347話「"大沸流坑"」
どれほどの時間、この果てしない地下水路を歩き続けていただろうか。
無機質な石畳を踏みしめる私とミラクの足音だけが、絶え間なく壁面に反響し、暗い闇の中へと消えていく。
上枠のスピーカーから聞こえていたザウルの声も途切れ、水垢と泥の匂いだけが立ち込めている。
沈黙を破ったのは、私の少し前を歩いていたミラクだった。
「――ねえ、ノクティア。一つ、聞いてもいいかしら」
振り返りもせず、前方の暗がりを見つめたまま、彼女はぽつりと問いかけてきた。その声音は、普段の彼女が持つ勝気で毅然とした響きとは程遠い。
「……何かしら、ミラク?」
私が歩みを緩めずに問い返すと、ミラクは小さく息を吐き出し、踏み出す足取りを重々しく歪ませた。
「……私たち"姫"は、自らに割り当てられた"物語の完結"を迎えない限り、病で倒れることもなく、どれほど傷つこうと真の死を迎えることがないわよね」
「……ええ。そうね。この世界の理が、私たちを縛り付けている限りは」
私の短い返答を聞くと、ミラクは自らの両手を固く握り締め、爪が皮膚に食い込むほど強く拳を握り潰した。
「……なら、私たちは一体何のために、こうして戦い続けなければならないのかかしら。……戦えば戦うほど、守りたかったものは奪われていく。戦うたびに、大切な人たちは傷付いていくっていうのに……」
「ミラク……」
沈痛な面持ちで悲痛な想いを零すミラクに対し、私は咄嗟に返すための適切な言葉を見つけ出すことができなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
彼女は自身を慕ってくれていた数多くの同胞や仲間たちを、"かぐや姫"との戦いの中で失ってきた。そしてフォーマルハウトへ至る道中においては、彼女にとって最も近しく、最も頼りになる懐刀――バナビーまでもが、重傷を負って倒れてしまったのだ。
彼女の心は、もう限界を迎えていた。
幾重にも刻まれた見えない傷口から、血を流し続けている状態だったのだ。
「あんただけじゃないわ。あの白鳥の衣装を着たセラエナって子もそう……あの化け物みたいに強い"ドロシー"だってそうよ」
ミラクは静かに立ち止まり、暗闇の中でゆっくりと私の方へと振り返った。
ランプの弱々しい光に照らされた彼女の碧眼には、果てしない疲弊と、深く暗い迷いの影が色濃く差していた。
「報われる保証なんて、どこにもないのよ? どれほど戦ったって、報われるかどうかも分からない。それなのに、どうして貴女たちはそんなにも強く、前を向いて戦い続けられるの……?」
縋るような、そして自らを責めるようなミラクの問いかけ。
「……私は」
私は自らの胸にそっと手を当て、思考を巡らせた。
なぜ、私は戦い続けられるのか。
私には、いつだって戦うための明確な理由が存在していたからだ。
グラスベル領――ひいてはヴァルゴ王国のために、自らの身体を差し出した、この体の持ち主の想い。
そして、"レグルス砦"で、散っていったスピカやオレオーン。彼女らの犠牲と遺志に報いるため、私は立ち止まるわけにはいかなかった。
その理由は、旅を重ねるごとにどんどんと大きく、分厚く膨らんでいったのだ。
ヴァルゴ王国の民や仲間たちとの出会い。連邦や公国で得た新たな絆。そして、聖教国での過酷な試練と、そこで得た確固たる繋がり。
それらが積み重なったからこそ、どれほど絶望的で熾烈な戦況でも、私は折れずに耐え抜くことができたのだ。
――しかし。
ミラクは恐らく、そうではなかった。
積み上がるのは失意ばかり。だからこそ、今の彼女の精神状態は、いつ壊れてもおかしくないほどに危うく、不安定であった。
彼女の細い肩を見つめながら、私は胸の奥底に、凍りつくような恐ろしさを覚えていた。
(……ダメよ、ミラク。そんな顔をしないで……)
いまのミラクの全身からは、自らの命すらも投げ打とうとする、捨て身の気配が漂っていた。
(――ザウルが言っていた、"かぐや姫"を討ち取るための策。……今の私には、それを信じるしかないけれど……)
けれど、戦術や策だけでミラクの傷ついた心を救うことなどできはしない。
彼女が自らを省みない独り善がりな強さを求め続けてしまえば、仮に宿敵を倒せたとしても、その直後に彼女自身が崩れてしまうだろう。
今の彼女に必要なのは、強さでも奇策でもない。
絶望の中でも、前を向いて歩き続けるための――戦う理由なのだ。
「……ねえ、ミラク。私ね――」
私は覚悟を決め、彼女を真っ直ぐに見つめ返し、自らの胸の奥にある想いを明かそうと口を開いた。
――しかし。
私の言葉が紡がれるよりも早く、ミラクが息を飲み、不自然に足を止めたのだった。
「……着いたわね。ここが……"大沸流坑"」
私の言葉を遮るようにして、ミラクが低く静かな声音で呟いた。
狭い通路を抜け出たその先には、これまでの暗い一本道とは、比較にならないほど広大な地下空間が存在していた。
天井は遥か頭上にまで吹き抜け、視界を埋め尽くしているのは、壁面や床を這う太い金属製の配管網と、巨大な城砦を思わせる無骨な鋼鉄のボイラー設備群。
"大沸流坑"――。
フォーマルハウトの地下深くに存在する、水の都の水回り全体を管理・維持するための旧式巨大ボイラー区画。
かつて帝国の高度な重工業技術を用いて建設されたこの巨大施設は、海水から蒸気を作り出し、都市全体へと熱エネルギーと温水を供給するための心臓部として稼働していた歴史を持つ。
しかし、フォーマルハウトにいくつも存在する施設の中でも、この設備は特に古く、経年劣化による老朽化が著しく進んでいた。そのため、現在では都市の郊外に近い地下へと機能を移設され、今では緊急時の予備・補助的な使い方しかされていないのだという。
水を抜かれた巨大なボイラーの周囲には、未だに微かな重油の匂いと、過去に蓄熱された湿り気を帯んだ生温かい熱気が滞留しており、肌にまとわりつくような不快な感覚を覚えさせた。
「……早くここを抜けちゃいましょ。……気味の悪い熱も不快な湿気も、もう沢山だわ――」
ミラクは不機嫌そうに吐き捨てながら、配管が入り組むボイラーの脇を通って地上出口へと続くルートへ足を踏み出そうとした。
――その、まさに直後のことだった。
(――っ!?)
ゾク、と。
私の全身の毛髪が一斉に逆立ち、脳髄が激しい警鐘を打ち鳴らした。
大気を切り裂き、皮膚を削り取るかのような、圧倒的で濃密な殺気。
「――っ!? ミラク、伏せてっ!」
思考よりも早く、私は叫んでいた。
ミラクは私の叫び声と同時に、身を翻して地面へと反射的に倒れ込む。そのわずか数ミリ頭上の空間を、凄まじい威力を秘めた蹴撃が風を切って駆け抜けていった。
余波の暴風だけで、ミラクの髪留めが弾け飛び、彼女の髪が激しく散乱する。
「――くっ……っ!?」
間一髪で死の蹴りを交わし、石畳の上を転がって体勢を立て直したミラクであったが、その顔は驚愕に歪んでいた。
もしも私の警告がコンマ数秒遅れていれば、彼女の首から上は一瞬で叩き折られていたはずだ。
「何者……!? とにかく、すぐに援護するわ――!」
私は瞬時に両手を前方へと突き出し、魔力を全開で解き放つ。
ミラクを襲撃した正体不明の影の眉間を貫くべく、硝子の長槍を数本生成し、猛然と射出しようとした。
――しかし。
私の放った硝子の槍は、標的に届く前に、横合いから飛び込んできた"何か"によって半ばで力ずくで破砕された。
バキィィィンッッ!!!
「……っ!? この……攻撃は……っ!?」
甲高い破砕音と共に、硝子の槍を粉々に打ち砕いたもの。
それは――大気を凍てつかせながら飛来した、氷の長槍であった。
バラバラと崩れ落ちる硝子の破片と、空間を埋め尽くす猛烈な冷気の霧。
極寒の波動が、ボイラー室の生温かい熱気を一瞬にして塗り替え、周囲の金属配管に白い霜を付着させていく。
私の脳裏に、あの極寒のガーランドで味わった、無力感と絶望の悪夢が鮮烈なフラッシュバックとなって蘇った。
この魔力の波形を持つ存在を、私は嫌というほど知っていた。
「にゃはははは……っ! よく避けたじゃんかさぁ、ミぃラぁクぅ……っ♪」
ミラクへ向けて凶悪な蹴りを放った人影が、滑らかな跳躍でボイラーのパイプの上へと着地し、嘲笑うような狂気混じりの声を上げた。
暗がりの中から露わになった、その襲撃者の異様極まる姿。
細くしなやかな腰つきには、露出度の高い漆黒のレオタードを纏い、背中には大きなウサギの尾を思わせる白い飾りが揺れている。
そして何より異彩を放っていたのは――彼女の太腿から先の両脚であった。
人間のものではなく、巨大な野兎を思わせる、強靭で不気味な獣の脚へと変異した、蠱惑的で歪なバニーガールのような格好の女性。
彼女は高所のパイプの上で深い前屈みの姿勢を取ったまま、底意地の悪いニヤニヤとした笑みを浮かべ、侮蔑に満ちた瞳で下方のミラクを見下ろしていた。
「"かぐや姫"……!? どうして、あんたがここに……っ!?」
ミラクの顔が激痛と憎悪で硬直する。
大切な仲間たちを無惨に殺戮し、バナビーに深手を負わせた凶悪な"姫"――しかし、目の前の彼女は、ミラクの殺気立った詰問など意にも介さない様子で、軽やかに両手を広げて立ち上がった。
「どうしてって、冷たいなあミラクちゃん! 遊びに来てあげたんだよ、ボクたちはさぁ! いいでしょいいでしょ? こういうのって、女子会ってやつじゃん♪」
仰け反るように洪笑を上げる"かぐや姫"。
その狂気じみた声に応じるかのように、巨大なボイラーの裏側の深い暗がりから、静かな足音が近づいてくる。
「――わたしも。あなたに……あいたかった」
静寂を切り裂いて届いた、拙い少女の声。
「――っ、あなた、は……っ!!」
私の身体が、激しい戦慄によって金縛りに遭ったかのように硬直した。
暗がりからゆっくりと姿を現したのは、その拙い喋り方とは裏腹な、美しくも冷酷な美貌を携えた女性であった。
その目元には一切の感情を宿さない、深く澄み渡ったサファイアの双眸。
彼女が踏み出す一歩ごとに、床がバリバリと音を立てて白く凍りつき、周囲の熱気を食い尽くしていく。
「――アダーラ。……あんたとは、ここで決着を……つけなきゃいけないようね」
私は自らの声が震えるのを必死に抑え込みながら、低く言い放った。
――"雪の女王"、アダーラ・シリュウ=ギルダリア。
かつてガーランドで私を打ちのめし、絶望の底へと叩き落とした、恐るべき"姫"。
彼女は、あの時よりも遥かに深く、凍てつくような殺意をその表情に宿しながら、冷たく私を睨みつけていたのだった――。




