331話「狙撃手は憂う」
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フォーマルハウトの城壁から直線距離にして数十キロメートル以上離れた、帝国との国境沿いに位置する古い石造りの砦。
先の大戦期には要塞として機能しており、今は打ち捨てられた石垣の上に、凄まじい体幹と柔軟性を窺わせる姿勢で、片足を高々と乗せている一人の女の影があった。
ハイキックの頂点そのままに静止したかのような、常人であれば数秒と保持できない奇怪なポーズ。
しかし、彼女の身体はまるで石造りの建築物の一部へと化したかのように、指先ひとつ微動だにすることなく、完全に静止していた。
奇妙なことと言えば――彼女のその上げられた右足が、太ももから下に向かって生々しい肉体を消失させ、無骨で重厚な大口径の軍用ライフルの如き鋼鉄の砲身へと完璧に変形していることだろうか。
右目に取り付けた精緻な片目鏡と、右膝の上に突起としてせり上がった照準器。
それらのレンズ越しに、彼女は数十キロの地平線の彼方に蠢くフォーマルハウトの巨大な正門前――その大理石の広場の石畳の一粒、一粒に至るまでを、超高精度の魔力照準によって完璧に補足していた。
アディラ・スタンニカ。
フォルナクス帝国が抱える最悪の"姫"の一人――"スズの兵隊"。
彼女は、あちらの元の世界にいた時から、日常的に硝煙と血風が吹き荒れる殺戮の砲火の中に身を置いていた人間だった。
某国の非合法特殊部隊において、狙撃手として数々の暗殺や工作活動に従事していた彼女は、獲物が狙撃点へと現れるのを、何時間でも、あるいは何十時間でも微動だにせず待ち続けることができた。
呼吸の周期を極限まで落とし、心拍数を操作し、自らを一本の無機質な銃器へと変貌させるプロフェッショナリズム。
(――まったく、因果なもんだねぇ。生まれ変わって異世界に落ちてまで、またこんな泥臭い仕事をさせられてやがる)
アディラは火のついていない煙管を口の端で咥え直すと、自嘲の混じった冷たい息をふっと吐き出した。
いま、彼女に与えられている作戦指示は、大きく分けて二つ存在する。
一つは、フォーマルハウトへ向かって外からやってくる救援部隊――他国の援軍に対し、遠方からの砲撃で可能な限りその戦力と体力を削り取った上で、最終的には"わざと街の中へと見逃す"こと。
そしてもう一つは――フォーマルハウトの内部から外へ向かって脱出しようとする者を、兵士であろうと民衆であろうと、誰一人として絶対に生きて外へ逃がさないことだ。
あの水の都フォーマルハウトは、いまやアディラのこの超長距離狙撃と、包囲する一万の帝国軍によって、巨大な逃げ場のない檻へと変えられていた。
他国からの救援を集めるだけ集め、罠の内部へと誘導し――集まり切ったところで、最後は街ごと残らず火の海へ叩き落として燃やし尽くす。
("マッチ売りの少女"の奴も、つくづくえげつねえ作戦を思いつきやがる。……まあ、世界そのものを灰の底に沈めようって叫んでる狂人だ。むしろこれでも甘いくらいの考えなのかねぇ)
煙管の味気ない感触を噛み締めながら、門の監視を継続していたアディラは、そこで、背後の古びた石段を昇ってくる、軽やかで無神経な足音を耳の奥で察知した。
「……おい。黙ってウチの背後に立つんじゃねえよ、イカれ女」
アディラは頭すら動かさず、照準を広場に合わせたまま、低くドスの効いた声音で背後へ向けて言い放った。
その警戒の言葉に応えるように、背後からコロコロと粘つきのある、まるで鈴を転がしたかのような甲高くて不気味な笑い声が響いた。
「え〜? そんなに邪険にしないでよぉ、ボクら同じ帝国の仲間じゃん! イェイ!」
"月夜に狂ったかぐや姫"――ルーナ・ホップ・アクティアス。
網タイツに包まれた長い足としなやかな身体を跳ねさせ、彼女は愉快そうにケタケタと狂った笑い声を上げながら、アディラのすぐ真横の石段へと無造作に腰を下ろした。
「仲間じゃねえよ。あくまでも所属している組織が同じってだけでさ。ウチとお前を一緒にするんじゃねえよ」
アディラは素っ気なく突っぱねるような口調でそう言いながらも、正門前へ向けていた全集中の意識のうち、およそ半分ほどを隣のルーナへと割り割いた。
あちらの元の世界にいた時から、アディラはこのルーナと同種の人間を一定数目撃してきた。
戦争という名の、正当化された狂気の舞台を利用して、ただ自身の快楽のためだけに無軌道な虐殺と略奪、暴力を楽しむ、タガの外れた純粋な怪物。
このルーナという少女には、間違いなくそのきらいがあると、長年の直感が強く警告していたのだ。
「……で、何しに来たんだ? ウチにわざわざ下らないお喋りをしに来たわけじゃねえんだろ?」
アディラの冷ややかな問いかけに対し、ルーナは両手を後頭部で組み、無邪気な子供のような可憐な微笑みを浮かべてみせた。
「え? ホントにお喋りに来たんだよぉ? だってさぁ、アダーラちゃんは話すの苦手だし。ボク、話し相手がいなくて暇なんだもん!」
「……ウチは今、仕事中だ。さっさとどっか行け、勘弁しろよ」
鬱陶しそうにルーナを突き放しながら、アディラは自身の冷めた思考の裏側で、静かに算盤を弾いていた。
(……きっと、こんなタガの外れたイカれ女は、ろくな死に方をしねえだろうな。……まあ、そんな化け物と手を組んで同じ戦争に加担してるウチ自身もそうだが)
元の世界で手を血で汚し、命を落とし、二度目の生としてこの異世界へ叩き落とされた自分。
(――やれやれ。折角二度目の生を貰えたんなら、最後くらいはもう少し安らかな場所で死にたいもんだがねぇ)
アディラは咥えた煙管から、深く寂しげな溜息をひとつ漏らした。
「う〜そ! 冗談だよぉ、冗談! お話はあるけどさ、それはまた後でにしてあげる!」
ルーナは枝の上で身を翻す小動物のようにくるりと動き、無邪気な笑みを浮かべた。
「……じゃあ、本当の用件は何なんだよ?」
アディラが片目鏡の奥の瞳をわずかに細めて尋ねると。
ルーナはそれまでの子供めいた態度をフッと消失させ、その可憐な口元を、心底不気味で残忍な形へとグニャリと歪めてみせた。
心底楽しくて、嬉しくてたまらないとでも言うかのように――。
「――"最終兵器"、そろそろこっちへ着くってさ。あと、三日くらいかなぁ?」
「……そうかい」
アディラの低く冷めた返答に対し、ルーナは膝を抱え込み、目を爛々と輝かせながら言葉を続けた。
「ねぇ、ワクワクするよね! たぶん、ボクたちも今まで見たことがないくらいの凄まじい規模の破壊だよ!? フォーマルハウト全体が焦土かなぁ、それとも海ごと蒸発しちゃうのかなぁ!」
狂ったように身をよじらせ、破滅の光景を想像して歓喜に震える"かぐや姫"。
アディラはその不気味な歓声を聞きながら、右足の鋼鉄の砲身の感触を石垣に強く踏み締め直した。
「……それ聞いて、ウチに一体どういうリアクションをしろって言うんだよ」
口の端を力なく噛み締めながら、アディラは胸の最深部で、心底から強く祈るのだった。
どうか、この二度目の惨めな生の終わりに。
この目の前にいる最悪の外道と同じ所へと行き着くことだけは、絶対にありませんようにと――。
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