄まじい勢いで叩きつけられた。
衝撃によって太い鋼鉄配管がへの字に屈曲して破砕し、内部に閉じ込められていた過熱水蒸気が、耳を刺すような凄まじい噴出音と共に、白い煙となって空間へ勢いよく吹き出した。
「がはっ……げほっ……く……っ」
蒸気が充満する暗がりの中で、私は背中を激しく打ち付けたまま、崩れるようにひざまずいた。
口端から溢れ出る熱い鮮血。
背中と胸の激痛、そして何よりも、胸の奥底を冷たく抉られたような失望と悲しみが、私から戦う気力を削ぎ落とそうとしていた。
シューシューと白煙が吹き荒れる中。
カツン……カツン……と、氷の靴底が擦り石を叩く規則正しい足音が、静かに私へと近づいてきた。
白い蒸気の幕を割り、姿を現したのは――手に蒼白い冷気を揺らめかせたアダーラであった。
彼女はボロボロになってひざまずく私を静かに見下ろすと、何の感情も籠もっていない、淡々とした口調で言葉を紡ぎ出した。
「――おにいちゃんは、まちを、まもりたいんだって」
「……え……?」
荒い呼吸を繰り返しながら、私は掠れた声で顔を上げた。
アダーラは小さな首をほんの僅かに傾げ、淡々と続けた。
「フォルナクスはね。……ほんとうは、このフォーマルハウトのまちを、まるごとふきとばすつもりだったの。……へいたいさんも、おうちも、みんないなくなっちゃうことになってたの」
「……何よ、それ」
「でもね。……あのおにいちゃんは、まちがこわされるのが、すごくいやだったんだって。……だから、わたしたちのみかたになってくれたら……このまちだけは、きれいにのこしてあげるって、やくそくしたの」
「……そんな……ザウルが……本当に……?」
自分の唇が、僅かに震えるのがわかった。
理解できてしまった。
ザウルがなぜ、私たちを裏切るという道を選んだのか。
帝国の絶対的な暴力を前に、この街が焦土と化して滅び去る未来を突きつけられた時――彼は、街と市民の命を守るための対価として、私たちを生贄に捧げる決断を下したのだ。
彼なりの、苦渋に満ちた、けれど絶望的な裏切り。
「ほんとう。だって、わたし、うそつかないもん」
そのまま――アダーラは、静かに言い放った。
「――そうして、あのおにいちゃんは。……わたしの"カイ"になってくれたの」
「……ッ!?」
アダーラのその言葉が落ちた瞬間。
私の脳裏を衝撃が突き抜けた。
カイ――。
アンデルセンの童話『雪の女王』において、悪魔の鏡の欠片が刺さり、心の温もりを失って雪の女王によって氷の城へと連れ去られた、あの少年の名。
そして、妹であるゲルダが、いかなる困難を乗り越えてでも救い出そうと旅を続けた、物語の最も根幹に位置する絶対のキーパーソン。
(……そういう……ことだったの……!?)
私は血の気の引いた顔で、目の前に立つアダーラを凝視した。
頭の中で、これまでの全ての違和感が、パズルのピースのように完璧に噛み合っていく。
先ほどから感じていた、アダーラの攻撃の迷いのなさ。
かつてガーランドで戦った際、彼女の魔法の根底に存在していたあの微かな揺らや隙が、完璧に消え去っていた理由。
アダーラが抱える物語――『雪の女王』。
そこには全てを凍てつかせる冷酷な女王と、温かな涙を流す"ゲルダ"が同居していた。
それらを繋ぐ存在――"カイ"にあたるものが欠落していたからこそ、彼女の魔法は不完全であり、配役の背反という致命的な弱点を孕んでいたのだ。
だが、ザウルが役を引き受けたことで――アダーラの内に存在していた物語の欠落は完璧に補完された。
(――なんてこと……! 不安定さだけが唯一の弱点だったアダーラに対する……これ以上ない、最良で最悪の打ち手じゃない……!)
絶望が、私の全身の毛穴という毛穴から吹き出していく。
ザウルの裏切りは、単に敵へ情報を流したというレベルの代物ではなかった。
アダーラに、もう隙はない。
迷いも、揺らぎも、躊躇いもない。
ただ純粋に、世界を冷たく閉ざすためだけに機能する、完全無欠の"姫"。
「きゃはははははっ! そういうことー! キミたちを逃げられないように、こんな地底の穴倉におびき寄せたのも、あのお坊ちゃまの作戦なんだよねぇ~っ!」
遠くのボイラーの陰から、高らかな嘲笑の声が響き渡ってきた。
超高速で跳ね回り、分身を散らされたミラクを弄び続けている“かぐや姫”ルーナの声。
背中越しで、私からはミラクの表情を見ることはできない。
けれど――空間に充満するミラクの絶望的な沈黙と、壊れそうなほどの殺気の歪みが、肌を刺すように伝わってきた。
だが、今の私には、その表情に思いを馳せる余裕すらない。
視界の向こう側。
蒸気が吹き荒れるボイラー室の暗がりの中で、アダーラがその小さな右手を、私の顔面へ向けて静かに掲げていた。
瞳に宿るのは、絶対の無感情。
彼女の小さな指先から、大気中の全熱量を奪い去るかのような、凄まじい密度の蒼白色の冷気が渦を巻き始める。
「……さようなら、おねえちゃん」
淡々とした、拙い死刑通告。
逃げ場はない。硝子の防御陣を形成する時間すらない。
絶望と失望の暗闇が私の意識を呑み込もうとする中、私はただ、首元へと迫り来る不条理な冷気を目を見開いて見つめることしかできなかった――。




