334話「死にゆく街の夜半に」-前
――カツン、カツン、カツン……。
静まり返ったフォーマルハウトの夜。
湿り気を帯んだ夜風が古い水路の合間を吹き抜ける中、石畳を踏みしめる私たちの靴底の音だけが、不気味なほど鮮明に、かつどこまでも高く大気へと響き渡っていた。
"晶潮館"の医務室を出た私は、ザウルの手によって引かれながら、漆黒の暗闇に包まれた無人の街へと繰り出していた。
彼の差し出してきた右手。私を引っ張るその手の平の感触に触れた瞬間、私は胸の奥で思わず息をのまずにはいられなかった。
(……冷たい。まるで、氷みたいだわ……)
それは、真夏の夜気や生身の人間が持つ温かい体温とはほど遠い、芯まで凍てついた極寒の冷たさだった。
一国の命運をたった一人で背負い、決死の覚悟を秘めて水面下で大移転の指図を出し続ける男の、血の気が完全に引き切った細い指先。
けれど……その痛々しいほどの冷たさは、先ほどまでミラクとの激突で沸騰し、思考を白く吹き飛ばしていた私の胸の奥の不格好な熱を、不思議と穏やかに冷まし、静めていってくれたのだった。
「ほうら、見てごらんよ、ノクティア! このあたりがね、フォーマルハウトでも一番大きくて華やかな大通りなんだ! 平常時ならさ、ここには絶えず、道のあっちから向こうの端まで、色鮮やかな屋台や露店がびっしりと立ち並んでいたものさ!」
ザウルは楽しそうに、弾んだ声を夜空に張り上げながら、空っぽの通りを指差してみせた。
けれど――彼が示した広大な通りには、人っ子一人、人影の気配すら微塵も存在しなかった。
幾重にも組み上げられた美しい鉄骨と石造りの店舗は、すべて扉と窓を内側から厚い木の板で硬く閉ざし、生活の灯りひとつ灯っていない。
街を網の目のように巡るはずの運河の水面すら、小舟が一艘も通らないために油のように重く淀み、夜空の薄暗い星影を不気味に反射させているだけだ。
ただ静まり返った夜の沈黙と、海から吹きつける冷たい風だけが、私たちの間を通り抜けていく。
そういう意味において……このフォーマルハウトという都市は、すでに完璧に死んでいたのだった。
「……ええ。……知っているわ。前にここを訪れた時に、私も見たことがあるもの」
私はザウルの冷えた手に引かれながら、かつてヴァルゴ王国の特使として初めてこの街に足を踏み入れた時の記憶を、静かに手繰り寄せた。
あの日……"大星潮条約"の重圧によって国力を削られ、荒んでいたヴァルゴの王都とは対照的に、このフォーマルハウトの街並みからは、溢れんばかりの生命力と底知れない熱量が漂っていた。
水路を縦横無尽に行き交う彩り豊かなゴンドラ、威勢の良い商人たちの威勢のいい掛け声、焼き立ての魚介や香辛料の香ばしい匂い、そして人々の活気ある日常の営み。そのすべてが、他国からやってきた私にとって、圧倒的な眩しさと豊かな力強さを感じさせたのだ。
歩みを進めるにつれ、私の脳裏にはかつての光景が次々と鮮烈に蘇ってくる。
ミラクと初めて出会い、激しく言葉を交わした、あのレストラン。
案内役のシャウルに連れられて、見たこともない珍しい果物や揚げ菓子を買い食いしながら歩いた、賑やかな屋台の列。
そして――アケルナル率いる人魚兵たちの厳重で洗練された検閲を潜り抜け、初めてあの巨大な正門をくぐった時に胸を躍らせた、あの熱い感動と高揚感――。
かつての美しく煌びやかだった記憶の破片が脳裏に次々と浮かんでは、夜風の中に儚く弾けて消えていった。
「……あの賑やかだった通りが、まさかこんな風になってしまうなんてね。街というものは、人がいなくなると、こんなにもあっけなくただの冷たい石の塊に戻ってしまうものなんだなぁ」
ザウルはどこか自嘲めいた笑みを浮かべながら、私をさらに街の奥深く、緩やかな斜面へと引いていった。
「ほら、こっちにおいでよノクティア。あっちの高台から見るとね、フォーマルハウトの街並みがとっても綺麗に見えるんだよ」
ザウルは私の手を離さず、ゆっくりと傾斜の急な石造りの階段を上り始めた。
彼が私を案内したのは、街の中でもかなり標高の高い位置に建造された、石造りの見晴らし高台だった。
本来であればここからは、水の都フォーマルハウトの全貌が一望できるはずだった。あの巨大な晶潮館の美しいガラスの梁も、広大な港湾施設も、幾重に走る運河網も、すべてが眼下に収まる絶景のロケーション――。
――その、はずだった。
けれど、現在のフォーマルハウトは、敵の夜襲や偵察を警戒して、灯火管制が敷かれていた。
暗闇の中に佇む高台から見下ろす街並みは、完全なる漆黒の暗闇に呑み込まれており、建物や水路の輪郭すら満足に見通すことができない。
僅かに残留している警備兵や民たちも、敵の目を恐れて灯りを一切消しているため、街には人々の生活の光など、ただの一筋すら灯っていなかったのだ。
「……寂しいもんだね。……まるで、街全体が自分自身の弔いの準備をしているみたいじゃないか」
ザウルは、ぽつりと小さく呟いた。
いつものようにおどけた軽薄な口調を装ってはいたけれど、その声音の奥底には、隠しきれない途方もない寂しさと、胸を削り取るような悲哀が重く滲み出ていた。
暗闇の中に浮かび上がる、新議長の細い背中。
「……ねえ、ザウル」
私は思わず、彼の寂しげな横顔に向かって問いかけていた。
「やっぱり……フォーマルハウトの遷都計画は、もう一度考え直さないかしら? 今からでも、みんなで知恵を絞れば、この街を捨てずに済む別の案が浮かぶかもしれないわ」
彼は、フォーマルハウトを大切に思っているようだった。その気持ちは、私には分からないものだけれど、大切なものを手放したくない気持ちは理解できる。
例えばそれが国ではなく、仲間や家族であれば、一時であれど手放すなんて選択を、私は取りたくない。
けれど――私のその悲痛な提案に対し、ザウルはゆっくりと首を横に振った。
「……これでもね、僕はエリダヌス連邦の総議長なんだよ。悪いけれど……"かもしれない"なんて甘い言葉に、一国の運命を賭けるわけにはいかないかな」
「でも! それじゃあ……この美しい街並みは、永遠に失われてしまうのよ……? あなたが愛した故郷が、消えてなくなってしまうかもしれないのよ?」
私の必死の叫びに対し、ザウルは夜風に黄金の髪をなびかせながら、静かにこちらへと振り向いた。




