328話「発露と衝突」-後
かつてどんな苛烈な攻撃をもその鏡の大盾で跳ね返してきたあの"鉄壁"、いまや自ら酸素を吸うことすら苦しそうな様子で、か弱く、今にも消え入りそうに胸を上下させているだけだった。
そこに、かつての力強い面影はない。彼の意識は……深遠な昏睡の中に完全に落ち込んでいた。
「……見なさいよ。彼が……私の家族同然だったバナビーがこんな惨めな姿になったのも、全部私が弱いからよ! 私がもっと強くて、私がもっと、もっともっと遠くまで手を伸ばせれば……こんなことにはならなかったのよ……っ!」
溢れ出す自責の念と、己の無力さに対する凄惨な呪詛。
彼女の瞳からポロポロとこぼれ落ちる透明な雫が、石畳の上へと小さな点を作っていく。
「……ミラク、あなた――」
自分をどこまでも痛めつけ、苦しむ彼女の悲しみを少しでも分かち合おうと、私は居ても立ってもいられなくなり、彼女の肩へとそっと手を伸ばした。
――しかし。
パシン、と。
硬質で、乾いた打撃音が廊下に高く響き渡った。
「っ……!」
私の伸ばした手は、ミラクの手によって、叩き落とすように払いのけられたのだ。
手の甲に残る、じんとした熱い痺れ。
けれど――それ以上に、心から信じ合い、共に修羅場をくぐり抜けてきたはずの友によって、拒絶されたという事実が、私の胸を激しい衝撃となって叩きのめした。
ミラクは前髪の影から、血走り、暗い情念を宿した二つの瞳で、私を激しい憎悪と怨嗟の色を込めて強く睨みつけていた。
「……何よ……? その哀れむような目……! 安い同情なんてやめてよっ! あんたにはわからない……っ! 世界の主役みたいに気取って振る舞う、恵まれたあんたには……私の苦しみなんて絶対にわかりっこないのよっ!」
――世界の主役。
――恵まれたあんた。
ミラクの唇から吐き出されたその二つの単語が、私の耳の奥、脳の深脈へと届いた、まさにその瞬間だった。
プツン……。
私の中で、この異世界へ落ちてきて以来、ずっと必死に張り詰めさせていた一番大切な何かが、冷たく、不気味な音を立てて断絶した。
視界が、一瞬にして真っ白に染まる。
胸の奥底で、ドロドロとした暗く熱い感情が、堰を切って溢れ出していく。
これまで、どんなに理不尽な世界の手前で打ちのめされても。どれほど惨めな敗北の屈辱を味わっても。必死に胸の奥へと押し込め、鍵をかけて覆い隠してきた怒りと悲痛の感情。
――間に合わなかった。
――誰一人として、完璧には救えなかった。
――負けて、泥を舐めて、大切な仲間たちの血で濡れた地獄のような道を、必死に這い回ってここまで辿り着いた。
そんな私の血吐くような苦闘の軌跡を、『主役』だの『恵まれている』だのという、甘えきった一言で片付けられたことに対する、許しがたい激憤の火炎。
「――わからない、わからないって……黙って聞いていれば……っ!」
私の口から飛び出したのは、自分自身でも驚くほどの、低く、地底から響くような冷酷な声だった。
「っ……!?」
ミラクが一瞬、私の佇まいの劇的な変化に気圧され、息を呑んで目を見開く。
けれど、私はもう、自らの内側で暴走を始めた激情の渦を止めるつもりなど、毛頭なかった。私は重々しい一歩を踏み出し、彼女の間合いへと容赦なく踏み込みながら、刃のような怒声を突きつけた。
「あんた……! そうやって自分を可哀想な悲劇のヒロインに仕立て上げて、ゴネることしかできないの……っ!?」
「な……ッ!?」
「僻むだけなら、近所の小学生でもできるって言ってるのよっ! あんた……、うちの妹よりも聞き分けの悪い大バカねっ!!」
「し、小学生……っ!? あんた……私を馬鹿にしてんの!? あんたに私の、何がわかるっていうのよっ!!」
ミラクの全身から、暴風のごとき密度の魔力が爆発的に解き放たれた。
廊下の石畳が激しく砕け散り、大気全体が不気味に屈折し、世界がグニャリと歪み始める。それは言葉による対話を完全に拒破し、力によって相手を叩き潰そうとする、戦闘意思の発露だった。
「……ずっと、ずっとムカついてたのよ! それだけ周りに恵まれておきながら、『間に合わなかった』とか『私は無力だ』とか何とか抜かすあんたのその面の皮にね!」
ミラクの咆哮に呼応するように、彼女の背後に幾重もの巨大な光の鏡が立ち現れる。
それと時を同じくして、私たちの衝突から目を背けるように、太陽が水平の先に消えていく。
――日が、沈む。
彼女の不条理な威圧を正面から真っ向から受け止めながら、私もまた、ドレスの裾を激しく翻し、力を取り戻した物語の核を限界まで過熱させた。
「……奇遇ね。私も今、心の底からムカついてるわ」
全身から、燃え上がるような魔力が渦を巻いて噴出し、周囲の空間を赤く染め上げていく。
「自分自身の弱さから目を背けて、言い訳ばっかり並べてウジウジウジウジ湿気てる、お姫様ぶったただの甘ったれなガキにね……!」
一心拍の間。
静まり返った"晶潮館"の回廊で、お互いの理性を灼き尽くすのにかかった時間は、ほんのコンマ数秒の刹那であった。
二人の"姫"の瞳が、空中において鋭く、熱く交差する。
次の瞬間、引き絞った魔力の矢が、大気を引き裂く轟音と共に、同時に解き放たれた。
「――"七人の虚人"!」
「――"シンデレラ城の舞踏会"!」
ミラクの術式によって生み出された、彼女自身の姿を模した七体の分身たちが、黒塗りの剣を構えて一斉に前方へと突撃を開始する。
それに対し、私の足元から噴き出した硝子の粒子が、何十体もの硝子の兵士へと瞬時に実体化し、絢爛豪華な舞踏会のステップを踏むような軽やかな速度で、正面から死地へと突撃した。
――激突。
パリィィィィンッ! ギガガガガガガッ!
鏡の分身と、硝子の兵士たちが廊下の中央で真っ正面から噛み合い、激しい刃の砕け散る音と散波が周囲の壁や天井を削り取っていく。
だが――魔法同士の衝突など、ほんの前座に過ぎなかった。
剣閃と硝子の破片が狂乱のように飛び散る直中を切り裂いて。
私とミラクは、それぞれの獲物を手に、至近距離へと飛び込んでいった。
ガギィィィィィィィンッッッッ!!!!!
私の生成した硝子の細身の剣と、ミラクの構える鏡面の剣が、火花を散らして真正面から激しく噛み合った。
至近距離で対峙する、二つの貌。
お互いの吐息がかかるほどの超至近距離で、私たちは、激しい火花を散らして睨み合う。
「……ここで白黒つけてやるわ、ノクティアッ! 自分だけが悲劇を背負ったような、主人公気取りの、あんたと!」
「……受けて立とうじゃない! たった二、三回負けた程度で折れて、ウジウジ愚痴ってる、臆病者のあんたと!」
剣と剣が擦れ合い、互いの身体が強烈な反動で弾け飛ぶ。
廊下の壁を蹴り、天井を跳ね、二人の“姫”は一切の加減も手減りもなく、自らの感情と誇りのすべてを叩きつけ合うようにして、再び激しく激突した。
敵でもなく、奪いに来る怪物でもない。
同じあちらの世界から落ちてきて、同じ痛みを抱えながらも、すれ違い破裂してしまいそうな、たった一人の大切な友。
譲れない己の意志と、互いの絆を繋ぎ止めるための、哀しい激突の火蓋が――いま、切って落とされたのだった。




