341話「空を舞う白鳥」
天窓から差し込む冬の冷たい朝光と、湿り気を帯んだ海風。
その高台の頂点に、ただ一人で佇む純白と漆黒。白鳥の舞踏衣装を纏い、十数キロ彼方の国境沿い――"スズの兵隊"アディラ・スタンニカが潜む暗がりを真っ直ぐに見据える少女、セラエナ。
これから彼女が臨もうとしている任務は、正気とは思えない、正しく埒外の危険を伴ったものだった。
(……セラエナ……)
胸の奥を突き上げる激しい不穏と懸念を抑えきれず、私は靴底の石畳を蹴り上げた。
空中へ飛躍すると同時に、足元へ薄く鋭い硝子の踏み台を数枚生成し、それを滑るように踏みつけて見張り塔の上へと一気に跳躍した。
ヒュッ……と風を切る音と共に着地した私に対し、高台の端に立っていたセラエナが、くるりと軽やかにその身体を旋回させた。
「……おや、ノクティア様。いらっしゃったのですね」
振り返った彼女の表情を見て、私は思わず目を見開いた。
そこに、死線へ向かう者特有の悲壮感や恐怖などが、微塵も存在していなかったからだ。
滑らかな黒髪を風になびかせ、その目元にはいつものどこかズレた真面目さと、澄み切った穏やかさだけが宿っていた。彼女はまるで、これから朝の体操でも始めるかのように、平然とした佇まいでそこに立っていたのだ。
「……すごいわね、あなた。こんな生死を分ける絶体絶命の状況だというのに、全く緊張していないじゃない」
私が感嘆混じりの溜息と共に口にすると、セラエナは照れくさそうに「そ、そうですか……?」と首を傾げ、白い手袋をはめた指先で頭を掻いた。
「百戦錬磨! これ見よがしに言うわけではありませんが、私は昔から大勢の観客の前や舞台の上に立つ機会が多かったですからね。本番前の緊張というものには、人一倍慣れているのですよ」
平然と言ってのけるセラエナ。
言葉の通り、彼女の全身からは動揺の欠片すら感じ取ることができなかった。
昨日の晶潮館での作戦会議において、ギエナから不意に名指しされた際、目を丸くしていたのは、単に「まさか自分が指名されるとは思っていなかった」という不意討ちに驚いただけだったのだ。
一度腹を括り、自らの果たすべき役割を受け入れてしまえば、彼女の精神には一切の揺らぎも迷いも生まれない。
(……この子は、本当に強いわ……)
私は彼女の凛とした横顔を見つめながら、胸の奥底から込み上げてくる一つの疑問を口にしかけた。
「――ねえ、セラエナ。あなたはどうして……」
どうして、そこまでして私に、そして特使団に献身の限りを尽くしてくれるのか。
元を正せば、彼女はプレアデス聖教国のお供の騎士であり、かつては私と敵対していた側にいた人間だ。
それなのに、故郷を離れ、苦戦を強いられるこのフォーマルハウトの土壇場において、なぜ自らの命を懸けてまで、これほどまでに真っ直ぐ私を守り、戦ってくれるのか。
けれど――その言葉が喉の直前まで出かかったところで、私はハッと正気に戻り、それを寸前で呑み込んだ。
「……ノクティア様? どうかされましたか?」
不思議そうに首を傾げて私を覗き込んでくるセラエナ。
私は小さく首を横に振ると、作り慣れた微笑みを浮かべて言葉を言い換えた。
「……いえ、なんでもないわ。……それより、今回の兵糧攻めと狙撃手封じの作戦、あなたが一番の肝なのよ。一番危険で過酷な役割だけれど……本当に、大丈夫?」
問いかけながら、私は自分が呑み込んだ疑問の答えに、自ら思い至っていた。
彼女に理由や打算などを尋ねること自体が、最初からお門違いなのだ。
セラエナという少女は、どこまでも単純で、どこまでも純粋な精神の持ち主だ。
"誰かを助けたい""正しい大義のために戦いたい""誰かを守りたい"――そこに損得勘定や見返り、複雑な裏の計算など何一つとして存在しない。
故に、彼女は優しい。
そして――故に、彼女は"強い"のだ。
打算や計算に汚されることなく、己の信じた一本の真っ直ぐな道をどこまでも愚直に駆け抜けていく強靭さ。
この絶望的な戦況において、彼女のその不器用で真っ直ぐな愚直さは、私にとって何よりも温かく、どこまでも頼もしい救いそのものであった。
私の案じるような問いかけに対し、セラエナは一瞬だけきょとんとした顔でパチパチと瞬きをした。
けれど、コンマ数秒の後、彼女の唇は花がほころぶような、眩いばかりの晴れやかな笑顔へと変わった。
「――はい! 勿論でございます! 正しき大義のために自らの全存在を懸けて戦えるなど……騎士として、これほどまでに胸躍ることが他にありましょうか!!」
彼女らしい力強く真っ直ぐな宣言。
言い切ると同時に、セラエナの全身から、凄まじい密度の暗褐色の魔力が爆発的に解き放たれた。
ズザザザザザザッッ!!
見張り塔の周囲一帯の空間に、彼女の固有魔法――『白鳥の湖』が誘発する、重厚な泥水の水流が渦を巻いて激しく迸る。
跳ね上がる水飛沫と泥の旋風の中心で、漆黒のレオタードを纏った美しき舞踏手は、一切の躊躇もなく右手を頭上高くへと掲げてみせた。
「――白鳥の騎士、セラエナ・レイク=オーディット! これより推して参りますッッ!!!!」
ドガァァァァァンッ!!
叫ぶと同時に、セラエナは自身の足元に生成した泥水の高圧水流を蹴り飛ばし、砲弾のごとき凄まじい速度で空へと飛び上がった。
彼女は自身が空中へ放出した泥水の足場を次々と踏みつけ、宙を滑るように舞いながら、数十キロ彼方から迫り来るであろう死の狙撃手目掛けて、どこまでも高く、どこまでも遠くへと駆け昇っていく。
朝光を浴びて空を翔ける、一羽の不屈の黒き白鳥。
「……頼んだわよ、セラエナ……っ!」
私は彼女の小さくなっていく背中を見上げながら、両手に残されたすべての魔力回路を全開で解放した。
「――"シンデレラ城の舞踏会"!!!!」
私の叫びと共に、魔力の波動がフォーマルハウトの潮気が混ざった大気へと伝波していった。
シュアァァァァァァッ……!
干上がった街中の水路の底、大理石の広場、そして見張り塔の周囲のあらゆる場所から、何千、何万という輝く硝子の結晶が勢いよく噴き上がった。
それらの結晶は一瞬にして緻密な幾何学模様を描きながら結合し、高密度の"硝子の舞踏兵"たちの軍勢となって一斉に立ち上がっていった。
窓硝子や建物に反射し、光の乱反射を起こしながら街全体を埋め尽くしていく、無数の魔力反応。
遥か遠くからこちらを狙っている狙撃手には、さぞかし厄介なことだろう。これで、少しでも彼女に向かう弾丸。減らすことができれば――その帰還率を大幅に上げることができる。
(……セラエナ、絶対に死なないでね……!)
立ち並ぶ何百体もの硝子の兵士たちが、空を舞うセラエナの背中を見送るように、一斉に凛とした構えを取る。
私は彼女の無事と作戦の成功を心から祈りながら、生成した硝子の兵士たちを街の防衛線へと残し、静かに踵を返した。
私には、私の戦いがある――それぞれの戦場へと、私たちは歩き出したのだった。




