353話「"女王の酷刑"」
高圧の蒸気が吹き出すボイラーの配管の陰から、私は弾かれたように身を躍らせ、再びアダーラとの間合いを取り直した。
砕け散った硝子の破片と、彼女が放った氷の微粒子が、白煙の立ち込める空間の中で不規則に光を乱反射させている。
その目まぐるしく変化する激戦の合間――コンマ数秒の隙を突いて、私はほんの僅かだけ、右側の視界へと視線を逸らした。
無数の巨大な鋼鉄パイプが複雑に入り組む闇の向こう側で、地響きのような破砕音と、甲高い金属打撃音が絶え間なく鳴り響いている。
ミラクと"かぐや姫"とが、壮絶な死闘を繰り広げているのだ。
(……っ! ミラク……!)
私の網膜が捉えたその光景に、胸の奥がぎゅっと冷たく締め付けられる。
速い。あまりにも速すぎる。
不気味な兎の獣脚へと変異させた両足を躍動させ、壁面や鋼鉄の配管を縦横無尽に跳び回る"かぐや姫"の機動は、もはや人間の目では追いきれない領域に達していた。
縦横無尽に空間を跳ね、四方八方に残像を生み出しながら、鋭利な爪と凄まじい衝撃波を伴う蹴りをミラクへと叩き込んでいる。
対するミラクは――完全に防戦一方へと追い詰められていた。
彼女の魔法をもってしても、獣のようにしなやかで常識外れの速度を誇るルーナの動きには、まるで刃がついていっていない。
ミラクは"七人の虚人"を己の周囲に壁のごとく多層展開し、その肉体を盾にして身代わりとすることで、どうにかルーナの凶悪な連撃を凌いでいる状態だった。
ドガァァン! バギィィィンッ!
ルーナの蹴りが炸裂するたびに、ミラクの生み出した虚人が一体、また一体と凄まじい音を立てて砕け散っていく。
虚人が砕けるたび、ミラクの口から苦悶の呻きが漏れ、彼女の表情が悲壮なまでに焦燥で歪んでいくのが見えた。
(ダメ……! このままじゃ、ミラクが押し切られちゃう……! 今すぐ加勢に……っ!)
私の身体が、反射的にミラクの方向へと足を踏み出そうとした。
――しかし。
この戦場において、私が他の誰かに気を払う余裕など、最初から残されては居なかったのだ。
「――おねえちゃん。よそみ、だめだよ」
耳元で囁かれたかのような、無機質で可憐な幼い声。
ハッと息を飲んで視線を正面へ戻した瞬間には、既にそれは私の目の前にまで肉薄していた。
アダーラ――彼女は、先ほど私が見せた戦術をそのまま真似るように、自らの足元の石畳を完璧な鏡面状に凍てつかせていた。
摩擦を完全にゼロへと変換した氷の路上を、スケートの刃を滑らせるかのように滑走し、私との距離を一瞬で零へと詰める。
アダーラはその勢いのまま、その華奢な右腕を私に向けて静かに突き出してきた。
「"女王の酷刑・串刺しの刑"――」
おまじないを唱えるかのような、拙く、恐ろしい呟き。
次の瞬間、彼女の袖口から解き放たれたのは、細い針のように研ぎ澄まされた数千本もの氷の棘であった。
大気中の水分を瞬時に吸い上げて巨大化し、槍の如き束となって私の全身を貫かんと突進してくる。
「くっ……あぁぁぁぁっっ!?」
私は死力を尽くして頭部と体を真横へと捻り倒した。
耳元を、直撃すれば全身をハリネズミのように穿つはずの氷の棘の束が、暴風となって駆け抜けていく。
擦れ違いの数ミリの瞬間、鋭利な氷の刃が私の前髪の先端を掠めて切り裂いた。
パラパラと、空中に舞い散る髪。
遅れて、配管や壁面へと突き刺さった氷の棘が爆破音を立てて弾け、冷気の煙を巻き起こす。
(……っ、あっぶな……っ!?)
転がるようにして姿勢を立て直した私の額から、冷や汗が伝い落ちた。
確かに、私はプレアデスでの試練を経て、"根源"の力に目覚めた。
かつてガーランドで手も足も出ずに惨敗した頃に比べれば、今の私は遥かに強くなっている。
だが――だからと言って、私がアダーラという怪物を完全に圧倒できるようになり、余裕を持ってひねり潰せるようになったわけでは断じてないのだ。
ただ……彼女の絶対零度の魔法に対し、真っ向から拳を交え、戦いとして成立させられるだけのラインに立てたというだけの話。
戦争はじゃんけんではない。属性の優劣や一瞬の出力だけで、勝敗が単純に決まるような甘い世界ではないのだ。
今の私には、離れた場所にいるミラクを助けに行く余裕などない。
アダーラの攻撃を全神経で受け止め、ここで食らいついて戦うだけで、文字通り精一杯なのだから。
私から数メートル離れた位置で足を止めたアダーラは、狙いを外したことが気に入らないのか、ほんの僅かに拗ねたように、頬を膨らませて見せた。
どこにでもいる幼い少女のような、愛くるしくも無邪気な仕草。
しかし、その小さな両掌の周りでは、周囲の熱気すらも一瞬で凍てつかせるほどの、常軌を逸した魔力が猛烈に渦巻いていた。
「こっち。……わたしのほう、みて。……もうちょっと、はやくするからね」
言葉が終わるか、終わらないか。
その瞬間に、アダーラの姿が私の視界から消えた。
残像すら残さない、次元を飛び越えたかのような超高速の踏み込み。
(どこ……!? 上!? 右……!?)
一瞬の迷い。思考が交錯し、脳が選択を誤りかけた――まさにその時。
私の戦闘本能と直感が、思考よりも早く肉体を駆動させた。
(――後ろッッ!!!!)
「"硝子の聖衣"ッッ!!」
私は振り返る時間すら惜しみ、己の背中全面へ向けて、高密度圧縮した重厚な硝子の胸甲・背甲を瞬間展開させた。
ドッ……。
直後、背後から緩やかに伸ばされた小さな掌が、私が展開した硝子の鎧の表面へと静かに触れた。
アダーラの掌。
直接肌に触れれば、それだけで細胞の分子運動を停止させ、人間を内部から完全に一瞬で凍てつかせるであろう、絶対零度の冷手。
――接触したコンマ一秒後、私を覆っていた強固な硝子の聖衣が、不気味に白濁し、脆く破砕し始めた。
それだけに留まらず、聖衣を伝った不条理な絶対の冷気が、私の背中の表皮、そして筋肉の深層へと向かって、侵食してこようとしていた。
「っ……くあああぁぁぁぁっっ!?」
私は激痛と寒気に悲鳴を上げながら、冷気が身に届くよりも数秒早く、背中の鎧を自ら切り離した。
バキィィィンッ! と凍りついた鎧を背中から振り落とし、その反動を利用して前方へと転がるようにして飛び退く。
石畳の上を激しく転がり、どうにか体勢を立て直した私の背中は、直接触れていないにもかかわらず、冷気の余波だけで皮膚が軽度の凍傷を起こし、微かに麻痺していた。
(――あぶない……! 私だって、ほんの一瞬でも気を抜いたら殺される……!)
胸の奥で、心臓が早鐘のように狂った打棒を打つ。
カノン、エレクトリア、手に汗握る死闘を演じた数々の強敵、それにプレアデスの地で相まみえた"千の騎士"アルザーム――。
数々の常識外れの怪物たちと命を削り合ってきた私にも、これほどの生命の危機と戦慄を抱かせる。
アダーラ・シリュウ=ギルダリアという少女は、それほどまでに底が知れず、恐ろしい存在であった。
そして――激しい呼吸を整えながら彼女を見据える私の脳裏に、一つの違和感が浮かび上がってきた。
(……気のせい……かしら……? でも……)
アダーラの瞳を見つめながら、私は強く唇を噛み締め直した。
(この間……あのガーランドで戦った時よりも……ずっと、彼女の攻撃に迷いがない気がする……!)
確かにあの時も、彼女の持つ絶対零度の魔法は圧倒的であり、私は手も足も出ずに叩きのめされた。
だが――あの時の彼女の存在には、どこか危うい"揺らぎ"が存在していたのだ。
彼女が内包する物語――『雪の女王』。
カイを連れ去り、世界を冷たく閉ざそうとする冷酷な"女王"としての側面。
しかしその内側には、かつて人間であった頃の悲しい記憶、カイという少年をただ一途に追い求め、寂しさに震える一人の少女としての心が同居していた。
配役の持つ二律背反。
冷酷な女王でありながら、温もりを求める少女でもあるという矛盾が、彼女の魔法の根底にわずかな迷いと隙を生み出していたはずだった。
だからこそ、私はあの時、命からがら彼女の攻撃を切り抜けることができたはずなのだ。
――しかし。
いま、目の前に立つアダーラからは、あの時感じられたような揺らぎが、綺麗さっぱり削ぎ落とされていた。
ただ純粋に、冷酷に、世界を凍てつかせるためだけに存在する、完成された死の暴風。
「……まだまだ。……わたしのほうは、もっと……つめたくなれるよ」
アダーラが、感情の消え失せた能面のような顔を、ゆっくりと私へと向けてきた。
彼女の小さな体躯から溢れ出すのは、"大沸流坑"の中に滞留していた熱気や重油の匂い、更にはボイラーの吹き出す白煙すらも、その場で一瞬にして結晶化させて沈降させるほどの、絶大な冷気の波動であった。
パリパリパリパリ……ッ!
周囲の鋼鉄パイプが白い霜に覆われ、金属が悲鳴を上げて収縮していく。
「……こおらせて。……こおらせて。……こおらせて……」
サファイアの瞳の奥に、暗い虚無の光を揺らめかせながら、アダーラが不気味な呪文のように言葉を紡ぐ。
「……ぜんぶ、こおらせて……つめたくなったせかいに……わたしは、ひとりぼっちになるの」
ドッッッッッッ!!!!!!
放たれたあまりにも濃密で、圧倒的な殺気の奔流。
その凄絶な気配の重圧に、私は思わず息を飲み、一歩後方へと気圧されそうになった。
覚醒した私の硝子の魔法をもってしても、呑み込まれそうになるほどの絶望的な氷の世界。
私は手の中に硝子の刃を再び作り出し、激しい冷気の暴風の中で、必死に前を見据えた。
アダーラを、私がここで食い止め続けなければ、何もがが水の泡だ。
だからこそ、私は、視界の端で戦うミラクの背中へ向かって、胸の奥底で強く、強く祈りを捧げることしかできなかった――。




