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【10万PV突破!】間に合わなかったシンデレラは、硝子の靴で戦場を踊る  作者: 入江 鋭利
26章「兎と氷と裏切りの開戦」

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346話「暗渠を行く」


 ピシャン、と。


 私の靴底が、暗がりの中で足元の浅い水溜まりを静かに踏みつけた。


 波紋が冷たい水面を揺らし、その幽かな水の音が、見渡す限り続く石造りの暗渠(あんきょ)に幾重にも反響して遠ざかっていく。


 辺りは目が慣れてもなお薄暗く、壁面に一定間隔で配置されたランプの弱々しい光だけが、湿り気を帯んだ通路を淡く浮かび上がらせていた。少しでも油断して意識を逸らせば、空間の感覚を失って永遠に迷い込んでしまいそうなほど、どこまでも同じような景観が続いている。


 私――ノクティアと、隣を歩くミラクが歩を進めているこの場所。


 ここはフォーマルハウトの地下通路――否、地下水路の最深部であった。


 フォーマルハウトという巨大な水の都において、都市の隅々にまで清らかな海水を滞りなく循環させ、人々の生活と交通を維持するためには、このような膨大かつ緻密な地下水路網の整備が不可欠であったのだ。


 そして現在、この広大な地下水路からは、全ての水が抜き去られている。


 アダーラの操る氷の魔法への対策、といった部分については、以前述べた通りだ。


 だが、この巨大な排水処理には、その防御的な目的とは別に、ギエナとザウルが密かに仕組んだいくつかの重大な意図が隠されていた。


 その意図の一つが――まさに、今、私たちがここにいることである。



『――あー、あー。……聞こえているかな、二人とも』



 冷たい石壁の各所に埋め込まれた、金属製の小さなスピーカー。


 そのノイズ混じりの音響機器から、暗渠全体を揺らすようにして響いてきたのは、ザウルのどこか陽気で気障な声音であった。


 この地下水路には、かつてフォルナクス帝国から導入された広域放送設備がくまなく張り巡らされているのだ。


「……はぁ。聞こえてるわよ。……っていうかさ、別に私たちがここで声を大にして答えたところで、そっちに私たちの声が届くわけじゃないんでしょう?」


 隣を歩くミラクが、暗闇の中で激しい苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。


 しかし、スピーカーの向こうのザウルは、まるでミラクの文句がその場で見えているかのように、楽しげな笑い混じりの声音で言葉を続けた。


『……ふふ、「そっちの声は届かないんじゃないか」かな? うん、君たちが今そう言って憤っているだろうと予想して答えよう。その通りさ! こちらからの放送は一方通行だからね。でも、僕から君たちへ地上の戦況を伝えられるだけでも、作戦上は十分だろう?』


「……本当に大丈夫なの、これ? 帝国製の放送設備なんでしょう? 敵の技師や通信兵に周波数を割り込まれて、私たちの現在地を傍受されたりしないの?」


 私がスピーカーを見上げながら懸念を口にすると、それすらも織り込み済みであるかのように、ザウルの声が軽やかに返ってくる。


『……「帝国製だから傍受されたりしないのか」かな? これにも先回りして答えておこう。大丈夫さ! 帝国から昔輸入された古い規格の設備を、僕の方で極秘に改造してあるからね! 帝国の暗号解読班でも、この周波数を割り出すことは不可能だよ』


 まるで私たちの表情や会話をその場で見ながら対話しているかのように、完璧なタイミングと内容で先回りの応答を返してくるザウル。


 ミラクは呆れ果てたように深く溜息を吐くと、オーバーな身振りで両肩を竦めて見せた。


「……ハッ、相変わらず嫌な奴。本当に、あの総議長様には敵わないわね」


「そうかしら? お互いの性格や考え方が分かっていれば、どんな言葉を返すかくらい、ある程度は予想できそうなものけれど……」


「忘れてたわ。あんたも大概、あいつと同じくらい変わってたわね」


 ジトっと、私を睨みつけてくるミラク。


 私は苦笑いを浮かべながら、頭上のスピーカーを指差し、そっと人差し指を唇に当てた。


「ほら、無駄口はここまで。たぶんそろそろ、ザウルが本題の計画について話し始めるわよ」


 私の言葉と寸分違わず、スピーカーから流れるザウルの声音から軽薄さが消え、重々しいトーンへと切り替わった。


『――よし。それじゃあ、本題に入るよ。君たちの目的地は、その暗渠をこのまま先へ進み、およそ二時間ほど歩いた先にある"大沸流坑(カルデラ・チャンバー)"の分岐点さ。……まあ、君たち"姫"の常識外れの身体能力なら、本気で走ればほんの数分で着いてしまうだろうけれどね』


「……冗談じゃないわよ。みんながみんな、あの白鳥のレオタード娘みたいに、無茶苦茶速度で動けるわけじゃないのよ」


 ミラクがぼやくように小声で毒を吐く。


 もちろん、その不満の声が地上の中央指揮所にいるザウルに届くはずもなく、放送は粛々と続けられた。


『……そこまで安全に到達できれば――地上でフォーマルハウトを包囲している帝国軍一万の、背後を取ることができるはずだ』


 そう、私たちが決行しようとしているこの地下作戦の本質。


 それこそが、完全に水を抜き去ったこの巨大な地下水路網を利用した、敵包囲陣の迂回奇襲作戦であった。


 フォーマルハウトの地下水路は、単に街の敷地内だけに留まっているわけではない。


 都市の外縁部、遠く離れた沿岸部や外海の敷地近くにまで、縦横無尽に伸びているのだ。


 さらに言えば、過去数度にわたり、効率的な海水の循環と都市の拡大という名目のもとで増築と改修が繰り返されてきたこの地下水路は、もはや設計図すら意味をなさないほどに複雑怪奇な迷宮と化していた。


 現在のエリダヌス評議会の高官たちや技師たちですら、この地下水路の全貌と隠されたルートを完璧に把握している者は誰一人として存在しない。



 ――そう。



 水の都のすべてのインフラと歴史を熟知した、若き総議長ザウラシス・アカルというただ一人の男を除いては。


「……まあ、いくら私たちが裏から奇襲をかけると言ってもね」


 暗い通路を並んで歩きながら、ミラクがぽつりと、重い声音で呟いた。


「地上でのもう一つの作戦が上手くいっていなきゃ、全部意味がないでしょうけれど」


「……ええ。分かっているわ」


 私は静かに頷いた。


 ミラクの言う通りだ。今回のフォーマルハウト防衛戦は、複数の作戦の歯車が噛み合って初めて成立する、極めて繊細な綱渡りであった。


 地上でフォーマルハウト防衛軍と聖教騎士団を率い、狡猾な兵糧攻めと防壁からの遠距離攻撃で敵一万の足を止めるギエナ。


 そして、単身で空へ飛び立ち、数十キロ彼方から放たれる死の超長距離狙撃手"スズの兵隊"アディラを抑え込みに向かったセラエナ。


 さらに、地下から回り込み、敵の背後を突く私たち"姫"による奇襲部隊。


 これらの歯車のどれか一つでも崩れ去れば、作戦全体の効力は半減し、私たちは瞬く間に包囲されて全滅することになる。


 そして――そのすべての歯車の中で、もっとも過酷で、もっともウエイトが大きい役割を背負っているのが、他でもないセラエナであった。


(……セラエナ)


 私の脳裏に、出撃直前、見張り塔の上で凛とした可憐な笑顔を浮かべていた彼女の姿が鮮烈に蘇る。


 もしも彼女がアディラの猛攻を抑えきれず、作戦通りに動きを封じることができなければ……私たちはこの地下水路から地上へ出た瞬間、あるいは地上で防衛戦を展開している味方ごと、アディラの不条理な超長距離砲撃によって一方的に消し飛ばされることになるだろう。


 彼女の肩には、このフォーマルハウト防衛戦の全ての成否、そして私たちの命そのものが重々しくのしかかっているのだ。


(大丈夫……彼女なら、絶対にやり遂げてくれるわ。あの愚直で真っ直ぐな強さを、私は信じる……!)


 私は胸の奥で自分にそう言い聞かせ、乱れそうになる呼吸を整えた。


 カツン、カツン、と。


 静まり返った暗渠の底に、私とミラクの静かな足音だけが規則正しく響き続ける。


 頭上のスピーカーから聞こえるザウルの声を道標に、私たちは冷たい闇の奥――"大沸流坑"を目指し、一歩一歩、確実に行軍を続けていくのだった。



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