355話「砕けぬ死脚」
――静止。コンマ零数秒の、奇跡のような停滞。
薄暗がりの中、縦横無尽に跳び回っていたルーナの左膝が、ほんのわずかに深く沈み込んだ。
それは、防戦一方を装いながら耐えに耐え抜いた末、ミラクのサファイア色の瞳が捉えた最初で最大の好機であった。
「見えたっ! ――"甘言の埋葬"……!」
ミラクの鋭い叫びが、ボイラーの稼働音を切り裂いて響き渡る。
その言葉に呼応するように、彼女の横合いに展開していた分身体――"虚人"の一体が、白銀の光粒となって彼女の手元へと吸い込まれ、握られた長剣と重なり合った。
ジュワァァァッ……!
高密度の魔力が激しく凝縮し、白銀の長剣はその形状を瞬時に歪め、変形させていく。
現れたのは――ミラクの身の丈すらも遥かに上回る、圧倒的な質量を誇る巨大な大槌であった。
これこそが、"鏡を砕いた白雪姫"たるミラクの真骨頂。
自らの運命を狂わせ、病魔の恐怖を突きつけてきた悪魔の鏡を、力任せに叩き割り、破砕するための絶対なる破壊の権能――。
大槌の表面には、まるで砕け散った硝子の亀裂を模したような白銀の紋様が不気味に明滅している。
「ハァァァァァッッッッ!!!!」
着地動作に入り、一瞬だけ動きの止まったルーナの頭上へ向けて、ミラクは全身の肉体と魔力のすべてを乗せた渾身の一撃を振り下ろした。
大気を歪ませるほどの圧倒的な衝撃波。
重厚な大槌が、逃げ場を失ったルーナの可憐な身体を完全に捉え、その肉体を一瞬で叩き潰さんとする――。
――しかし。
「――甘いねぇ、ミラクちゃん」
重圧の直下で、ルーナの唇が不気味に歪み、妖しい笑みを漏らした。
ドガァァァンッ! と、大槌が石畳へと激突し、破砕された石の砕片と衝撃波が周囲を激しく揺らした。
だが……届くはずだった手応えは、ミラクの掌に一切伝わってこなかった。
ルーナは大槌が自身に直撃するまさにコンマ一秒の刹那、自身の身体を水のように滑らかに撓らせ、大槌が巻き起こした風圧と滑走の勢いそのものを利用して、身を躍らせるように衝撃をいなしていたのだ。
渾身の力と魔力を込めた大撃を完璧に空切らされたミラクは、前のめりになったまま、その場で大きく体勢を崩してしまった。
(――っ、しまっ……!?)
渾身の一撃が、いとも容易くあしらわれた。
しかし、それを悔やむ時間も、反省する余裕すらも、ミラクには与えられなかった。
大槌の横を滑るようにして空中へ舞い上がったルーナは、周囲に張り巡らされた高圧ボイラーの太い鋼鉄配管を、獣の爪で蹴りつけた。
キィィィンッ! と高酷な金属音が響き、弾丸のごとき鋭い軌跡を描いて飛来する、濃密な魔力を纏ったルーナの猛蹴。
「……っ! "七人の虚人"っっ!!」
死角からの死の襲来に対し、ミラクは必死の叫びを上げて残る分身体を呼び寄せた。
呼び声に応じるように、二体の虚人がミラクの背後へ即座に滑り込み、剣を十字にを重ね合わせて壁を作った。
――しかし。
ルーナはその防衛網すらも、嘲笑うかのように踏み台へと変えてみせた。
迫り来るルーナは、立ちはだかった一番目の虚人の頭部を自身の兎足でトンと軽快に踏みつけると、そのまま横合いの壁面へと着地。
そして、身体を独楽のように高速で捻りながら、壁を力任せに蹴り跳んだ。
旋風と化して死角へと潜り込んだルーナの右膝が、虚人の背後に隠れていたミラクの無防備な下顎へと、容赦なく突き刺さる。
「ぐう……っ……!?」
ミラクの視界が真っ白に弾けた。
脳が激しく揺揺し、頭蓋の内で神経が叫びを上げる。
不快な耳鳴りと眩暈が襲いかかり、足元がガタガタと酷く揺らぎ、膝が折れかけた。
だが、ルーナの凶暴な連撃は、止まるどころかそこから更なる狂乱の領域へと加速していった。
「ほら、ほら、ほら、ほら! 早くやり返しなぁ? これじゃイジメみたいじゃんッッ!」
跳ね回るルーナの姿が、もはや数本の残像となって重なり合う。
ミラクの顎を突き上げた勢いのまま放たれる、重厚な右拳のストレート。
ぐらつくミラクの軸足を激しく刈り取る、地を這うようなローキック。
前傾姿勢へと落ちてきたミラクの無防備な胸板へと叩き込まれる、二度目の深々とした膝蹴り。
跳ね上がる顎を再び天井へと突き上げる、強烈な左アッパーカット。
ガガガガッ! ドカッ! バギッ!!
「がふっ……くっ……!?」
息をつく間もない連続打撃。
ミラクの纏う魔力の被膜が悲鳴を上げて罅割れ、白銀の甲冑が歪み、口端から朱色の鮮血が不気味に噴き出していく。
そして仕上げと言わんばかりに、身体を反転させたルーナの不気味な獣足が、鋭い後ろ回し蹴りとなってミラクの右脇腹へと深く突き刺さった。
肋骨が嫌な音を立てて軋み、ミラクの身体は砲弾のように吹き飛ばされ、数十メートル後方の巨大な鉄骨へと激しく叩きつけられた。
崩れ落ちる瓦礫。
血と煤に塗れ、肩を激しく上下させながら喘ぐミラク。
そんな彼女の惨状を見下ろし、くるりと空中を一回転して着地したルーナは、呆れたように大袈裟な溜め息を吐いてみせた。
「はぁ~あ。何? もう諦めちゃったわけ? つまんないのぉ~」
ルーナは吐き捨てるように言うと、これでトドメと言わんばかりに、その凶悪な兎足へ濃密な魔力を収束させた。
大気を歪ませるほどの圧力を引き連れ、ミラクの心臓を直接打ち抜かんと放たれる、渾身の直線前蹴り。
ズドォォォォォォンッッ!!!!
破砕の暴風が巻き起こる。
――しかし。
その必殺の蹴りは、ミラクの胸を穿つことはなかった。
「……っ……ぐ、あああぁぁぁぁっっっっ!!!!」
血反吐を吐き散らしながらも、ミラクの両手が、ルーナの蹴りを受け止めていたのだ。
「――"七人の虚人・統一"……っ!」
その叫びに呼応し、周囲に揺らめいていた残るすべての分身たちが、一斉に光となってミラク本人の肉体へと吸い込まれ、融合を果たした。
ギチギチギチギチ……ッ!
筋繊維と骨格が激しい悲鳴を上げ、彼女の体内から湧き出る魔力密度が爆発的に向上する。
ルーナの足先と、ミラクの血塗られた両手の間で、強烈な摩擦音と魔力の火花がバチバチと跳ね狂っていた。
「へえ~……」
ルーナの口から、興味深そうな低く邪悪な感嘆が漏れ出た。
蹴りを受け止められたルーナは、深追いはせず、軽やかな身こなしでクルリと後方へとバックステップを踏んで距離を取った。
そして、体の埃を払いながら、肩をすくめて問いかけてくる。
「ミーラークーちゃん。さぁ~、そろそろもう、よくない? 己とボクとの力の差、さすがに分かったっしょ? 君じゃ、ボク、楽しく踊れないんだけど」
ミラクは問いに答えない。
彼女は荒い息を吐き出しながら、"統一"を解除すると、再び自身の周囲に七体の分身を再展開させた。
そして、分身と共に、再びルーナへ向かって一斉に突進を開始する。
しかし――ルーナはその決死の突進に対し、不満そうに眉をひそめると、大振りの回し蹴りを一閃させた。
薙ぎ払われた凄まじい衝撃波の一撃によって、七体の分身たちは、まとめて叩き潰され、虚しく霧となって散っていった。
「……ねえ、ねえ、ねえ。もうこれ、マジで飽きたってばぁ」
分身を散らされたミラクの目の前で、ルーナは心底つまらなさそうに髪を弄りながら愚痴をこぼした。
「諦めなよ、ミラクちゃん。ここでボクに殺されるか、おとなしく帝国に戻るか、どっちかにしなよぉ」
「……うるさい……っ」
血の混じった唾を吐き捨て、剣を構え直すミラク。
「うるさくなーい! ボクはねぇ、ミラクちゃん。お友だちの君に、すっごく親切で言ってあげてるんだよ?」
ルーナはニヒヒと不気味な笑みを浮かべると、身を乗り出すようにして、悪魔の如き囁きを口にした。
「今ならさぁ……君のあの大好きなお爺ちゃん――セプテニア公の首だけで許してもらえるように、取り計らうからさ」
――その言葉が、届いた瞬間。
ミラクの胸の奥底で、かつてない激痛と、ドロリとした怒りが爆発した。
「あんただけは……っ! あんたたちだけは……絶対に私が……私たちが叩き潰す……ッッ!!」
鬼気迫る殺気を全身から噴出させ、ミラクはルーナへと向かって突撃した。
なりふり構わぬ、己の命すら投げ打った特攻。
しかし――そんな凄絶な殺気と覚悟の突進を前にしても、ルーナの顔色は一ミリたりとも変わらなかった。
彼女はただ冷徹に、魔力で硬化させた己の兎足の甲を掲げ、ミラクの振り下ろした渾身の斬撃を、正面から迎え撃つばかりであった。
ガギィィィィィンッッ!!!!
"大沸流坑"に、本日何度目となるかわからぬ火花が激しく飛び散る。
「あんただけはっ……! 絶対に私が倒す……っ!」
「にゃはははははっ! いいね、いいねぇ~! その殺気、その気概――って、言ってあげたいんだけどさあ」
激しい鍔迫り合いと、ぶつかり合う魔力。
その拮抗の最中――ルーナの表情から、不意に嘲笑が消え去った。
ルーナは足元に強い魔力を込めると、パンッと弾けるようにミラクの剣を力任せにはじき返した。
そして軽やかに後方へと跳び退き、無防備に両手を大きく広げてみせたのだ。
「ごめんだけど、もう終わりなんだわ。……この戦いは、おしまいでーす!」
そのおどけた声色に、ミラクが驚愕に目を剥いた――まさに、その瞬間のことだった。
天井近く、先ほどまで沈黙を保っていたはずの放送設備が、突如として怪しく鳴動し、不気味なノイズを吐き出し始めたのだった――。




