348話「フォーマルハウト防衛前線」-後
大気が爆ぜ、大地が激しくのたうち回るような凄絶な轟音と爆風。
フォーマルハウトの空で白鳥の少女に蹴り逸らされたアディラの大質量の魔力弾は、後方数キロに位置する兵站区画の真ん中――第一集積用物資倉庫群へと容赦なく垂直落下した。
直撃の瞬間、眩い白光が視界のすべてを焼き尽くし、次いで凄まじい熱波と衝撃波の渦が嵐となって陣地を襲った。
厚手の仮設陣幕は一瞬で引き千切られて吹き飛び、机も、書類も、頑丈な木箱すらも木端微塵に砕けて宙を舞う。
「ぐっ……、おのれぇぇっっ!」
ハインケル少佐は地面に這いつくばり、頭を抱えながら襲い来る瓦礫と猛烈な爆風に必死で耐えていた。
やがて、鼓膜を痛めつける激しい耳鳴りと共に爆風が吹き抜けると、彼の眼前に広がっていたのは――かつて精密に管理されていた兵站区画の面影など微塵もない、地獄の焦土であった。
巨大な擂り鉢状のクレーターを中心に、燃え上がる黒煙と吹き荒れる炎の嵐。
乾パンや干し肉が詰まっていた巨大な木箱の山は灰燼に帰し、消火用の水が入っていた樽は破裂して煮え滾る湯気を吹き上げている。
そして何より――そこに配置されていた兵站要員や管理兵たちが、悲鳴をあげる暇すら与えられず、一瞬で跡形もなく消し飛んでいた。
あまりにも理不尽な、天災のごとき破壊。
(――ッ、馬鹿げている! これが……これが、“姫”たちの戦いだというのか……!?)
ハインケル少佐は煙に塗れた顔を上げ、ガタガタと打ち震える唇を噛み締めた。
たった一射。
戦場の遥か高空で繰り広げられる死闘の、たった一発の流れ弾が掠めただけで、自分たちが何日もかけて構築し、万の命脈を繋いできた膨大な補給線が、一瞬にして焼き尽くされたのだ。
人間の兵術、陣形、戦略――それら人間が積み上げてきたあらゆる理識や努力を、虫ケラのように踏みにじる天上の戦い。
その天秤がどちらかに僅かでも傾けば、それだけで人の世界など容易く崩れ落ちてしまう。まるで寝物語の――。
(――否! 否! 否ッ!! 寝物語などでは、断じてないッ!! 彼奴らの戦いは……今、確かに私の頭上で繰り広げられているのだ! この肌の一寸先で、私たちの命を弄びながら!!)
声に出せぬまま、胸の奥底で血を吐くように絶叫するハインケル少佐。
彼は荒い呼吸を整え、煙で滲む両目を必死に開くだけ開くと、理性を絞り出し、冷徹に眼前の状況を観察しようと努めた。
煙の晴れゆく焦土を観察すれば観察するほど、ハインケル少佐の顔色は絶望的な蒼白へと変わっていった。
兵站区画は、完全に壊滅していた。
焦げたクレーターの周囲を探せば、運良く燃え残った物資も幾ばくかは回収できるかもしれない。
だが、前線に配置された一万の連隊、そして後方待機組を含めた膨大な兵数を養うには、あまりにも、圧倒的に物資が不足していることは誰の目にも明白であった。
さらに決定的なのは、物資そのものよりも人員の消失であった。
残されたわずかな物資を正確に管理し、記録し、各連隊へと公平に配分するための熟練した兵站兵たちの大部分が、いまの爆撃によって一瞬で灰となって消え去ってしまったのだ。
配給系統の完全な麻痺。
こうなってしまえば、帝国軍が誇る膨大な兵力そのものが一転して、己の首を絞める絞首縄へと変貌する。
食うものがない大軍ほど、脆く扱いづらい存在はこの世に存在しないからだ。
戦況の完全な逆転とまではいかずとも――帝国軍が保持していた圧倒的な優位の土台は、いまの一射によって叩き壊されてしまったのだ。
(……偶然か……!? 敵に弾き返された砲撃が、たまたま我が兵站区画へ飛んできたというのか……!? それとも……それすらもあいつらの策略だというのか……!?)
狼狽し、冷や汗を流しながら自問自答を繰り返すハインケル少佐。
どうあれ、結末は変わらない。
もはや、この焼き払われた台所では、前線の一万の兵を養い続けることなど絶対に不可能であった。
そして――兵站区画の壊滅を告げる巨大な黒煙と爆炎は、この広大なフォーマルハウト前線のどこからでも、一目瞭然で見えていたはずだった。
「食糧庫が吹き飛んだ」「今日の夕飯が出ない」「補給線が断たれた」――。
その噂が前線の兵士たちの間に広まるのは、もはや時間の問題であった。
食えぬ恐怖は一瞬で伝染し、兵士たちの士気を壊滅的に低下させるだろう。
(どうする……どうすればいいのだ!? 前線指揮官に撤退を進言するか……? いや、だが進軍の命令権は……)
ハインケル少佐が狂おしく思考を巡らせていた、まさにその時であった。
彼の遠い視界の端で、信じがたい現実が動き出そうとしていた。
「……なっ……!? あれは……城門が……!?」
ハインケル少佐は思わず自身の目を疑い、煙を拭って前方のフォーマルハウト正門へと視線を凝らした。
ズズズズズズ……ッ!
重々しい石と鋼鉄の軋む音が、数キロ離れた後方陣地にまで幽かに響いてくる。
これまで貝のように固く閉ざされ、ヴァルゴ王国の特使団を招き入れた時以外、決して開くことがなかったフォーマルハウトの巨大な大正門――それが、いま静かに、ゆっくりと左右へ開かれていったのだ。
城門の奥から現れたのは、フォーマルハウト防衛軍の旗を掲げた、見るからに疲弊し困弊した少数の部隊であった。
――途端。
前線を固めていた帝国軍の各連隊から、地鳴りのような歓声と怒号が一斉に上がった。
「門が開いたぞ! 敵が撃って出てきた!」
「中に糧食があるはずだ! 街を奪えば飯にありつけるぞっ!」
痩せても枯れても、フォーマルハウトは大陸全体の貿易と物流の中心地点であった都である。
城内の巨大な倉庫や商業区画には、数ヶ月を生き延びられるだけの莫大な物資や高級食糧が残されている可能性は、極めて高かった。
後ろの兵站区画が吹き飛び、手持ちの食糧以外は飯がない、という極限の飢餓感と焦燥に叩き落とされた前線の兵士たち。
彼らにとって、目の前で開かれた城門は、まさに渇きを癒す唯一の救いの光に見えたのだ。
前線指揮官たちの制止の叫びなど、すでに飢えた兵士たちの耳には届いていなかった。
前線を固めていた人魚兵と正規歩兵の連隊は、フォーマルハウトから飛び出してきた脆弱な敵の先鋒部隊を圧倒的な暴力で押し込むようにして、我先にと開いた正門の奥へ――街の中へと怒涛の勢いで雪崩れ込んでいった。
城内に侵入し、物資を奪い、糧食を確保する。
略奪。それ自体は、太古の昔から戦場において繰り広げられてきた、極めて日常的で当たり前の光景に過ぎない。
そこに何のおかしな点も、不自然な点も存在しないはずであった。
――しかし。
「……なんだ……?」
後方の焦土の中にぽつんと取り残されたハインケル少佐の胸の奥を、不気味で冷たい棘のような違和感が鋭く刺し貫いた。
(……なんだ、この……例えようもない、胸をかき乱すような違和感は……)
ハインケル少佐は、喉の奥にへばりつく悪寒を拭い去ることができなかった。
あまりにも手際が良すぎる。
兵站区画が吹き飛び、兵士たちが給食の絶望に包まれたまさにその絶妙なタイミングで、これまで頑なに開かなかった巨大な城門が「どうぞ入ってください」と言わんばかりに静かに開かれたのだ。
まるで――最初からこちらの兵站が吹き飛ぶことを予見していたかのような。
まるで――飢えた兵士たちが我先にと城内へ雪崩れ込んでくることを、手ぐすね引いて待ち構えていたかのような。
思考が、不吉な警鐘を鳴らし続ける。
しかし――遥か後方の焦土からその光景を呆然と眺めているだけのハインケル少佐には、前線の狂乱を止める術など何一つとして存在しなかった。
彼にできることと言えば、ただ、まるで我先にと群がる哀れな犠牲者を誘い込むべく、巨大な口を大きく広げた恐ろしい怪物のごとき街の中へ、次々と吸い込まれ、呑み込まれていく同胞たちの背中を――。
――ただただ、底知れぬ恐怖と共に黙って見送ることしかできないのだった。
◆◇◆




