348話「フォーマルハウト防衛前線」-前
◆◇◆
帝国遠征軍の陣営において、油断や驕りが無かったと言えば嘘になるだろう。
帝国軍が長年にわたって抱え続けてきた最大の構造的弱点――それは、重ねて描写してきた通り、広大な版図に対して決定的に不足している、兵卒の絶対数であった。
しかし、その致命的な穴は、"人魚姫"が拿捕されたことにより、埋められることになった――彼女から無数に生み出される、"人魚兵"の存在だ。
急拵えで大量育成・編成された兵士とはいえ、その身体能力の高さと命を聞き届ける作戦遂行能力は相当なものであった。
帝国軍において古くから運用されている高度な連携戦術や陣形運用の練度・理解度こそ、急拵えに高くはなかったものの、帝国が誇る圧倒的な工業力から生み出された近代的な銃火器は、たとえ素人の兵卒であっても、持たせるだけで瞬く間に一端の歩兵連隊へと変貌させる。
その上、今回のフォーマルハウト攻略戦には、帝国が誇る強力無比なる"姫"が三人も同行しているのだ。
都市内部に立て籠もる敵方にも"姫"は存在するようだが、前線の情報によれば、帝国の"姫"たちに以前敗北し、命からがら逃げ延びてきた敗残兵に過ぎないという。
となれば――帝国側の圧倒的な優位は揺るがない。
無理な正面突破などせずとも、フォーマルハウトの防衛軍と、それを助けに来た哀れな友軍たちをじわりじわりと弱らせ、最後は帝国の誇る"新兵器"をもって一網打尽にすればいい。
そうなれば、かつてエリダヌス連邦に属していた周囲の弱小な小国たちは、戦う意欲を完全に砕かれ、皆フォルナクスへと膝を屈して従属する道を選ぶだろう。
これはそういった、ある意味では結論が最初から決まっている、一方的な蹂躙になるはずであった。
――最初に異変に気が付いたのは、前線から数キロ後方に陣を構える兵站を担当する部隊の兵士たちであった。
長期にわたる大軍の行軍と包囲戦において、兵站の維持・管理と糧食の厳密な計算は、戦果そのものを左右する極めて繊細な業務である。
故に、この重要な後方支援の現場には、命令の融通が利きづらい急造の人魚兵ではなく、正規の教育を受けた人間の兵卒と将校による専門部隊が配置されていた。
後方兵站補給連隊――その第三大隊を率いていたのは、ヴァルター・ハインケル少佐であった。
判断力と思慮深さに溢れ、実務経験も豊富なハインケル少佐は、大戦こそ経験していないものの、これまで帝国軍の軍需を支え続けてきた、脂の乗り始めた四十代半ばの優秀な中堅将校であった。
陣幕の中で夕食の配給スケジュールと物資の棚卸し業務を行っていたハインケル少佐の元へ、唐突に部下の特務中尉が蒼白な顔で駆け込んでくる。
「た、隊長! 大変です! 兵站区画の第二野積糧食庫から火の手が挙がりました!」
ハインケル少佐は手元の書類から煩わしげに顔を上げた。
戦場における部下の「大変」という叫びの八割は、要領の悪さや誤認から来るものだと、これまでの軍隊生活経験から熟知していたからだ。
しかし、今回の報告に限っては、彼の不快感を一瞬で吹き飛ばすほどの重大な意味を含んでいた。
「――なんだと? 消防班の稼働はどうなっている!
」
「ハッ! 幸いにも巡回中の警備兵が即座に発見し、初期消火を実施したため、燃え広がる前に火は鎮圧されました! ですが、保存干し肉と小麦粉の俵、およそ二日分が消失・水浸しとなりました!」
報告を聞いたハインケル少佐の眉根が、不吉な予感と共に険しく寄った。
長らく大軍での長期行軍を行ってこなかった帝国軍においては、前線における大規模連隊の台所を効率的に管理するノウハウが、上層部の間でもすでに半ば失われかけていた。
さらに今回の遠征では、補給線が国境を越えて極限まで伸び切っている。
つまり、ほんの僅かな物資の逸失であっても、前線の兵士たちの士気と戦闘維持能力に直結する、取り返しのつかない致命傷になりかねないのだ。
その恐ろしさを十全に理解しているからこそ、ハインケル少佐は僅かに身構えたが――長年の軍隊生活で培った冷静さで即座に思考を立て直し、的確な指示を下した。
「……ふん。どうせ、城内に追い詰められた連中の悪足掻きだろう。敵の潜入工作班が、野陰に乗じて補給線を断ちに来たな。即刻、兵站区画の警備班を三倍に増員せよ。さらに糧食庫の周囲には常に人員を配置、可燃物の周囲には耐火被覆の防布を徹底して被せろ。逃げ道になりそうな暗渠の出口も全て封鎖だ」
「は、ハッ! 直ちに対策を講じます!」
敬礼して飛び出していく部下の背中を見送りながら、ハインケル少佐は重々しく椅子に腰掛け直した。
追い詰められた敵が、兵站を狙ってくることなど、最初から想定の範囲内であった。
敵の工作班の規模が知れている以上、警備を厳重にすればそれ以上の被害が出ることはない――ハインケル少佐は、事をそこまで深刻に捉えてはいなかった。
(それにしても、こんな工作を打ってきたということは……いよいよ奴らも降伏の選択肢を捨てたということだな。徹底抗戦の構えなら、この前線連隊に必要な糧食と弾薬の追加物資は、あと――)
頭を即座に切り替え、次なる補給計画の計算を開始したハインケル少佐。
――その時であった。
仮設の陣幕の隙間、そして遥か高空の天窓から、眩いばかりの魔力の残光が後方陣地の内部へと差し込んできたのは。
「……ん? なんだ……?」
不審に思ったハインケル少佐は、ペンを置き、陣幕の外へと足を踏み出した。
ふと仰ぎ見た秋の澄み切った空。
数キロ彼方のフォーマルハウトの城壁の影から、一筋の美しい影が空中へと勢いよく飛び出していくのが見えた。
「……っ! あれは……!」
周囲の兵士たちも手を止め、一斉に空を仰ぎ見ている。
それは、地面から吹き上がる重厚な泥水の水流を足場にして、音速級の速度で空を駆ける美しい少女の姿であった。
漆黒のレオタードを躍動させながら、空中を自在に跳翔していく異彩のシルエット。
否――人間などではない。あれこそが、此度の戦いを左右する存在――連邦側の"姫"の一人であった。
(……最後に一花咲かせようと、単身で突撃というわけか。やれやれ、敗残兵の連邦も無駄な悪足掻きをするものだ――)
ハインケル少佐は、どこか冷ややかな他人 事のように、空の戦闘を眺めていた。
否、事実として、彼にとっては半ば他人事以外の何物でもなかったのだ。
彼の率いる兵站部隊は、最前線の防壁や包囲陣から遥か数キロ後方に位置する安全圏に留まっている。
今回のような、最初から帝国の絶対的優位が揺らがない圧倒的な消化試合であれば、後方の補給部隊が直接刃を交えるような事態など百パーセントあり得ないからだ。
だからこそ、彼は圧倒的な余裕を持っていた。
国境沿いの廃砦から、帝国の擁する"スズの兵隊"アディラ・スタンニカによる、大気を融解させる絶対の直貫砲が炸裂する。
その必殺の光条が、空を駆ける白鳥の少女へと向かって一直線に迫っていく。
誰もが、あの可憐な少女が空中で蒸発し、一瞬で肉塊となって散るものと確信していた。
――しかし。
空中において、白鳥の少女――セラエナが放った、美しくも苛烈な一閃の旋脚。
パアァァァァンッッ!!!!
大気を震わせる甲高い破砕音が、数キロ離れた後方陣地にまで轟き渡った。
直撃すれば山すらも砕くはずのアディラの魔力弾が、少女の爪先一閃によって呆気なくその軌道を滑らかに偏位させられたのだ。
「……なっ……! 弾いた……だと……!?」
ハインケル少佐の目が、驚愕のために見開かれた。
だが――彼の本当の恐怖と惨劇は、その直後に訪れたのだった。
セラエナによって跳ね返された、アディラの超大質量魔力弾。その弾道は、放たれたエネルギーを一切減少させることなく、その進行方向のみを変えた。
そして、そのまま一直線に、ハインケル少佐たちの座す方角――後方兵站部隊へと迫ってくる――。




