352話「氷と硝子」
キン、と。
大気を切り裂く高細な音が、"大沸流坑"の巨大な鉄骨群の隙間に幾重にも反響した。
直後、私の視界を埋め尽くしたのは、光を不規則に乱反射させながら空間を覆い尽くす、無数の透徹した結晶の群れであった。
私が解き放った、鋭利極まる数十本の硝子の長槍。
アダーラが指先ひとつで空中に打ち出した、絶対零度を秘めた数千の氷の礫。
似て非なる二つの透明な結晶群が、ボイラー室の中央で正面から真っ向から激突する。
ガガガガギィィィィンッッッッ!!!!!!!!
耳朶を打つ凄まじい砕裂音が轟き、空間が激しく振れ動く。
衝撃波の渦と共に砕け散った硝子の鋭片と氷の砕片は、超高圧の粉塵となって大気中へと爆ぜ散り、周囲にキラキラと輝く光の塵を撒き散らした。
重厚なボイラーの薄暗がりと、残留した熱気の中で、舞い散る光の粒子。
それはまるで、極寒の北国で天から降り注ぐ――細氷の如き幻想的な美しさを描いていた。
だが、その美しさの裏側に潜んでいるのは、一触即発の死そのものである。
ばら撒かれた細氷のカーテンを鋭く切り裂き、白い息を吹き出しながら姿を現したのは、冷え切った瞳を一切揺らさない少女――"雪の女王"アダーラ。
(……見えている。追えているわ……!)
私は飛び散る氷の光跡を網膜に焼き付けながら、自らの指先に流れる魔力の奔流に意識を集中させた。
かつて、彼女とはガーランドでも矛を交えている。
あの時の私は、彼女の放つ不条理な氷結魔法の前に、ただ圧倒されるばかりであった。
私の生成する硝子は一瞬で凍てつかされて脆く破砕され、質量も、魔力の出力そのものも、次元が違いすぎて手も足も出なかった。
だが――今の私は、一味違った。
プレアデス聖教国での修行を潜り抜け、自らの魂の底に眠っていた力の"根源"を掘り起こしている。
その手に宿る不条理は、アダーラの絶対零度と対等に渡り合えるだけの質と量を、確かに勝ち得ていたのだ。
「――"霧氷の鏡床"!」
私は低く叫ぶと同時に、足元の濡れた擦り石の床面へと自らの魔力を叩きつけた。
不条理な魔力によって、私の靴底と石畳の間に存在する摩擦係数を意図的に限界まで消失させる。
摩擦を失った世界の中で、私の身体は滑らかなスケート靴を履いたかのように、爆発的な加速度を伴って滑走を開始した。
シュンッッ!
残像すら置き去りにするような、低空の高速滑走。
ボイラーの太い配管を縫うようにして一瞬でアダーラとの間合いを詰めると、私は滑走の勢いをそのまま右腕の回転軸へと乗せた。
右腕の中に一瞬で生成されたのは、高密度に精錬された硝子の細剣。
その研ぎ澄まされた刃先は、大気の抵抗すら削ぎ落とし、アダーラの喉元――生命の急所へと向かって目にも留まらぬ一閃の刺突を走らせた。
ガッッッ!!
しかし――私の細剣の切っ先は、アダーラの皮膚に触れさせる直前、僅かあと一歩というところで完璧に停止させられる。
アダーラの眉間と私の剣先との間に、現れた、厚さ数十センチに及ぶ超高密度の氷の防壁。
透明な氷の層に突き刺さった硝子の刃が、甲高い音を立てて激しく火花を散らす。
「……はやい。……おねえちゃん、まえよりも……ずっと」
氷の壁のすぐ向こう側。
感情の起伏を感じさせない瞳で私を見つめ返しながら、アダーラがポツリと、つっかえるような口調で呟いた。
「ありがと。でも、お褒めの言葉は結構よ――!」
私は間髪入れずに即座に手放した細剣を魔力で爆破させ、その破砕の反動を利用して勢いよく数歩後方へとバックステップを踏んだ。
爆砕した硝子の破片がアダーラの顔面へと降り注ぎ、彼女の視界をコンマ数秒だけ遮る。
アダーラは一切の動揺を見せず、降り注ぐ硝子の破片を素手ではね除けながら、逃げる私を追撃すべく前のめりになって足を踏み出そうとした。
――まさに、その瞬間のことだった。
前のめりになったアダーラの薄桃色の顔面に、頭上から一筋の巨大な陰が差す。
「――あ」
アダーラの口から、小さく無機質な声が漏れ出た。
反応するよりも早く。
彼女の頭上――大沸流坑の吹き抜けた天井付近に張り巡らされていた巨大な配管網の隙間から、私が密かに準備しておいた巨大な硝子塊が、音もなく落下してきたのだ。
それは、家屋一つ分にも匹敵する質量を持つ、超高密度の硝子の巨岩であった。
前のめりになったアダーラの体躯を、上空からの圧倒的な重力加速度をもって押し潰さんとし、容赦なく振り下ろされる。
ドォォォォォンッッッッ!!!!!
巨大な硝子塊が床へと激突し、ボイラー室全体を揺らす凄まじい地鳴りと爆風が巻き起こった。
――しかし。
アダーラという存在が、これしきの一撃で敗れるほど柔な敵ではないことなど、私が一番よく知っていた。
ズバァァァァァンッッ!!!!
地響きが轟いたそのコンマ一秒後、床を押し潰した巨大な硝子塊の中央から、一筋の眩い蒼白色の光条が一直線に走り抜けた。
アダーラが瞬時にその両手の中に作り出したのは、極薄の円盤型をした氷の高速回転刃。
分子レベルまで研ぎ澄まされたその極小の切っ先は、私があれほどの魔力を注ぎ込んで作り上げた巨岩のごとき硝子塊を、まるで柔らかい豆腐でも切るかのように、真っ二つにしてみせたのだ。
その中央、破砕する破片の渦の中から、一切の傷すら負っていないアダーラが、ゆらりと立ち上がってきた。
だが――私もまた、攻撃の手を緩めるつもりなどなかった。
(――このまま、畳みかければ……!)
私は両手を前方へとかざし、体内の魔力を限界を超えて圧縮を開始した。
"根源"を手にした今の私の魔法は、ガーランドの時とは比べものにならないほど、その出力と精度を桁違いに向上させている。
たとえ背中に"翼"を顕現させていなくとも、今の私の体内の血脈、そして両手には、常に高熱の魔力を循環させることができる。
そうして作り出すのは、かつての戦いにおいても、アダーラに対して、唯一の有効打を与える成功した、硝子の弾丸。
「――"オランダの涙"!」
指先から解き放たれたのは、しずく状の不気味な形状をした、高熱で鍛え上げられた強化ガラスの圧縮弾丸であった。
尻尾の突起を持つその特殊な形状は、圧倒的な分子強度を誇り、高熱の魔力を纏ったまま、超音速の突進となってアダーラへと飛翔した。
大気を穿ち、空気を激しく爆ぜさせながら襲い来る強化ガラスの弾丸群。
アダーラは目を僅かに細めると、恐るべき体幹と反応速度をもって、身体を最小限の動作で捻り、飛来する弾丸を紙一重の差で難無く躱してみせた。
弾丸たちは、そのまま衰えることのない威力を保ったまま、彼女の背後にそびえ立っていた鋼鉄製の巨大ボイラー配管を軽々と突き破り、さらにその奥にある頑丈な石造りの壁面へと深くめり込み、爆風と共に粉砕音を響かせる。
ボイラーの配管から白煙と蒸気が噴き出し、空間の視界を白く染め上げていった。
その蒸気の煙の向こう側から、アダーラが冷たさを湛えたまま私を見つめ、静かに問いかけてきた。
「……おねえちゃん。まえよりも……ずっと、つよくなってるね。……どうして?」
感情の籠もらない、けれど純粋な疑問を含んだ幼い問いかけ。
私は荒くなる息を整え、手に新たな硝子の柄を形成しながら、冷静な声音で返答を返した。
「……さあ、どうしてかしらね。……守りたいものや、戦う理由が……前よりもずっと、増えたからかもしれないわ」
アダーラへと向けて言葉を返しながら、私の胸の奥には、確固たる手応えがあった。
プレアデス聖教国での修行、そして数々の死線を乗り越えてきた経験は、決して無駄などではなかったのだ。
かつては、彼女が指先を動かすだけで私の魔法は全て打ち破られ、ただ一方的な絶望を味わされるしかなかった。
だが――今の私は違う。
彼女の氷魔法に対しても、私の硝子の魔法は決して押し負けていない。
スピードでも、出力でも、戦術の引き出しにおいても、対等以上の死闘を繰り広げることができている。
(勝てる……! 今の私なら、アダーラと対等に戦い……彼女を抑え込むことができる……!)
胸の内で確信めいた手応えを感じ、意識を研ぎ澄ませる私。
――しかし。
私の本当の問題、そして胸を締め付けるような最大の懸念は、目の前のアダーラではなかった。




