349話「貪る街」
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――後方で冷や汗を流していたハインケル少佐の胸騒ぎが、単なる杞憂で終わることはなかった。
フォーマルハウトの巨大な正門が重々しく左右へ開き、空腹と焦燥に狂った帝国軍の前線部隊が怒涛の勢いで雪崩れ込んだ、そのまさに直後のことである。
我先にと城内へ突入した帝国軍の先鋒――およそ二千五百名に及ぶ人魚兵および歩兵連隊が最初に目にしたのは、彼らが想像していたような、華やかな水の都などでは決してなかった。
そこに広がっていたのは、変わり果てたフォーマルハウトの凄惨な姿であった。
街の網の目のように張り巡らされていた海水路からは、水が完全に抜き去られて干上がっており、石造りの底部が虚しく露出している。
かつて無数の小舟が行き交い、交易の歓声が響き渡っていた往時の賑わいなどどこにも存在しない。住民たちは立ち退きを完了しており、静まり返った街並みは、まるで巨大な墓場か遺構のように寂れ果てていた。
「……な、なんだこれは……? 水が……一切無いだと……!?」
突入した人間の将校や兵士たちは一瞬、その異様な光景に呆気にとられ、足を踏み鳴らして立ち尽くした。
しかし、後ろの兵站区画が燃え落ちたという圧倒的な焦燥が彼らの理性を麻痺させていた。将校たちはすぐに表情を強張らせて持ち直すと、配下の人魚兵たちへ向けて怒号を飛ばした。
「怯むな! 住民どもが物資を隠して逃げ遅れているはずだ! 行け! 行けぇッ! 街の奥へ踏み込み、全てを奪い尽くせ!!」
その将校の命に応じ、鋭い牙を剥き出しにした人魚兵たち――そして、理性を失った人間の兵士たちも、武器を掲げて一斉に街の奥へと駆け出していった。
彼らは夢中になって駆け抜けていた。
自分たちが今大群をなして勢いよく走っている、この街で最も幅が広く平坦に見える大通りが――本来は深さ数メートルを誇る、水のない大幹線水路の底であるという事実すら、半ば頭から亡失しながら。
フォーマルハウトの幹線水路の底を、二千を超えるブーツと爪先が踏み荒らしていく。
その中で、最初に不気味な違和感を覚えたのは、隊列の先頭を走っていた人間の斥候兵であった。
(――なんだ……? この音は……動物の唸り声か……?)
突進の足音に混じって、前方の暗がり――街の深部へと続く暗渠の開口部から、何かが低く低く唸るような、空気を震わせる異音が耳に届いた。
それと同時に、踏みしめている擦り石の足底から、微細だがズズズ……と脈動するような不気味な振動が伝わってくる。
その異音と振動の本当の正体に、いち早く勘づいた者がいた。
――"人魚兵"たちである。
先頭を進んでいた人魚兵たちの顔色が、一瞬にして絶望的な蒼白へと変わる。
「ヒッ……!? み、水……! 水が来るぞぉぉぉぉっっっっ!!!!」
人魚兵たちは金切り声を上げると、隊列の統制をかなぐり捨て、一目散に水路の両脇にそびえ立つ垂直な石壁の上――つまり、本来の街路へ上がろうと、爪を立てて石壁にしがみつき始めた。
「おいっ!? なに勝手に列を乱して登ろうとしてやがる、人魚ども! 降りて走らんか――」
突入部隊の中隊長が、脱走を図る人魚兵に対して眉を顰め、銃口を向けようとした――その、まさに直後のことだった。
ゴォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!!!!!
街の深部、外海と繋がる巨大な水門が解き放たれた重酷な地響きと共に、水路の奥から"それ"が迫ってきた。
「――水、っ……!? ぐわあああぁぁぁぁぁっっっっ!?」
勢いよく、極大の大水量が干上がった幹線水路へと一気に逆流・雪崩れ込んできたのだ。
それは澄んだ海水などではない。
フォーマルハウトの泥水処理場と水門を連動させ、意図的に溜め込んでおいた、粘度が高く重量のある濁流と泥水の津波であった。
水路の底を埋め尽くしていた帝国兵の先頭数十名が、回避の隙すら与えられずに一瞬で巨大な濁流の壁に呑み込まれた。
泥水は一過性の揺らぎにとどまらず、凄まじい水圧と勢いを保ったまま、後ろから押し寄せる後続の兵士たちを次々と薙ぎ倒し、重い小銃や甲冑ごと濁流の中へと引きずり込んでいく。
「ぶはっ……助けっ……! 銃が……足が重っ……!?」
真っ先に飛び退いて水路の石壁にしがみついた人魚兵や一部の兵士たちは、どうにか泥水から逃れ、上の岸へと這い上がろうと必死で腕を伸ばした。
――しかし。
「――今だ、放てぇぇぇっっっっ!!!!」
水路の上――本来の街路や沿道の建物の屋根、見張り塔の影から、甲高い号令が響き渡った。
そこに待っていたのは、フォーマルハウト防衛軍の総勢二千名におよぶ弓兵・弩兵部隊であった。
水路から命からがら顔を出し、岸へ這い上がろうとした人魚兵や帝国兵たちの頭上へ向けて、絶え間ない矢の雨が一斉に降り注いだ。
「ぐあぁぁぁっっ!?」
「目が! 矢がっ……うわああああっ!」
石壁にしがみついた兵士たちは、無防備な背中や頭部を矢で射抜かれ、悲鳴を上げて再び下の濁流へと転落していった。
帝国軍が誇る最新式の近代小銃――その圧倒的な火力を誇る銃器は、いまや何の意味もなさなかった。
泥水に呑み込まれた時点で、小銃の薬室や銃身内には大量の水と泥が混入してしまっており、発射不可能となっていたのだ。
無理に引き金を引いた兵士の小銃は、銃身の中で暴発を起こし、自身の腕を吹き飛ばす惨劇すら引き起こした。
どころか、足を止めて濡れた小銃を乾かそうとしたり、構え直そうと踏みとどまった瞬間に、後ろから迫る高圧の濁流に足を救われて水底へと引きずり込まれる。
一方で、水路の上から見下ろすフォーマルハウト防衛軍の兵士たちは、完全に冷着さを失ってパニックに陥った敵を、安全な高所から悠々と射貫くことができた。
「撃て! 一兵たりとも陸に上げるなッ!」
「水路そのものが奴らの巨大な棺桶だ! 射ち倒せッ!」
水路の底は、一瞬にして混濁した泥水と、射殺された帝国兵たちの赤黒い鮮血でドロドロに染め上げられていった。
水圧で押し流され、上からは矢の雨が降り注ぎ、前進も登坂も許されない。
「――っ! ダメだ、全軍退避ぃぃっ! 水路には入るな、これは罠だ――っ! 全員、門の外へ引き返せぇぇぇっ!!」
街の入口――正門付近の陸上に留まっていた帝国軍の中隊長が、惨状を目撃して顔を蒼白に引きつらせ、後方へ向かって喉が千切れんばかりの悲鳴を上げた。
――その、まさに直後のことだった。
「……な、なんだ……きさ……ま……?」
叫んでいた中隊長の頭部が、後ろからヌッと伸びてきた巨大な鉄甲冑の手によって、逃げる間もなく力任せに掴み上げられた。
視界が不自然に浮き上がり、首骨がギチギチと悲鳴を上げる。
中隊長が恐怖に目を剥いて振り返った視線の先にいたのは――。
白銀に輝く分厚いプレートアーマーを纏った、歪に膨れ上がった怪異な巨躯であった。
セラエナと共にプレアデス聖教国からこの水の都へと救援にやって来た、"聖教騎士"――あるいは、教国の暗部に蠢く恐るべき"禁忌衆"。
"種"とはまた異なる、教国の禁忌たる強化手法によって肉体と骨格を歪に肥大化させた彼らは、"姫"ほどではないにせよ、通常の人間や人魚兵が相手であれば、単体で圧倒的な脅威となる腕力を振るう存在であった。
むんずと掴まれた中隊長の頭部に対し、禁忌衆の騎士は無言のまま、手に込める握力を一気に高めた。
メキメキメキッ……パキィィンッ!
「ひぐっ……!?」
鋼鉄の兜ごと頭蓋骨が果物のように容易く叩き潰され、中隊長は激痛に痙攣しながら息絶えた。その肉塊をゴミのように投げ捨てる禁忌衆。
正門付近の狭い路地裏や建物の影から、ズシン……ズシン……と重厚な金属音を響かせながら、次々とその威容が姿を現す。
その数――おおよそ、三〇〇体。
退路を断つべく、正門のすぐ傍の路地から不意打ちのごとく現れた禁忌衆の集団は、パニックを起こして逃げ戻ろうとしていた帝国兵の群れの中へと、容赦なく突っ込んでいった。
「う、撃てぇぇぇっ! 化け物を近づけるなッ!」
陸上に残っていた兵士たちが、必死の思いで浸水を免れた小銃を乱射した。
しかし、鉛の弾丸は禁忌衆が纏う分厚い特殊鋼の全身甲冑によって虚しく弾け跳び、甲高い跳弾音を響かせるだけで傷一つ与えることができない。
「ガアァァァァッッ!!」
禁忌衆の巨漢たちが、咆哮と共に大鎚や大剣、あるいは生身の巨拳を振るう。
一振りの大鎚が振るわれるたびに、帝国兵が三人も四人も骨を砕かれて宙を舞い、石壁へと激突して肉塊へと変わっていった。
首を絞め上げられ、力任せに縊り倒される兵士たち。
正門付近の退路は、三〇〇体の禁忌衆によって完璧に封鎖され、逃げ場を失った帝国兵たちは逃亡すら許されずに一方的な屠殺の標的となった。
戦いが始まってから――わずか一時間程度。
フォーマルハウトは、地獄絵図そのものの惨状と化していた。
水路の底では、濁流の津波と、高台からの防衛軍による矢の雨によって二千近い兵士が溺死・射殺された。
そして正門付近へ逃げ戻ろうとした残存の数百名も、不意打ちで現れた三〇〇体の禁忌衆によって一兵残らず押し潰され、縊り倒された。
城内へ勢いよく突入した帝国軍前線部隊およそ二千五百名――そのほぼ全員が、フォーマルハウトの街を踏み荒らしてから僅か一時間の間に、命を奪われて全滅したのだ。
帝国軍側の損害、二千二百名以上。
対するフォーマルハウト防衛軍と聖教騎士団の損害は、擦り傷程度の軽傷者を合わせて数名にも満たないという、あまりにも圧倒的な完勝であった。
水抜きと泥水による狡猾な罠。
フォーマルハウトの構造を熟知した防衛軍四千名の完全な射線配置。そして、近接戦闘において圧倒的な個の暴力を誇る聖教騎士団。
すべての歯車が恐ろしい精度で噛み合い、帝国軍の前線突入部隊は、何一つ成果を上げることなくフォーマルハウトの街そのものに喰われるように消滅したのだ――。
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