350話「凍る掌」-前
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フォーマルハウト防衛戦、その第一次会戦は、誰の目から見ても、エリダヌス連邦およびヴァルゴ王国特使団側の圧倒的な大勝という形で幕を閉じた。
城内へ突入してきたフォルナクス帝国軍の先鋒部隊――およそ二千を超える人魚兵および正規歩兵の連隊は、フォーマルハウトの網の目に張り巡らされた策によって、わずか一時間あまりの間に一兵残らず殲滅された。
さらに、城外数キロ後方に位置していた敵の補給拠点は、空から降り注いだ流れ弾によって焼き尽くされ、帝国の兵站線は完全に麻痺・崩壊した。
二千以上の兵力と、長期戦を維持するための膨大な物資を一瞬にして失った帝国軍前線部隊は、凄惨な混迷の中で後方へと壊滅的な撤退を余儀なくされた。
兵たちの士気はどん底まで落ち込み、腹を満たす給食すら途絶えた現状において、帝国軍がこのまま包囲戦を継続できるかどうかすら怪しい状態にまで追い詰められたのだ。
遠く国境沿いの廃砦へ向けて飛び立っていったセラエナの行方については、未だ詳細な報せは届いていなかった。
しかし――少なくとも、フォーマルハウトの街や城壁を脅かし続けていた長距離砲撃が完全に止まったことだけは、確かであった。
完璧なまでの大防衛劇。
無駄な損害を最小限に抑え、敵の圧倒的な大軍を前線から追い散らしてみせたこの戦果に対し、フォーマルハウト防衛軍の兵士たちや城内の市警隊からは、割れんばかりの歓声を上げる声が至る所で巻き起こっていた。
――しかし。
沸き立つ都市のただ中において、苦虫を噛み潰したような不機嫌極まりない表情を浮かべている男が、一人だけいた。
フォーマルハウト――"晶潮館"、大会議場。
その広大な円形会議室は、いまや戦況報告が刻一刻と持ち込まれる最高指揮本部へと作り変えられていた。
中央に置かれた巨大な作戦卓の上には、フォーマルハウトの精緻な立体地図と、敵味方の配置を示す無数の駒が並べられている。
街の各地から次々と届く勝利の吉報、敵の損害数、回収された武具や小銃の数々――それらを示す羊皮紙の報告書が卓上に積み上げられていく中で、一人、眉根を深く寄せ、不快そうに眉を寄せていたのは、ヴァルゴ王国特使団が誇る稀代の戦術家――"砂の鬣"ギエナ・アルファルドであった。
ギエナは咥えていた不揃いな巻き煙草の端を指で捏ね回すと、紫煙を天井へ向けて重々しく吐き出した。その落とされた眼光には、大勝を収めた司令官らしい晴れやかさなど微塵も存在せず、ただ深く暗い警戒の色だけが漂っていた。
「……浮かぬ顔だな、"鬣"よ」
作戦卓の反対側、豪奢な皮塗りの椅子に腰掛け、羊皮紙の戦果報告を眺めていたイザールが、重厚な声音で語りかけてきた。
彼は眼光を細めると、ギエナの不機嫌な横顔に向けて、心底から感心したような深い頷きを寄せるのだった。
「流石は、かつての大戦において音に聞こえたヴァルゴの智将。あの大戦の折、我が帝国の名だたる将兵たちが貴殿の策に苦戦を強いられたというのも、実に頷ける手際だ」
「……そうかい。そりゃ、どうも」
かつての宿敵であり、いまは同盟の客将であるイザールからの手放しの称賛。
しかし、ギエナの声音には何の感情も籠もっておらず、ただ気のない返事をそっけなく返すのみであった。
そんなギエナの態度に対し、会議室の片隅に立っていたもう一人の男が、ついに耐えかねたように激しい足取りで歩み寄ってきた。
フォーマルハウトの若き総議長――ザウルであった。
「……やってくれたね、ミスタ・アルファルド」
作戦卓を固い拳で力任せに叩きつけながら、ザウルが口を開いた。
その整った美貌には、勝利への歓喜などではなく、隠しようもない露骨な憤怒と、嫌悪の色彩が激しく浮かび上がっていた。
「僕はね……街の中にわざと敵の兵隊を誘い込み、水路の底で無慈悲に殺戮するような策だなんて、ハナから聞いていなかったよ! 水路の水を全て抜き去ったのも、あくまでも"雪の女王"の氷結魔法から都市を守るための、万が一の防衛策だと言っていたはずだ! あんな……あんな悪辣で残忍な屠殺の罠に使うためじゃない!」
激昂するザウル。
フォーマルハウトの都市と人民を愛し、どこまでも美しく高潔な政治家たらんとする彼にとって、自らの愛する都の城門をあえて開き、渇いた水路の底へ敵を誘導した上で、まとめて潰すというギエナの謀略は、耐え難い野蛮と非道の企みに他ならなかったのだ。
しかし、詰め寄られたギエナは、怯む素振りすら見せずに薄い目をザウルへと向けた。
「……へえ、そいつは悪かったこって。まあ……何はともあれ結果は出たんで、どうか勘弁してくだせえや」
どこまでも他人事で、気のないギエナの返答。
その言葉の端々に滲み出る、泥沼を這い回ってきた男特有の冷徹な開き直り。
ザウルがさらに言葉を重ねようとしたその時、座っていたイザールが重々しく手を出してそれを制し、困惑の眉を潜めた。
「……待て、若き総議長。……"鬣"よ、一体どうしたのだ? 貴殿の仕掛けた策略が、完璧な戦果が上げたのだ。いくら何でも、もう少し愉快そうな顔をしたらどうだ?」
彼から見ても、ギエナのこのあまりにも重苦しく、鬱屈とした態度の理由は理解しがたいものであった。
イザールの言葉を聞くと、ギエナはくわえていた煙草の灰を作戦卓の端へ落とし、ゆっくりとかぶりを振りながら答えた。
「……ハッ、俺は普段から、そんなに愉しんで戦をするような趣味の悪い性分じゃねえですがね。……まあ、それを差し引いたとしても……いまのこの状況でニコニコ笑っていられるほど、俺ぁ肝が座ってねえんでさぁ」
「どうしてだい? 君の汚い策のおかげで、敵は壊滅し、兵站は吹き飛び、僕らは圧倒的に有利に戦いを進められているじゃないか」
ザウルが不満そうに語気を強める。
その言葉を聞いた瞬間――ギエナはゆっくりと顔を上げ、猛禽のような鋭く冷酷な眼光をザウルへと真っ直ぐに叩きつけた。
「――だからだよ」
ギエナの射抜くような視線に圧され、ザウルが一歩不自然に身を引いた。
「……だから、とはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味でさぁ、セプテニア公」
ギエナは低く擦れた声で、作戦卓の上に置かれた敵兵の駒を指先でカツンと突いた。
「――何もかもが自分の思い通りに上手くいくなんてことはな、戦じゃ絶対にあり得ねえんだよ。……上手く行き過ぎなんだ。こういう時ってのはなぁ……決まって裏で、ロクでもねえ不吉なコトが起きてるもんなのさ」
ギエナの言葉に、会議室の空気が一瞬にして重く凍りついた。
戦争とは、不確定要素の塊である。
天候の急変、兵卒の気まぐれ、伝令の遅延、予期せぬ事故、そして何より、敵もまた思考する人間であるという絶対の真理。
どれほど緻密な作戦を組み立てようとも、必ずどこかで不確定なノイズが混ざり、思い通りにいかないのが戦場の常であった。
それなのに――今回の第一次会戦には、それが無かった。
ギエナが"こう動けば面白い"と仕掛けた水抜きと誘撃の罠に、敵の前線部隊が何の疑いもなく一直線に飛び込んできた。
兵站区画へ向けて落とされたアディラの魔力弾も、セラエナが蹴り逸らした弾道が完璧すぎる角度で敵の物資庫の真上へと直撃した。
出来過ぎている。
あまりにも、絵に描いたような大勝利のシナリオ。
(……クソが。俺は何かを見落としてねえか……? 何か……己の計算の外側にある、致命的な"何か"が裏で動いていねえか……!?)
ギエナの脳が、凄まじい速度で回り始めた。
幾多の修羅場を潜り抜けてきた"鬣"の戦術的直感が、胸の奥底で警鐘を狂ったように打ち鳴らしていた。
「……ミスタ・アルファルド? 一体、何をそんなに考え込んでいるんだい……?」
顔色を不気味に変えて沈黙するギエナに対し、ザウルが不審そうに声をかけてくる。
だが、ギエナはその問いかけに応じることなく、作戦卓の上の地下水路を示す地図を、血走った眼光で激しく睨みつけ続けるのだった。




