350話「凍る掌」-後
ふと、ギエナの動きが止まる。
煙草の灰が畳まれた地図の上にポロリと落ちた瞬間、彼は勢いよく顔を上げた。
「――そうだ。……"姫"だ」
ポツリと漏れ出た、低く擦れた呟き。
その言葉の唐突さに、作戦卓の向かい側で腕を組んでいたイザールが、白髪の眉を不審そうに歪めて問いかけてきた。
「……"姫"? "鬣"よ、それが一体どうかしたというのか。敵の"スズの兵隊"の砲撃が止まったことは、先ほど確認されたばかりではないか」
「どうしたもこうしたもありやせんよ、セプテニア公。……この状況で、帝国の主力である"姫"たちが前線に出てこねえのは、どう考えてもおかしすぎるでしょう」
ギエナは鋭い眼光をイザールへと向け、指先で作戦卓の敵陣の駒を固く叩いた。
「考えてもみてください。先の会戦で、敵の先遣部隊二千あまりは全滅。おまけに後方の兵站は吹き飛び、給食すら立ち行かねえ。敵の指揮官にまともな知能が残ってんなら、惜しみなく戦力を投入して、速攻で勝負を決める……それ以外にねえはずじゃねえですか?」
ギエナの冷徹な指摘。
それに対し、会議室の片隅に立っていたザウルが、どこか宥めるような穏やかな声で言葉を挟んだ。
「……だがミスタ・アルファルド。相手もこちらの予期せぬ反撃に混乱し、一時的に様子見をしている可能性は十分に考えられるんじゃないかい? それに、敵の"姫"がまるっきり参戦していないというわけじゃない。現に"スズの兵隊"は、セラエナ嬢と矛を交えているんだからね」
ザウルのその言葉を聞いた瞬間、ギエナは心底呆れたように鼻で笑い、大きくかぶりを振ってみせた。
「ハッ、馬鹿言いなさんな。様子見の段階なんて、とっくのとうに過ぎちまってるんでさぁ。もし敵が今も大人しく様子見をしてくれてるってんなら……たぶん俺たちがこの後、城外の残存部隊を全滅させたって、指を咥えて見ててくれやすぜ」
「……つまり、動かないほうがおかしい状況ということだな」
イザールの重々しい声が響く。老将の瞳にも、ギエナが提示した不気味な違和感に対する警戒の色彩が宿り始めていた。
「ええ。そうなると、奴らが前線の正面に参戦してきていねえ理由は、そう多くねえでしょう」
ギエナは再び、思考の海へと没入した。
自分がフォルナクス帝国側の軍師であったなら――この局面でどこに主力を叩き込むか?
正面の堅固な防衛線? 違う。
あれだけの兵士を誘導して惨殺するような罠が待ち構える正面から押し通るなど、愚策でしかない。
ならば、どこだ?
もっとも手薄で、なおかつ叩けばフォーマルハウトの防衛陣形を根底から瓦解させられる、最大の急所はどこだ――!?
(……待てよ。まさか……連中の本当の狙いは……!)
ギエナの脳裏に、雷撃のような閃光が走り抜けた。
その答えを弾き出すのに、彼の頭脳は数秒の時間すら必要としなかった。
ギエナは血走った目をカッと見開くと、会議室の壁際に控えていた通信担当の伝令兵へ向かって、怒号に近い声を張り上げた。
「おいっ! 地下水路へ向かったお嬢様たちは、まだ目的の地点に辿り着いていねえのか!?」
突然、凶暴な大声で問い詰められた伝令兵は、肩を跳ね上がらせて怯えながらも、手元の記録を慌ただしく確認して答えた。
「は、はいっ! まだ地下からの定期連絡も、目的地の到達報告も来ておりませんが……!」
「――っ!?」
その報告を聞いた瞬間、胸の奥で鳴り響いていた警鐘が、さらに音階を上げた。
(――あり得ねえ……! "姫"の膂力と足腰なら、地下水路を走ってとっくに目的地点――あの大沸流坑に着いて、敵の背後から挟撃を開始していてもおかしくねえ時間だ……! なのに、連絡が一つも来ねえだと……!?)
地下作戦の遅延。そして、敵の主力を張る"姫"たちの前線からの失踪。
二つのピースが、最悪のタイミングで噛み合った。
敵は最初から、正面の防衛軍など相手にしていなかったのだ。
彼女たちの狙いは、最初から――。
「……セプテニア公っ!」
ギエナは弾かれたように身体を向け、作戦卓のイザールへ向けて鋭く叫んだ。
「こっから先の作戦指揮、あんたに全部任せてもいいですかい!?」
あまりの逼迫したギエナの様子に、老将イザールは目を丸くして驚愕した。
「そ、そりゃあ構わんが……一体どうしたというのだ?」
「俺は、ちっと野暮用ができちまったもんでね! 急がねえと……お嬢様たちが危ねえかもしれねえ――!」
上着を力任せに羽織り、作戦卓の脇を抜けて大会議場の出口へ向かって、疾風の如く駆け出そうとするギエナ。
――その、直後のことだった。
「――駄目だよ、ミスタ・アルファルド」
低く、透き通るような静かな声音が、去ろうとするギエナの足を刺すように響いた。
ギエナが急停止し、目を見開いた先。
重厚な二重開きの扉の前に、いつの間にか一人の男が滑り込むように立ち塞がっていた。
「……お前さん、何やってやがる」
扉の前で両腕を軽く広げ、ギエナの退路を完璧に遮断するように立っていたのは、ザウルであった。
ギエナは焦燥のあまり、苛立ちを剥き出しにして怒鳴り散らした。
「おい、ふざけてる場合じゃありやせんぜ! 何でかは分からねえが、こっちの作戦が敵に漏れちまってるかもしれねえんだ! 今すぐ通信を飛ばすか、お嬢様たちを連れ戻さねえと――」
「いいや――計画は順調だよ、ミスタ・アルファルド」
ギエナの言葉を遮って放たれた、ザウルの声音。
そこに、先ほどまで見せていた、過激な殺戮を咎める高潔で青臭い政治家の表情は、微塵も存在していなかった。
ザウルの瞳は、感情の欠片すら感じさないほどに――冷え切っていた。
「……なっ!?」
ギエナの皮膚が、激しい寒気によって一斉に粟立った。
ガラス張りの巨大な窓枠に、白く不気味な霜の花が猛烈な勢いで広がっていく。
室内を包んでいた温かな空気は一瞬にして奪い去られ、吐く息が白く染まり、刺すような極寒の冷気が居合わせた兵士たちの肌を鋭く削り取っていく。
その絶対零度の冷気の発生源――。
それは、両腕を広げて立つザウルの、その両掌から溢れ出る魔力であった。
「……っ、冷気!?」
「総議長、貴様一体何を……!」
驚愕したイザールや警護の兵士たちをよそに、ギエナは研ぎ澄まされた眼光で、ザウルの両掌で揺らめく魔力を凝視した。
"姫"たちが使う魔法とは酷似しながらも、どこか根底の構造が異なる、歪な魔力。その正体を、彼は身を持って知っている
「……魔法の"種"か。……つまりなんだ……ザウル殿。あんたは……」
ギエナの声が、凍てつく空気の中で重く落ちる。
ザウルは冷気の渦を両手で弄びながら、憐れみすら含んだ冷酷な微笑みを口元に浮かべた。
「……そうだよ。僕は"雪の女王"から、魔法の"種"を授かった身だ。……全てはね、この愛するフォーマルハウトの街を救うためにね」
ザウルのその告白と共に、大会議場は静まり返るような絶望の沈黙に包まれた。
「な……なにを言うか、ザウル殿っ!? 貴殿は連邦の、いやこのフォーマルハウトの総議長なのだぞ! 帝国と通じていたというのか!?」
イザールが豪奢な椅子から立ち上がり、怒号を上げる。
しかし、ザウルはイザールを一瞥すらしようとせず、ただ目の前に立つギエナだけを、絶対の殺意を秘めた冷たい眼光で見つめ続けていた。
ギエナは喉元まで迫り上がってきた、落胆と確信を、静かに腹の底へと飲み込んだ。
(……クソが。一番厄介な野郎が、一番厄介な場所で裏切ってやがったか……!)
すべての謎が、完璧に解けた。
なぜ、帝国軍の"姫"たちが前線に現れなかったのか。
地下水路の構造を熟知し、あの複雑怪奇な迷宮のマップをノクティアたちに与え、放送設備を使って彼女たちを目的地――"大沸流坑"へと誘導したのは、他でもないザウル自身だったのだから。
彼は最初から、アダーラたちと通じていた。
ギエナはそこまでを認識した後、煙草の煙をふぅと吐き出すと、ゆっくりと歩を進めた。
ザウルに対峙するように前へ進むと見せかけながら、彼は自然な動作で、部屋の端に置かれた通信設備のすぐ横に佇む、一脚の木製椅子へと深く体重を預けた。
ギエナは足を組み、不敵な薄笑いを浮かべながら、正面のザウルを見据える。
「……へえ。じゃああんた、マジで裏切り者ってことでいいんだな。ザウラシス・アカル……!」
ギエナの低く響く声音。
ザウルは応じるように、両掌から猛烈な氷結晶の嵐を舞い上がらせ、冷酷に宣告した。
「ああ。悪いけれど、麗しの姫様の元へは、絶対に行かせない……!」
ズザザザザッ! と、会議室の床一面が凍りつき、ザウルの身体が氷の残像を伴って猛然と前進する。
凍てつく決裂の叫びが響き渡る中、凍てつく掌と硝子の獅子が、衝突する――。
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