343話「至極単純な話でして」-前
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――時間は、二日前の深夜へと遡る。
アディラの超長距離狙撃を受けたあの夜。"晶潮館"を後にしたヴァルゴ王国特使団一行が身を寄せたのは、フォーマルハウトの城門から少し離れた路地裏に佇む、一軒の古びた宿屋であった。
住民たちがとっくに避難を終え、もぬけの殻となった木造の宿屋。
擦りガラスの窓枠から差し込む冷ややかな月光と、古びた卓上ランプの小さな揺らめく灯火だけが、埃っぽい室内を淡く照らし出している。
テーブルの上には冷え切った紅茶のカップが置かれ、湿り気を帯んだ潮風が、壊れた通気口からヒューヒューと悲しげな音を立てて吹き込んでいた。
「……ってことでさぁ。既にエリダヌス連邦は内部から完全に空中分解し、孤立無援。各州の重鎮どもはハナから諦めムードで、兵を隠して保身を始めていやがる……。まったく、ひでえもんですね」
ギエナは椅子の背もたれに深く体重を預け、心底呆れたように大きな溜息を吐き出した。
彼が今しがた口にしたのは、"晶潮館"の大会議場でイザールと密談を交わし、その鋭い観察眼によって引きずり出したフォーマルハウトの本当の現況であった。
支援のための援軍が見込めない――それどころか、首都フォーマルハウトを守るための連邦自身の保有兵力すらまともに動員できていないという、あまりにも絶望的な真実。
「……何よ、それ。ふざけているわね」
卓上の紅茶に視線を落としていたノクティアが、心底から呆れ果てたような声で低く呟いた。
教国での戦いの傷も癒えきらぬうちに、命懸けでここまで駆けつけたというのに、肝心の連邦自体が戦う前から自滅していたのだから、その憤りと徒労感は察するに余りあるものだった。
「こうなると、エリダヌス連邦はもはや一つの国家とは呼べませんね。連邦が成立する前の、小国群の集まりへと逆戻り……というわけですか」
腕を組み、壁に身を預けていたセラエナが、淡々とした静かな声音で論評を付け加えた。
彼女のその客観的な指摘に対し、ギエナは毒々しい笑みを口元に浮かべながら深く頷いて見せた。
「へえ、まさにセラエナ嬢の言う通りでさぁ。そして……それこそが、攻めてきている帝国側の本当の狙いなんでしょうね。巨大な連邦という脅威を戦わずして崩壊させ、バラバラになった弱小国家どもに対し、後からゆっくり"従属"か"侵略"かを迫ればいい……。まったく、帝国にとっちゃ笑いが止まらねえほど楽なお仕事でさぁ」
「……何とかならないの? 元々連邦を構成していた他の州や国たちに、今からでも緊急の外交文書を飛ばして働きかける方法とかは……?」
ノクティアは縋るような眼差しをギエナへと向けた。
けれど、彼はかぶりを振り、冷酷な現実を突きつけた。
「……我々がこのフォーマルハウトで敵を返り討ちにし、勝利してみせる……それ以外に道は無えでしょうね。ザウル――それに、ミラク嬢やセプテニア公のような残留指導者たちが、今なお傘下に寄るに足るだけの強者であると、証明してみせるしかねえでしょう」
ギエナの厳しい言葉が落ちると、室内は重々しい沈黙に包み込まれた。
ノクティアは唇を噛み締め、卓上のランプの小さな炎をじっと見つめたまま、微動だにせず黙り込んでしまった。
――しかし。
この場において沈黙した二人――ノクティアとギエナは、決して絶望に打ちひしがれて絶望していたわけではなかった。
二人は形は違えど、生粋の策略家である。
一人は、異世界の知識を武器に。
もう一人は、経験とその知略を武器に。
言葉を止め、集中して思考の海へと深く潜り込んでいたのだ。
圧倒的な兵力差。空中分解した連邦。この最悪の盤面から、一体どのようにして敵の隙を突き、勝利を毟り取るか。
脳内で何千、何万という戦術の駒を高速で組み替え、勝利への細い蜘蛛の糸を必死に手繰り寄せようとしていた二人。
だが――その静寂の意味が、純粋で真っ直ぐなセラエナには、まったく違うものとして映ってしまっていた。
(……ノクティア様も、ギエナ殿も……! 連邦の絶望的な状況に答えを見出せず、諦めて俯いてしまった……!?)
彼女の視点から見れば、二人とも絶望的な現実に打ちのめされ、暗く沈み込んで言葉を失ってしまったようにしか見えなかったのだ。
どこまでも単純で、どこまでも一直線な彼女の心が、その勘違いによって激しく煮え立ち、燃え上がった。
バンッッ!!!!!
湿った静寂を破り、壊れるほどの勢いで木製のテーブルが叩きつけられた。
「――百折不撓!!! 何を諦めていらっしゃるのですか、お二人とも!!」
あまりの唐突な爆音と金切り声に、思考の海に潜っていたノクティアとギエナは、ハッと正気に戻って目を丸くした。
テーブルを両手で激しく叩きつけたまま、セラエナはひっつめた黒髪を揺らし、燃え上がるような熱い眼光を二人へと叩きつけていた。
「まだまだ我々も健在であり、ここフォーマルハウト防衛軍の勇猛なる兵たちだって残っているのです! 戦いが始まる前から、そんな風に黙りこくって俯くなど……到底、早すぎますッ!」
「……いえ、セラエナ。そうじゃないのよ。別に諦めているわけじゃなくて……」
ノクティアはあまりの勢いに気圧されながらも、苦笑いを浮かべて宥めようと手を伸ばした。
「相手の方が兵力も戦力も遥かに上だし……それに、さっきの高台での不条理な超長距離狙撃だって、凄まじい威力だったでしょう? だから、感情論じゃなくて、色々と考えなきゃいけないのよ……」
「そうじゃないなら、一体どうなんですか!? あんな狙撃砲撃なんて、私が何発だって弾き返してみせますよッ!!」
「だから、そうじゃなくて……」
ノクティアは言葉の通じない純粋すぎる熱量に対し、「はぁ……」と肩を落として呆れ顔を作った。
――しかし。
そのやり取りを横で見ていたギエナの眉が跳ね上がった。
ギエナは深く眉根を寄せ、肉食獣のような鋭い眼光で、セラエナの全身を射抜くように凝視した。
「……セラエナ嬢。あんた……今、なんて言いやした?」
「……? ですから、戦う前から諦めるのはまだ早いですと――」
「その後でさぁ! あの化け物みたいな超長距離砲撃を……何発だって弾き返すと言いやしたね?」
彼が驚愕するのも当然であった。
自身の目で直接知っていたのは、初日の正門前において、メロフィと共に二人掛かりで全魔力を振り絞り、ようやく軌道を僅かに逸らすのが限界だったという、事実だけだったからだ。
それなのに、いま目の前に立つ少女は、あの長距離、超威力の狙撃に対し、「何発だって弾き返せる」と絶対の自信をみなぎらせて言い放ったのだ。
単なるハッタリや無知ゆえの暴論ではない。
修羅場を潜り抜けてきたギエナの直感が、彼女のその言葉の裏側に宿る、何かを察していた。
ギエナのその迫真の反応に引っ張られるようにして、ノクティアも何かを思い出したように、ポンと手を叩いた。
「……あ! 確かにそういえば、ギエナ。セラエナはさっきの高台で……ザウルを守る時に、あの"スズの兵隊"の魔力弾を、たった一人で綺麗に蹴り逸らしてみせたのよ!」
「……っ、そりゃあ、マジですかい、お嬢様……!?」
ギエナは椅子から身を乗り出し、目を血走らせてセラエナへと詰め寄った。
「セラエナ嬢、教えていただけやすね。あんた、一体どうやってそんな芸当をやり遂げてるんです?」
それに対し、問い詰められたセラエナ本人はといえば――。
なぜそんな当たり前のことに対して二人がこれほど大騒ぎしているのかと言わんばかりに、心底から不思議そうな、そして少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべてみせるのだった。
「……はぁ。だから、最初から言っているではありませんか。理由なんて……至極単純な話でして――」
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