354話「兎と虚人」
"大沸流坑"の暗がりに、打撃音と鋼鉄の破砕音が、絶え間なく狂ったリズムで反響していた。
ドガァァァンッ! バギィィィンッッ!!
――"かぐや姫"ルーナの恐ろしさ。その真価は、他の追随を絶対に許さぬ常識外れの近接機動力にあった。
あちらの世界から召喚された"姫"たちは、誰もが一人一人で一軍を粉砕するほどの並外れた体幹と膂力を有している。
更には、音速の踏み込みで駆け抜けるセラエナのように、圧倒的な超高速の機動力を誇る者も存在する。
しかし――超近接距離における一瞬の踏み込み、不規則な立体的跳躍、そして敵の死角へと瞬時に潜り込む極小の機動戦において、ルーナという存在は間違いなく全"姫"の中でも最上位クラス、ある種の"最強"と言っても差し支えない肉弾戦能力を有していた。
不気味な獣毛と筋肉へと変異した兎の如き脚部。
それが大沸流坑の巨大な鉄骨やボイラーの管面を蹴りつけるたび、大気が爆ぜ、空間に残像の尾が幾重にも残される。
そして――その超絶的な速度をそのまま乗せて放たれる、濃密な魔力を纏わせた自在の蹴り技。
その一撃一撃が、大型の魔導砲の直撃にも匹敵する絶大な威力を秘め、容赦なくミラクへと叩きつけられていた。
対するミラクも、決して弱い"姫"などではなかった。
むしろ、かつて帝国の陣営に所属していた頃、彼女の持つ剣術と圧倒的な多重展開能力は、上層部からも極めて高く評価されていた実力派であったのだ。
彼女の固有魔法――"七人の虚人"。
己と寸分違わぬ虚像の兵士を最大七体まで同時に紡ぎ出し、完璧な連携のもとに敵へ襲いかかる多対一の圧倒的包囲攻撃。
通常の武人や人魚兵であれば、その多層的な陣形の前に手も足も出ずに押し潰されるはずであった。
――しかし。
いま、目の前の"かぐや姫"ルーナは、その重厚な多層陣形すらも、次元の異なる圧倒的なスピードと暴力をもって、真っ向から破砕し続けていたのだ。
「にゃはははははっ! 大丈夫ぅぅぅ~っ、ミラクちゃん! ボク、まだまだぜ〜んぜん本気出してないよぉっ! もっと楽しませてよぉ!」
空中を滑るように跳ね、不気味に舌をペロリと出しながらからかうように叫ぶルーナ。
ミラクは瞳を激しい屈辱と冷徹な殺気で細めながら、今しがた蹴り飛ばされて霧のように消散した分身体を、即座に魔力で再構築していった。
ミラクが生み出す"虚人"。その耐久力と強度は、生身のミラク本人には及ばないものの、それでも並の人間や一般の兵士を遥かに凌駕する、強固な"姫"級の魔力で守られている。
生半可な剣撃や火器程度では、傷一つ負わせることすら不可能な頑強な存在なのだ。
それにもかかわらず――ルーナが放つただ一撃の蹴り、ただ一筋の爪の爪撃を受けるだけで、虚人たちは甲高い破砕音と共に、まるで薄い硝子細工のように呆気なく一瞬で粉砕され、消し飛ばされていた。
それこそが、ルーナという"姫"の持つ規格外の身体能力と、脚に纏わせた不条理な魔力密度の証左でもあった。
――だが。
ミラクにとって、何よりも焦燥を煽り、真の恐怖を感じさせていたのは、ルーナの圧倒的な速度や蹴りの威力そのものではなかった。
(……こいつ……っ。ここまで私を追い詰めながら……未だに固有魔法を使っていない……!?)
構え直すミラクの額から、静かに一筋の冷や汗が伝い落ちた。
そう――戦闘が始まってから現在に至るまで、ルーナは自身の物語に根ざした魔法の真価を、ほとんど何一つとして解き放っていなかったのだ。
彼女が現在行っていること――それは、己の脚部を兎のような毛並みと凶悪な筋肉の脚へと変異させ、そこに濃厚な魔力を被覆させて蹴りを繰り出している……ただそれだけである。
肉体を変異させて戦う"姫"として、"ドロシー"のことはミラクもよく知っていた。
しかし彼女の場合、自身の肉体を様々な形態へと頻繁に変化させ、それぞれの持つ特性や能力を自在に切り替えて戦術に組み込んでいた。
だが、目の前のルーナは違う。
言ってしまえば、彼女の行っている戦術は"脚を兎っぽくして跳び回る"……ただそれだけの単純な身体強化に過ぎないのだ。
(……おかしい。いくら何でも、それだけじゃ"姫"の固有魔法として弱すぎる……! こいつ……絶対にまだ何か、手を隠している……!)
ミラクの思考が、不吉な警鐘を鳴らし続ける。
もしも、今の圧倒的な速度と威力が、固有魔法すら使っていない、単なる身体能力と魔力付与の産物なのだとしたら。
彼女が物語の真価を解放した時、どれほど絶望的な事態が巻き起こるのか――考えただけでも背筋が凍りつくようであった。
だが――ミラクは、己の内に渦巻く恐怖や苛立ちに身を任せるような真似は決してしなかった。
(……落ち着くのよ、私。取り乱してはダメ。……もしも相手が、私を完全に格下と見なして舐めきっているのだとしたら……それこそが、私に残された唯一のつけ入るチャンスなのだから……!)
ミラクは深呼吸を一つ挟むと、激しい動悸を胸の奥底へと押し込めた。
彼女は己の体内で循環する魔力の出力を、あえて必要最小限にまで絞り込んだ。
無駄な魔法の乱射や、大掛かりな大曲技の試みは一切を排除。ただひたすらに、ルーナの蹴りによって破壊された"虚人"の再構築だけに集中する。
それは、防戦一方を装いながら、未だ姿を見せぬルーナの致命的な隙と癖を探り出すための、静かな潜伏であった。
最少の魔力消費。最少の動き。
自らの命を削るようなギリギリのところで、相手のスピード、攻撃の軌道、着地の瞬間の僅かな重心の揺らぎを、冷徹に試算し続けていく。
「にゃはは! なにそれぇ~! お人形さんを補充するだけで手一杯? つまんないの~!」
宙をくるりと一回転し、ルーナが頭上から牙を剥いて急降下してくる。
ミラクは決して自身で受け止めようとはせず、即座に生み出した二体の"虚人"を交差させて前に押し出した。
案の定、二体の"虚人"はルーナの凶悪な蹴りによって、破片を撒き散らして一瞬で粉散する。
だが――その粉砕の瞬間の衝撃波と閃光を計算に入れ、ミラクは影から三体目の虚人を滑り込ませ、ルーナの着地点の死角へと向かって一直線に突進させた。
常に二体、三体の虚人を完璧なタイミングで連携させ、多方向からルーナの死角を挟み撃ちにする。
ダメージを与えることが目的ではない。
縦横無尽に跳び回り、圧倒的な優越感に浸っているルーナの集中力を、ほんの僅かずつ、確実に削ぎ落としていくことが狙いであった。
左からの刺突。右からの斬撃。頭上からの牽制。
どれほど超絶的な速度を誇るルーナであっても、多方向からの絶え間ない挟撃に対しては、必ずそれらを捌くための最小限の回避軌道を選択せざるを得なくなる。
一回、二回、十回、三十回――。
激しい交錯が繰り返される中で、ミラクの研ぎ澄まされた瞳は、ルーナの軌道を、着実に捉えつつあった。
空中を跳ね、攻撃を紙一重で交わしながら、嘲笑を浮かべるルーナ。
一見すると、彼女はミラクを玩具のように弄び、完全に戦場を支配しているかのように見えた。
しかし――ミラクの冷徹な試算が、ついにその動きの隙へと至った。
ルーナが右足の兎足を支点にして空間を跳ねる際、彼女は必ず、ほんのコンマ零数秒だけ溜めを作る。
そして、相手の死角へ回り込んで蹴りを叩き込もうとする直前の刹那――彼女の視線は、一瞬だけ着地予定地の空間へと固定されるのだ。
超高速ゆえに生じる、身体構造上の絶対の制約。
どれほど常識外れの身体能力を誇ろうとも、質量を持つ肉体である以上、次の跳躍へ移るために、力のベクトルを集中させる一瞬の停滞は、絶対に免れ得ない。
(……見えた……!)
ミラクの目に、白銀の冷たい閃光が走った。
三十回に及ぶ試算。自らの魔力を極限まで絞り、耐えに耐え抜いた末に、ついに捉えた最初で最大の好機。
目の前で、四体目の虚人を豪快に蹴り砕き、着地の体勢へと移ろうとするルーナ。
その左膝が、ほんの僅かに深く沈み込み、彼女の不気味な瞳が一瞬だけ斜め後方のボイラー配管の影へと向けられた。
まさに――その刹那。
ミラクの手に握られた長剣が、これまで見せたことのないような絶大な魔力の光を吹き上げ始めた。
――そして、その瞬間が、ついに訪れるのだった。




