332話「離れた手綱」
「――ヒヤヒヤさせられやしたぜ、全く。勘弁してくだせえよ、お嬢様」
"晶潮館"、医務室。
ツンと鼻を刺す消毒液と応急薬の特有の匂いが漂う部屋で、擦り傷や打撲の痕に手際よく包帯を巻きながら、ギエナが心底から呆れたような溜息を吐き出した。
部屋の冷たい石壁沿いには、両腕を固く組み、胸を堂々と反らしたセラエナが仁王立ちしていた。
その引き締まった目元には「全く困ったお方です」と言いたげな、呆れ混じりの色合いが濃く残されている。
「ノクティア様が元々喧嘩っ早い気質をお持ちなのは重々承知しておりましたがねぇ……まさか、こんな危急の土壇場で、ミラク嬢と殺し合い一歩手前の大喧嘩を演じるとは思いませんでしたぜ」
「……ご、ごめんなさい。どうしても、我慢できなくて……」
私はギエナに包帯を巻かれている自らの腕を見つめながら、小さく肩をすくめて謝罪した。
先ほどまでの感情の暴走が嘘のように鎮まり、冷静さを取り戻した途端、全身にずっしりと重い疲労感と、親友と本気で殴り合ったという猛烈な気まずさが押し寄せてくる。
「まあ、感情が高ぶっちまったのは結構ですがね。いいですか? 今この局面で、お嬢様とミラク嬢の二大戦力が揃ってぶっ倒れでもしてみなせえ。俺たち残された者たちだけで、この包囲されたオンボロ街を支えることになるんですぜ? ……まあ、良く見積もっても、保って半日ってところでしょうね」
「……」
ギエナの説教を聞きながら、私は自分の胸の奥に手を当て、そっと自らの感情の残渣を探ってみた。
(……一体、私は何に対してあんなにも激昂したのかしら……)
ミラクの放った「恵まれている」「世界の主人公気取り」という言葉。それを真っ向から否定したかったのは確かだ。
けれど、なぜあの時、自分でもコントロールがつかないほどに感情の起伏が昂ぶり、思考が白く吹き飛んでしまったのだろう。
私が背負う『シンデレラ』という物語の触媒――それは元より、理不尽な世界や惨劇に対する"怒り"の感情と深く結びついているものではあった。
間に合わなかった自分に対する歯がゆさ、理不尽な現実に迫る脅威、あるいは――他者の平和を理不尽に踏みにじる敵の破壊と略奪に対して激憤することで、私は自らの物語の激情の熱を魔法として使いこなしてきた。
けれど……今回のミラクとの衝突は、それとはどこか根本的に違っていた。
激情の熱を使いこなしたのではなく、怒りの波そのものに自分が飲み込まれ、振り回されてしまったかのような、酷く不器用で後味の悪い感覚。
(……でも、なんか本当に久しぶりに……格好もつけずに、ちゃんと喧嘩をしたような気がするわ……)
あちらの世界にいた頃、妹のちはるとくだらない理由で怒鳴り合いをした時のこと。
互いに言葉をぶつけ合い、拳を握り締め、意地を張り合った末のあの独特の疲労感。ぼんやりとそんな昔の出来事に思いを馳せていると――。
「注意喚起。……ノクティア様、あなたはこれから、これまで以上に、力の使い方に細心の注意を払う必要があります」
壁際で腕を組んでいたセラエナが、硬質で真面目な声音で私に向かって言葉を投げかけてきた。
「……これまで以上に?」
「ええ。あなたは聖教国での修行を経て、自らの物語の"根源"へと至り、その圧倒的な力を手中に収められましたよね?」
私は自分の背中に、赤く煌めく"翼"の感触を思い浮かべた。
今回のミラクとの喧嘩においては、彼女の命を気遣って絶対に使うことはしなかったが、私の最大最強の手札として、今も確かに格納されている。
セラエナは静かに歩み寄ると、真剣な眼差しで私を覗き込んだ。
「"根源"を手にし、覚醒を果たした"姫"の底力は、それ以前とは比較にならないほど爆発的に上昇します。……けれどそれは同時に、魔法の出力の制御が途方もなく難しくなることも意味しているのです」
「……コントロールが……難しくなる?」
「はい。魔法の底力や出力の上限が引き上がるほど、それを抑え込むために必要な精神的・技術的負荷は、何倍にも増大しますから。……ノクティア様は次に、湧き上がる爆発的な不条理の力を、ただ解放するだけでなく、抑え込む術を身につける必要があるのです」
「……力を……抑え込む……」
「はい。これこそが、真の意味で強大な"姫"としてあり続けるための必須技能の一つですよ。……もっとも、自らの莫大な力を周囲に隠そうともせず、これみよがしに威圧として振りかざす、極めて悪趣味で不快な奴も一部存在しますが……」
セラエナが、苦々しげに吐き捨てた言葉。
その言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、かつて背中を預けた仲間の面影が鮮烈に浮かんできた。
(――カノン……)
あの日、私たちが初めて出会った時。彼女は凄まじい力を秘めた"姫"としてではなく、どこにでもいる、明るく磊落な女性として私の前に現れた。
彼女の全身からは、周囲を圧迫するような威圧感も、溢れ出る魔力の波形も、何一つつとして感じ取ることができなかった。
(魔力の完全な抑圧。……私たちが気付かないだけで、あの頃のカノンは既に、力を完璧に制御していたんだ……)
彼女の背中に思いを馳せる。しかし、不敵に笑い、いつでも頼れる彼女は今、ここにはいない。
私は私の方法で――力を飼い慣らす必要がある。
「ほいよ、一丁上がりでさぁ!」
パンッと手を打ち鳴らす音。
ギエナが私の腕と肩に巻き終えた包帯の結び目を、ポンと軽く叩いた。
「元がタフな"姫"様ですからね。まあ、丸二日も体を休めりゃあ、すっかり元通りに回復するでしょうよ」
「……ええ、ありがとうギエナ。助かったわ」
私は手首を軽く回し、処置の具合を確認してから二人を見上げた。
「二人は……これからどうするの?」
「そうでさぁねぇ。おじさんはいっぺん、セプテニア公のところへ顔を出してきますわ。さっきの作戦会議も、お二人さんの大喧嘩のせいで途中で宙ぶらりんになっちまいましたからね。今後の補給や配置のすり合わせをしておきますよ」
ギエナがそう笑うと、続いてセラエナも剣の柄に手を当てて言った。
「私は周囲の警戒に出ます。正門は固く閉じられているとはいえ、あの帝国の連中や"姫"が、今夜にでも夜襲を仕掛けてこないとも限りませんからね。念のための見張りです」
「……そう。二人とも、気をつけてね」
「へいへい。お嬢様こそ、今夜はおとなしくベッドで休んでおくことですね」
ギエナとセラエナはそう言い残すと、医務室の重厚な扉を開け、静かな足取りで廊下の奥へと去っていった。
カチャリ、と重々しい音を立てて扉が閉まり。
静まり返った医務室の中に、再び私一人だけが残された。
ツンと鼻を刺す消毒液の匂いと、天窓から差し込む静かな月光。
私は自らの膝を抱え込み、白い包帯の巻かれた手をじっと見つめながら、暗がりの中で一人思考の海へと沈んでいった。
(――主人公。……私が?)
ミラクが激昂と共に私へ叩きつけてきた、あの言葉の残響。
(……そんなわけ……ないじゃない……)
苦笑混じりの呟きが、静かな部屋の中にぽつりと溶けて消える。
これまでの自分の歩んできた道のりを振り返ってみても。
いつだって土壇場で"間に合わず"、大切なものを守り切れず、敵の暴力の前に無惨に叩きのめされ、誰かの流した血と犠牲の上に立ちながら、泥を舐めるようにしてここまで生き延びてきただけに過ぎない。
そんな惨めで不格好な私の生き様が。
同じ世界から落ちてきて、苦しんでいたミラクの瞳には、どれほど眩しく、どれほど羨ましい、恵まれた主人公の軌跡として映ってしまっていたのだろうか。
自分の無力さが、巡り巡って大切な親友をここまで深く追い詰め、屈辱の絶望へと叩き落としてしまっていたという残酷な事実。
それを頭では理解し、胸を痛めながらも――私自身はどうしても、自分が"主人公"であるという彼女の言葉を、素直に受け入れることなどできずにいたのだった。
月光の静けさの中、私はただ膝を強く抱き締め、沈みゆくフォーマルハウトの夜の深淵へと、じっと目を凝らし続ける――。




