351話「とある少女の噺」
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その少女の世界は、あまりにも小さく、そしてあまりにも透明であった。
ミラク――かつて、あちらの世界においてミリアム・シュネー=ジーバードと呼ばれていた少女は、十八年という短い生涯のほとんどを、白いシーツで覆われた病床の上だけで過ごすこととなった。
ドイツ連邦共和国、バイエルン州。
緑豊かなシュペッサルトの深い森と、澄んだマイン川の流れに抱かれた古風な都市、ローア・アム・マイン。
その街外れに位置する大学病院の、無菌設備を備えた小児病棟の病室――そこが、幼きミリアムにとっての世界のすべてであり、同時に彼女のささやかな人生の死地となった場所であった。
バイエルン州の伝統を受け継ぐ格式高い人形工房を営む職人の父、ジーバード氏。
そして、透き通るような美しい歌声を持ち、地元の聖歌隊や劇場で歌っていた歌手の母。
芸術と愛情に満ちた家庭に生まれたミリアムは、幼少期、どこにでもいる愛くるしい少女として、両親からの溢れんばかりの寵愛を受けて育った。
「ねえ、パパ、ママ。私ね、大きくなったら……白雪姫みたいな、素敵なお姫様になるの」
幼いミリアムが、父の温かい膝の上で目を輝かせながらそう口にしたのは、ある意味ではごく自然なことだったのかもしれない。
彼女の生まれ育ったローア・アム・マインは、古くから童話『白雪姫』のモチーフとなった伝説が色濃く残る街であった。
病室の分厚い二重ガラスの窓越しに遠く眺めることのできる、赤瓦の美しい意匠を誇るシュペッサルト博物館――ロール城。
そこに飾られた"魔法の鏡"の童話を母から聞かされ、父が削り出す美しく可憐な木彫りの人形たちに囲まれて育ったミリアムにとって、おとぎ話の『白雪姫』は、幼心に抱く最も身近で、最も煌びやかな憧れの象徴だったのだ。
しかし――彼女が自らの才能を開花させ、その夢に向かって歩み出す遥か前。
わずか四歳の頃。原因不明の高熱と、身体中に浮かび上がった不気味な紫斑によって倒れたミリアムに突きつけられたのは、あまりにも残酷な現実であった。
――小児急性リンパ性白血病。
血液のガンと呼ばれるその苛烈な病魔が、幼きミリアムの肉体と、彼女の描いていた未来のすべてを容赦なく蝕み始めたのだった。
四歳での発症以来、ミリアムの生活は一変した。
友達と公園で駆け回ることも、シュペッサルトの森の小道を歩くことも許されず、彼女は消毒液の匂いが鼻を突く無菌室へと隔離された。
激しい嘔吐と眩暈を伴う、抗がん剤の投与。幾度となく背中に太い針を刺し込まれる骨髄検査の激痛。幼い少女が耐えるにはあまりにも残酷な治療の日々が、延々と繰り広げられた。
それでも、七歳を迎える頃――一度は奇跡的に症状が落ち着く寛解の兆候が見られた。
両親は涙を流して喜び、ミリアム自身も小さな胸を躍らせた。
――だが、運命はどこまでも冷酷であった。
十歳を迎える直前の定期検査において、病魔は彼女の体内で、再発してしまったのだ。
以降、彼女が病院の敷地から一歩でも外へ出る機会は、二度と訪れなかった。
再度の長期入院。より強力な抗がん剤の投与と、無菌室への幽閉。
年毎に増していく薬の副作用と、刻一刻と迫る死の影。
そんな絶望の暗闇の中にあった病室へ、毎週のように足繁く通い続けたのが、父であるジーバード氏であった。
職人特有の頑固さと不器用さを持ち合わせたジーバード氏は、娘の完治を神に祈りながら、毎週のように自作の新しい球体関節人形を、彼女のベッド脇へと差し入れ続けた。
「ミリアム、今日の新作だ。……色とりどりの、一番美しいドレスを着せておいたよ」
頑固で寡黙な父の無骨な指先が、何十時間もかけて丹精込めて削り出し、焼き上げた磁器の人形たち。
病院の殺風景な部屋から出ることができない愛娘を、せめてひとときでも楽しませたい。外の世界の美しい色彩に触れさせてあげたいという、父としての切実で悲痛なまでの祈り。
ジーバード氏が何をどこまで考えて、その人形たちを作り続けていたのかは、誰にもわからない。
しかし――彼が手塩にかけて作り上げ、病床のミリアムに与えた無数のビスクドールは、そのどれもが艶やかな黒髪と白い肌を持つ、『白雪姫』をモチーフにした作品ばかりであった。
ガラスケースの中に並べられた、永遠に年を取らず、病にも冒されず、白く滑らかな肌で完璧に微笑み続ける白雪姫の人形たち。
ミリアムは父の深い愛情に感謝し、人形を抱きしめながら健気に微笑んだ。
……だが、彼女の病状が回復することは、ついに一度としてなかった。
どれほど懸密で高度な治療を施そうとも、病魔の勢いを止めることはできなかった。
年数を重ねるごとに抗がん剤の効き目は薄れ、ミリアムの肉体は日に日に、急速に弱り衰えていく。
――雪のように白い肌。
彼女は、童話に謳われるような、瑞々しく高貴な真珠色の肌などでは決してなかった。
重度の貧血と造血機能の停止により、彼女の肌は生きている人間としての血の気と精気を残らず失い、死人のような気味の悪い白さを帯びていった。
皮脂の分泌も失われた皮膚の表面は乾ききり、まるで乾いた白粉をはたいたかのように粉を吹き、カサカサと虚しく剥がれ落ちていく。
――血のように赤い唇。
かつて母の歌に合わせて可憐に綻んでいた唇は、水分を失って常に酷く裂け、乾ききっていた。
深く生々しい裂け目を覗かせていながら、あまりの極度の貧血ゆえに、そこから一滴の赤血すら滲み出てくることはない。
赤みと生気を失ったその唇は不気味に紫ばみ、誰が見てもそこに瑞々しさや生命の息吹を感じることはなかった。
――黒木のように黒い髪。
歌手である母から受け継いだ、自慢の豊かな漆黒の髪。
かつて父の人形のように艶やかに背中へと流れていたその美しい黒髪は、繰り返される強力な抗がん剤の毒性によって、残らず、根こそぎ抜け落ちていった。
一本も残らず脱毛し、露わになった己の頭部。
最初は、自分の髪が手ぐしで抜け落ちるたびに、声を上げて激しく悲鳴を泣きじゃくった。
しかし、十七歳を迎える頃には、もう涙すらも枯れ果ててしまったのか、髪を失った頭を撫でながら、ただ疲れたように虚ろな笑みを浮かべるだけになっていた。
病室の洗面所に備え付けられた、小さな"鏡"。
幼い頃は、父の人形のように自分を飾って楽しそうに覗き込んでいたその鏡が、いまや彼女にとって最も恐ろしい悪魔の装置へと変わっていた。
鏡の中に映るもの――それは、憧れた可憐なお姫様などでは断じてなく。
髪を失い、肌は乾燥して粉を吹き、唇は割れ、眼の周りに落ちくぼんだクマを浮かべた、見る影もなく痩せ衰えた自身の姿であった。
隣のガラスケースの中に並ぶ、永遠に美しく微笑む父の作った白雪姫の人形と、鏡に映る惨死寸前の自分。
いつしか、ミリアムは病室の鏡を見ることを激しく拒絶するようになった。
鏡に厚手の毛布を被せ、直視することを恐れ、自らの存在そのものに深い忌避感を抱くようになっていった。
――そして、とある眩い夏の日。
病室の窓の外では、シュペッサルトの深い森が青々と茂り、ローアの街に夏の訪れを告げる陽光が溢れていた。
無菌室のベッドの上で、衰弱の極みに達していた十八歳のミリアムは、静かに瞳を閉じ、深くて暗い昏睡状態へと落ちていった。
心電図の規則正しい電子音。泣き崩れる母の歌声のような擦れ泣き。そっと彼女の冷たい手を握り締める、父の震える大きな手。
それらの音や温もりすらも、遠ざかる意識の底へと溶けて消えていく。
二度と、彼女がその瞳を開くことはなかった。
十八年の生涯のほとんどを白い病室のベッドの上だけで過ごし、外の世界を知らず、美しい髪を失い、鏡に映る己の醜さに絶望しながら、彼女は静かに息を引き取ったのだった。
……しかし。
死によって解放された彼女の儚い魂は、虚無へと消え去ることはなかった。
次元の狭間を漂い、遥かなる星の海を越えて――彼女の魂が辿り着いたのは、異世界。
そして、何の因果の悪戯か。
彼女は新たな肉体と物語の力を宿す"姫"として、この世界へと再誕することとなったのだ。
それも生前、彼女が誰よりも深く憧れ、誰よりも深くその残酷さに絶望させられた――。
――『白雪姫』の物語を、その身に強く帯びて。
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