340話「それぞれの戦場へ」
昨日の大会議場での白熱した作戦会議の記憶から、私の意識がゆっくりと現実へと戻ってきた。
ふと視線を横に向けると、私のすぐ近くにいつの間にかギエナが立っていた。
彼は眉根を深く寄せ、苦々しい表情のまま正門前に整列する兵士たちの陣列をじっと睨みつけていた。
「……どうしたの、ギエナ? 何か気になることでもあった?」
私が不審に思って声をかけると、ギエナは自嘲気味の低い溜息を吐き出した。
「……いえね。まあ、最初から薄々分かっちゃいたことではあるんですがねぇ。……ふむ、むしろこの極限の土壇場で、これだけの数が残った方を褒めるべきですかいね」
「……どういうこと?」
「フォーマルハウト防衛軍の数ですよ、お嬢様。あそこに並んでる兵隊の数をざっと目算で数えてみやしたがね……多く見積もっても、三千と五百。……いえ、後ろの予備兵を足しても、せいぜい四千ってところでしょうよ」
「……え?」
私は驚いて正門前の列をまじまじと見直した。
「……フォーマルハウトの防衛軍は、五千人が残っているって聞いていたわよね?」
私のその問いに対し、ギエナは大袈裟に両肩を竦めて見せた。
「まあ、昨日の夜から今朝の未明にかけて、千人あまりの軟弱者が夜陰に乗じて街から逃げ出したんでしょうよ。予想はしてましたぜ。なにしろ、一万の帝国軍と化け物みたいな"姫"どもに包囲された絶望の鉄火場だ。命が惜しくて敵前逃亡する兵士の数十人や数百人、いや千人単位だって現れるのが戦場の常ってやつでさぁ」
軽口を叩いてみせるギエナ。
けれど、その言葉の裏側に隠された、彼の深い落胆と焦りを私は見逃さなかった。
元々ただでさえ敵との戦力差が圧倒的に開いている現状において、千人というまとまった兵力の喪失は、あまりにも大きな痛手であった。防衛線の維持、そして陣形の密度において、取り返しのつかない穴が空いてしまったことになる。
「……ま、過ぎたコトを今さら悔やんで考えたって、仕方ありやせん。泣いても笑ってもこれっきり。もう、開戦の刻限は目と鼻の先なんですからねぇ」
「……そうね。あなたの言う通りだわ」
私はギエナに応じながら、ゆっくりと周囲の街並みへと視線を走らせた。
かつて"人魚姫"の加護を受け、世界で最も美しいと称えられた水の都フォーマルハウト。
その都市の象徴であった、網の目のように街全体を縦横無尽に巡る水路群――。
しかし、いま私の眼下に広がるその水路からは、水の一滴までもが完全に抜き去られていた。
干上がった水路の底には、泥とぬめりを帯びた石畳の網目が露出し、日光を浴びて灰色に白け飛んでいる。小舟が往来していた賑やかな水面はどこにも存在せず、まるで巨大な都市の干からびた血管の跡のように、冷たい溝となって伸びていた。
これには、明確な理由が存在している。
敵方の"姫"の一人――"雪の女王"アダーラ。
彼女は広域のあらゆる物質を瞬時に氷結させ、死の領域へと変貌させる絶対零度の使い手だ。
もしも都市の水路に大量の水が満ちたまま戦いに突入すれば、アダーラはその水路の水分を媒体にして、街全体を内側から一瞬で制圧することができてしまうだろう。
故に――アダーラに利する媒体を都市から完全に排除する、というギエナの戦術的判断により、昨日から今朝にかけて全ての水門が開放され、水路の水が綺麗に抜き去られたのだった。
空っぽになり、冷たい底が丸見えになった水路の残影。
その荒涼とした景色は、迫り来る決戦の瞬間がすぐそこまで迫っているという現実を、私に向かって冷酷に突きつけているようだった。
あの、極寒のガーランドで、一度は自らの無力さを突きつけられ、完全な敗北の苦汁を飲まされた、あの"雪の女王"との再戦の刻限。
――日が暮れる、間際の時間。私の魔法が使えるようになるのと、行軍が可能なギリギリのタイミング。
そこが、私たちの出陣の時だ。
(……もう、逃げる場所なんてどこにもないわね。ここまで来たら――)
私は静かに自らの胸の奥で呟いた。
否、口に出して確認するまでもなく、最初から分かっていたことだ。
この一戦には沈みゆく水都の運命だけではない――私という"姫"の誇りも賭けられている。
そんな、最後の戦いが始まろうとしていた。
「やあ、二人とも。……いよいよ本番、正念場の決戦だね」
そう考える私に、静かな足取りで、近づいてきた影があった。
普段通り、小綺麗なスーツに身を包み、黄金の髪をなびかせたザウルだ。彼はこんな絶望的な戦いを前にしても、いつも通りの気障で洒脱な態度を崩してはいなかった。手に一輪の薔薇こそなかったものの、その立ち姿は可憐な貴公子そのものだった。
――けれど。その整った顔立ちは、見落としようもないほどに硬く、蒼白く強張っていた。
「ええ、ごきげんよう、ザウル。……あなたも、たまには緊張することがあるのね」
私が意識して少し軽めのトーンで声をかけると。
ザウルは一瞬だけ、予想外の言葉をかけられたかのように驚いて目を見開いた。
けれど、数秒の後に、彼はすぐさまいつもの笑みを戻してみせたのだった。
「――まあね。これでも人並みに気を張っていてね、少しばかり肩に力が入ってしまうのさ。……でも、大丈夫だよ、ミズ・グラスベル。きっと全部、上手くいくさ」
爽やかに、そして優しく私に向かってそう口にする彼。
――けれど。
私は、彼が見せたその一瞬の微笑みの奥底に、どうしても拭い去ることのできない猛烈な違和感を抱いていた。
それは単なる開戦前の恐怖や緊張などではない。
まるで……自らが踏み出そうとしている未来の結末を最初からすべて悟りきっているかのような、いまにも指先で触れただけでパリンと砕け散ってしまいそうなほどに儚く、切ない、悲壮な諦観の表情。
あの日、夜の高台で、私に一輪の真っ赤な薔薇を見せてくれた時のあの表情と、どこか重なる壊れそうな儚さ。
(……ザウル? あなた、一体何を……)
胸の中に沸き起こったその違和感の正体を問い正そうと、私が口を開きかけた、まさにその時だった。
「それじゃあ、僕は中央へ向かうよ。君たちの勝利を、心から祈っているからね」
ザウルはそれ以上私に追及の隙を与えないように、優雅に一礼してみせると、疾風のように背を向けて去っていってしまったのだった。
遠ざかっていく彼の細い背中を、私はただ黙って見送ることしかできなかった。
けれど、もう、開戦の秒針を止めることは誰にもできない。
ザウルの演説が終わり、正門前に集結していた四千のフォーマルハウト防衛軍と、九百の聖教騎士部隊が、重々しい足音を響かせながら次々と移動を開始した。
彼らはギエナの指示に従い、街を包囲する巨大な防壁の裏側、そして要塞化された迎撃陣地へと、散らばるようにして配置についていく。
ギエナが提示した作戦――兵糧攻めによって狼狽し、補給を失って混乱した敵軍を、安全な防壁の内側から弓や砲による遠距離攻撃で一方的に擦り潰すという手筈だ。
兵士たちがそれぞれの持ち場へとついていき、時間は刻々と過ぎてゆく。
そして、いよいよその時を迎えようという時――ギエナが私に向かって静かに声をかけてきた。
「さ、お嬢様。そろそろ持ち場についてくだせぇ」
「ええ、分かったわ……でも、ちょっと待って」
「……ああ、そうでしたね。んじゃ、おじさんは一足先に行かせていただきやすぜ」
そう残して、彼は背を向けた。
ギエナとザウルは、作戦全体の指揮を執るため、"晶潮館"の大会議場――イザールが待つ中央指揮所へと控える手筈になっている。
そうして皆が去ってゆき――広大な広場の真ん中に、たった一人だけ残された人物。
セラエナ・レイク=オーディット。
彼女は広場の中央にそびえ立つ石造りの高い見張り台の上に、たった一人で背筋をピンと伸ばして立っていた。
海風に髪を激しくなびかせながら、彼女は彼方を――恐らくは、敵の待つ彼方を、一切の揺らぎもない真っ直ぐな瞳で見つめ続けていた。
そんな彼女に、私は近付いていく。




