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330話「拳に込めた意地」



 ――まだ、二人は倒れていなかった。



 晶潮館の広大な回廊を激しく揺るがしていた不条理な魔力の咆哮は、既に潮が引くようにして止んでいる。


 直前まで周囲の空間を埋め尽くしていた、仲間の姿を模した高密度の特異硝子兵たち。彼らはミラクの放った極大の八倍の膂力による一閃を受け、その形状を維持しきれずに残らず細かく砕け散っていた。


 無数の透明な砕片は、天窓から差し込む夕闇の斑光を滑らかに反射させながら、いまや床の大理石の上を美しく、けれどどこか儚げに彩る光の粒となって転がっていた。



 その光の散波の中心で――二人の"姫"は未だ倒れることなく、静かに立ち尽くしていた。



 ノクティアのドレスは乱れ、その肩は力なく上下している。足元を支える魔力すら完全に底を突いてしまったのか、自らの肉体を支えることすら危うい様子だ。その瞳からはいつもの凛とした光が失われ、ただ虚ろに前方の石畳を見つめている。


 対するミラクの肉体もまた、凄惨を極めていた。


 魔法によって全身に強制的に宿らせた八倍の膂力。それに肉体が耐えきれず、彼女の白く透き通るような肌のあちこちには、ドス黒い内出血の斑点と生々しい筋肉の断裂痕が痛々しく浮き上がっていた。


 限界を遥かに超えたため、魔法はすでに強制解除されており、彼女の華奢な体躯は風前の灯火のようにふらりと、頼りなく揺れていた。


 けれど――お互いに全力を削り尽くしながらも、二人ともまだ確かに、その場に踏み止まっていた。



「……う、うああああああああッッ!!!!」



 沈黙を破り、最初に声を上げたのはミラクだった。


 彼女は手にしていた純白の聖剣を、棒のように地面へと突き刺して杖代わりにし、強引に体勢を立て直した。そして、引き千切れるような叫び声を上げながら、その剣を力任せに振り上げ、ノクティアへ向かって泥臭く踏み込んでいった。


「……っ!」


 ノクティアは虚ろな視線を鋭く持ち上げると、掌の先端に絞り出した僅かな魔力で、硝子の細剣を生み出した。


 重厚な聖剣の軌道に対し、ノクティアはその頼りない硝子の剣を滑り込ませる。


 ともすれば自分たちの重みでそのまま崩れ落ちてしまいそうなほどに頼りなく、か弱く、泥臭い刃の交差。


 かつてあんなにも鮮やかに奇跡をぶつけ合っていた二人とは思えない、ただの傷ついた少女たちの惨めな剣戟。


 しかし、その不器用な打ち合いも、長くは続かなかった。


 ノクティアが渾身の力を込めて繰り出した下方斜めの一太刀が、ミラクの指先から感覚を奪い、その聖剣を斜め上方へと力任せに払い飛ばした。


 カラランッ……、と虚しい音を立てて、聖剣が遠くの石畳へと転がっていく。


 だが、それと同時に――衝撃に耐えきれず、ノクティアの手にする硝子の細剣もまた、限界を迎えて儚く粉々に砕け散ったのだった。


 互いに命の獲物を失い、勢いを削がれた二人は、まるで示し合わせたかのように、同時にドサリと膝を折って床へと倒れ込んだ。


 破砕された石粉と硝子の結晶が散らばる床の上。


 膝をつき、肩で荒い息を吐きながら、ミラクがぽつりと小さく口を開いた。



「――ねえ、私、どこで間違えたの……?」



 掠れた、少女の泣き声。


 ミラクの白い肌を、大粒の透明な涙がいくつもつたい落ち、冷たい大理石の上へと染みを作っていく。


「私はどこでどうしていれば、あんたになれてたの……っ? 苦悩して、葛藤しながらも……、最後にはたくさんの人を救える、本物の"主人公"にさ……!」


「……ミラク」


 ノクティアはかける言葉も見つけられず、静かに目を伏せることしかできなかった。


 ノクティア自身、自分のことを悲劇を背負った特別な主人公などと思ったことは一度としてない。いつだって泥を舐め、間に合わず、誰かに助けられてここまで這い上がってきただけに過ぎないのだ。


 だが――いまここで否定してみせたところで、それがミラクの自尊心をさらに深く傷つけ、追い詰めてしまうということを、今のノクティアは痛烈に理解していたのだった。


 二人の間に流れる、重く切ない静寂。


 すると――ミラクが、膝に力を込め、フラフラとした足取りで再びゆっくりと立ち上がった。


 すでにその手に武器はない。


 けれど彼女は、血と涙で汚れた両拳を固く握り締め、胸の前に構え直すと、虚ろなノクティアの顔を真っ直ぐに睨みつけたのだった。


「……負けられないのよ、私は……ッ! たった一つでもいい、……せめてたった一つだけでも……、あんたに勝ちたいじゃない……っ!」


 弱さを振り払い、傷ついた誇りのすべてをその拳に込めるミラクの姿。


 それに応じるように――ノクティアもまた、激痛を訴える両足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。


 ノクティアに、素手での武道の心得などあるはずもない。


 あちらの世界の体育の授業や、テレビで見た格闘技の記憶を手手探りで再現しただけの、あどけなく不器用な、見様見真似のファイティングポーズ。


「……いいわ、かかってきなさい。……泣き虫で聞き分けの悪い子には、拳骨でお説教って相場が決まってるものね!」


 二人は同時に地面を蹴り、残された最後の体力を振り絞って走り出した。


 互いに、もうこれが正真正銘の限界であることは分かっていた。


 次に交錯するこの一撃で、どちらかが完全に沈み、意識を失うことになる。


 二人の拳が空を裂き、互いの頬へと向かって交差しようとした、まさにそのコンマ一秒の刹那だった。




「――いい加減に、しなさあああああいッッ!!!!」




 激突の瞬間に突如割り込んできた、凛としつつも猛烈な金切り声。


 ドガァァァァンッ!!


 二人の拳の交差の真ん中に、一筋の純白の影が強引に割り込み、その両腕を横に一閃させた。


 ノクティアの右拳と、ミラクの左拳が、その割って入った人物の両腕へと真っ直ぐに激突する。


 衝撃波が足元へと逃がされ、大理石の床にメキメキと蜘蛛の巣状の罅が駆け抜けた。


 しかし、魔力を自らの全身に纏わせたその人物は、二人の限界の拳を受け止めてなお、一歩として後ろへ吹っ飛ばされることはなかった。



「言・語・道・断ッッ!!!!」



 ひっつめた黒髪を激しく揺らし、眉根をこれでもかと吊り上げて二人を喝破したのは――お供の聖教騎士、セラエナ・レイク=オーディットであった。


「今が……今がこのような味方同士で喧嘩をしているような状況ですか!? ただでさえ一万の帝国軍と最悪の"姫"たちに包囲されているというのに、ここでお二人まで脱落したら、いよいよこのエリダヌス連邦は完全に終わってしまいますよっ!」


「……っ、あんた……! そこを、どいて……っ!」


 息を荒げ、セラエナの肩越しにノクティアを睨みつけようとするミラク。


「どきません! ノクティア様も、ミラク様も、少しは頭を冷やしてください! ……どうしても頭が冷えないというのであれば、白鳥の湖の泥水でよろしければ、私が今すぐお頭からたっぷりとお掛けして差し上げますよ!」


 真剣そのものの強烈な表情で、四字熟語と共に凄まじい言葉を言い放つセラエナ。


 そのどこかズレた生真面目さに、ノクティアもミラクも思わず毒気を抜かれ、言葉を失って金縛りに遭ったかのように硬直するしかなかった。


 そんなセラエナの背後から、静かに重なる複数の足音が近付いてきた。


「――まったく、そこのレオタードの"姫"様の言う通りさ。……ひとまずその拳を収めておくれよ、ミラク嬢」


 晶潮館の回廊の暗がりからゆっくりと姿を現したのは、肩にジャケットを引っ掛けたザウルだった。


 そのすぐ後ろには、ギエナが、干し肉を噛みながら苦笑いを浮かべてついてきているのも見える。


「邪魔しないでよ、ザウル……! 私は……私はこいつと最後まで決着を……っ!」


 未だ未練を残し、拳を握り締め直そうとするミラク。


 そんな彼女に対し、ザウルは気障な動作で人差し指をチッチッと横に揺らしてみせた。


「それは聞けないお願いだねぇ。不毛な喧嘩ってやつは、全ての戦いが終わった後に心ゆくまでやろうじゃないか。君たちのその燃え盛る情熱は、僕がひとまず大事に預からせてもらうからさ」


「……っ、そういう問題じゃ――」


「ふむ……じゃあ、君は僕の言うことを聞かない、って言うんだね?」


 ザウルはそこで、先ほどまでのチャラチャラとした態度をフッと消し去り、意地悪げに細めた二つの瞳でミラクをじっと見据えた。


 そして――周囲の空気全体を緊張させるような、不敵で、決定的な言葉をその口から滑り込ませたのだ。



「――せっかくこの僕が……あの凶悪な"かぐや姫"を打ち倒すための、とっておきの"作戦(アイデア)"を思いついたっていうのにさ」


「――っ!?」


 その言葉が放たれた瞬間、ミラクの全神経が弾かれたように跳ね上がった。


 ザウルの不敵な笑み。


 フォーマルハウトの運命、そして不条理な"姫"たちとの決戦に向けたカウントダウンの秒針が、いま静かに、そして確実に動き始めようとしていた。



◆◇◆


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