333話「花を携えた侵入者」
ギエナとセラエナが立ち去った後、私は一人ベッドの端に腰を下ろし、包帯を巻かれた自らの手を見つめながら、底のない思考の海へと沈み込んでいた。
――主人公。
――恵まれたあんた。
ミラクの放った悲痛な叫びの残響が、胸の奥で何度も冷たく反閃する。
自分がこれまで歩んできた不格好で惨めな軌跡。それが親友をどれほど深く傷つけ、絶望の淵へと追い詰めてしまっていたのか。どれだけ否定しようとも、自分が彼女に与えてしまった傷の深さは消えてはくれない。
(……私には、立ち止まっている時間なんてないのに)
焦りが、更に心を深く潜航させる。そうして、強く膝を抱いた――その時だった。
――ギギギ……。
静寂を破り、不意に医務室の重厚な木造扉がゆっくりと内側へ向かって開き始めた。
ノックひとつなく、まるで夜の闇に紛れるようにして、何者かが忍び足で室内へと侵入しようとしていた。
「――誰ッ!?」
私の全身の皮膚が瞬時に鋭く緊張した。
思考の海から意識を強引に引き戻すと、私は反射的に右手を前方へと突き出し、掌の先端から薄く研ぎ澄まされた硝子の細剣を瞬時に精錬した。
先端の刃が、ドアの隙間から滑り込んできた侵入者の喉元、わずか数ミリの至近距離へと突きつけられる。
しかし――そこに立っていた侵入者の正体を目にした瞬間、私は拍子抜けして眉をひそめることになった。
「――あはは! ごめんごめん、降参こうさーん! 命だけはお助けを……なんちゃって」
突きつけられた刃を前に、片手に一輪の花を掲げながら、おどけた動作で両手を上へと掲げてみせた男。
三つ揃えのモダンなスーツを着こなし、黄金の髪を撫でつけたその人物――ザウラシス・アカルその人であった。
「……ザウル? あなた、なんでノックもしないで人の部屋に入ってくるのよ」
「あはは! サプラーイズ……のつもりだったんだけどさ。思いのほか警戒心が強くて、本気で驚かせちゃったみたいだね」
「……ええ、本当にサプライズだわ」
(あと数ミリ踏み込んでいたら、危うくあなたの首と胴体が泣き別れになるところだったけれどね……)
喉元まで出かかった物酷い毒舌をどうにか喉の奥へと押し戻すと、私は溜息と共に生成した硝子の細剣を、虚空へと消し去った。
「……で、一体なんの用かしら? もし今後の作戦会議のことなら、ギエナがさっきセプテニア公のところへ向かったわよ」
私がベッドの上から呆れ顔で問いかけると、ザウルは気障な手つきで人差し指をチッチッと横に揺らしてみせた。
「ノンノン、ミズ・グラスベル。作戦会議ならまた今度、さ。オジサマ方はこれからの補給やら何やらで色々と密密にお話ししたいことがあるみたいだけど、僕的にはもう、今日のところは店じまいでもいいかなって感じなんだよね」
「店じまいって……一万の帝国軍に包囲されてる国の指導者が言うセリフかしら」
「ははは! 固いことを言わないでおくれよ。指導者だって、適度なブレイクタイムは必要なのさ」
相変わらずの調子の良さに、私は額に手を当てて深々と息を吐いた。
「じゃあ、何? さっき私がミラクと廊下で派手に大喧嘩したことでも、改めて咎めに来たのかしら?」
「そいつなら、もう"鬣"あたりから十分に冷や汗ものの説教を喰らったんじゃないかい? それにねぇ、僕には人様を上から目線で説教するなんて大役、およそ似合わないからね」
「……だったら、何なのよ。まさか、暇潰しに私とお喋りでもしに来たわけじゃないでしょうね?」
少しばかり苛立ちを込めて私が口にすると、ザウルは気障なウィンクと共に、手にしていた一輪の花をクルリと指先で回転させてみせた。
「大正解だよ、ミズ・グラスベル! 僕は君と、楽しくお喋りをしに来たのさ!」
「……はぁ?」
あまりにも突拍子もなく、そして能天気すぎる彼の返答に、私は開いた口が塞がらなくなり、思わず呆れ果てた声を漏らした。
「な、何を驚くことがあるんだい? 異国の麗しき令嬢……可憐なお嬢様が、わざわざ我が故郷の危機に駆けつけてくれたんだ! 一人の男として、仲良くお話ししたいと思うのはごくごく自然な当たり前の情熱だろう?」
「……そんなこと、今この状況でしてる場合かしら?」
「おっと! この絶体絶命の包囲下で、味方の姫様と拳で大喧嘩を繰り広げていた君にだけは、言われたくないセリフだねぇ」
「うっ……」
ザウルの痛烈なカウンター。
図星を突かれた私は反論の言葉を失い、苦々しい顔で言葉を詰まらせるしかなかった。
「それにさ……今の君には、頭を冷やして気分転換をする時間が必要なはずだからね」
ザウルは手にしていた一輪の花を、医務室の小さな花瓶へとそっと生けると、私の前まで静かな足取りで歩み寄ってきた。
そして、気障な仕草でスッと右手を私の方へと差し伸べてきたのだ。
「……まあ、決して後悔はさせないからさ。ちょっと僕についてきておくれよ」
「どこへ行くつもりなの?」
「君にも、今のうちに見ておいてもらいたいのさ」
ザウルは一瞬だけ言葉を区切ると、差し出した手の先で、私を真っ直ぐに見つめ返してきた。
「この……僕たちの美しき"水の都"をね」
「……ッ」
私に向かって微笑みかける彼の表情。
それは……先ほどまで私に見せていた、あの軽薄で気障でチャラチャラとしたいつもの表情ではなかった。
そこにあったのは――自らの愛する故郷の命運、そして間もなく訪れるであろう別れの刻限を誰よりも深く理解している者だけが浮かべる、いまにも砕け散ってしまいそうなほどに儚く、切ない、黄昏の微笑みだった。
新都への大遷都。フォーマルハウトの放棄。
どれほど完璧な智謀を巡らせようとも、彼にとってこの水上都市は、誇り高き先祖代々の血が脈々と受け継がれてきた、かけがえのない故郷なのだ。
それを自らの手で捨て去り、焦土へと引き渡さねばならない男の、胸の奥底に秘められた悲痛な覚悟。
私は彼の手を振り払うことができなかった。
「……分かったわ。少しだけ……付き合ってあげる」
私は差し出されたその手に応えるように、ゆっくりと立ち上がると、ザウルの案内を受けて、静まり返った夜の"晶潮館"へと足を踏み出すのだった。




