328話「発露と衝突」-前
――タッ、タッ、タッ、タッ……!
静まり返った"晶潮館"の回廊に、靴底が打つ切迫した足音が虚しく反響していた。
天窓と外壁を絶え間なく滑り落ちる不滅の水流。夕闇の斜光がそれを透かし、冷たい床の石畳の上に波紋のような、蒼く暗い光と影の班点を描いている。
先ほどまで私たちがいた大会議場の重々しい熱気とは打って変わり、館の深奥へと続く長い廊下には、まるで世界の底に沈み込んだかのような静寂が横たわっていた。
大会議場を飛び出していった親友の背中。
幾重にも白い包帯を巻きつけ、血と屈辱の交ざり合った情念を、その身に宿して走り去ったミラクの残影を、私は一心不乱に追いかけていた。
(待って……待ちなさいよ、ミラク……!)
息が上がり、胸の奥が焼き切れるように熱い。
まだ、日が沈みきっていない。今の私には不条理な物語の力も、焼け焦がすような魔法の翼もない。ただの血の通ったこの足で、泥臭く石畳を蹴り続けるしかないのだ。
回廊の角をひとつ、またひとつと曲がる。
どこまでも続く静寂の通路。その一番奥、夕日の光すら届かない薄暗い影の吹き溜まりのような場所で、彼女の影は立ち止まっていた。
あちこちに痛々しい怪我の痕を覗かせた、浅い肩の揺れ。
ミラクは一つの重厚な木造の扉の前に立ち、その真鍮のドアノブへ小さな手を掛けた姿勢のまま、ピクリとも動かずに固まっていた。
「――ミラク!」
私が肩で息を荒げながら声を張り上げると、彼女はすぐには振り返らなかった。
ドアノブへ掛けた手からゆっくりと力を抜くと、前髪の隙間から刺すような冷たい視線を、じっと私の方へと滑らせてきた。
「……ノクティア。あんた、何しに来たの」
氷のように硬く、乾いた声音。
私という存在そのものを遠ざけ、立ち入らせまいとする圧倒的な拒絶の壁が、その短く問いかける言葉の端々に横たわっていた。
その場に思わず足を止め、喉の奥に固い塊が詰まったような感覚に襲われた。
「何しに来たって……それは……」
上手い言葉が見つからない。
傷ついた彼女を慰めに来たのか。それとも、共に戦おうと励ましに来たのか。自分の訪問の動機をうまく言語化できずに躊躇する私を見て、ミラクの唇の端が、酷く歪で自嘲めいた形へと釣り上げられた。
「……ふん、いいわよ。言わなくたって分かってる。あんたも私にそう言うんでしょ? ……『お前じゃ、あの"かぐや姫"には勝てない』ってさ」
「――っ、そんなこと、一言も言ってないじゃないっ!」
「じゃあ、勝てるの!? あんたは、私があの化け物みたいに強いあいつに勝てるって、胸を張って言えるっていうのっ!?」
激昂したミラクの叫びが、薄暗い廊下の壁に激しくぶつかり、鼓膜を痛いほどに揺らした。
私は彼女の問いに対し、何と答えるべきか、脳内で必死に思考の糸を手繰り寄せた。
勝てると、根拠のない気休めを口にするのは容易い。けれど、そんな底の浅い言葉など、今この瞬間に自尊心を粉々に砕かれている彼女の胸には、最も醜い侮蔑としてしか届かないだろう。
私は胸の奥を強く締め付けられながら、自分の声が震えないよう、絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「……それは、私にとってもまだ見てもいない、戦ったこともない相手だから……軽々しく勝てるなんて、言えないわ」
私のその誤魔化しのない、どこまでも現実的な返答を聞くと、ミラクはフッと可哀想なほど力なく自嘲の笑みを深め、ふいと視線を天井の不気味な水流の影へと逸らした。
「……そうよね。あんたは、そう言うわよね。……無責任に『できる』とか『大丈夫』なんて甘い言葉で私を甘やかさない。あんたはいつだって冷酷なまでに冷静で、目の前の惨めな現実を真っ直ぐに見定められるんだもの」
ミラクはそのまま、糸が切れた人形のように後ろの冷たい壁へとその細い身体を預けた。
痛々しい包帯を巻いた首を力なく傾げ、虚ろな目で天井を見上げる。
「……私には、そんな真似できないわ。……どれだけ言葉で取り繕ったって、どれだけ気位の高い気丈な姫様を演じてみせたって……。私の中身なんて、ただのどこにでもいる一般人なんだもの。この世界へ来る前まで、戦争なんて、テレビの向こう側の遠い国の出来事だと思って生きてきたのよ」
「……それは、私も同じよ。あちらの世界にいた頃の私は、ただのしがない女子高生で――」
私もまた、この世界に召喚されるまでは特別な力など何一つ持たない、普通の日常を生きていたのだと。だから、あなたの抱くその恐怖や戸惑いは痛いほど分かるのだと、そう言葉を重ねようとしたまさにその瞬間だった。
「――あんたは違うじゃない、ノクティアっ!!」
私の言葉を真っ向から粉砕するようにして、ミラクの口から激痛を孕んだ叫びが放たれた。
「え……?」
「あんたは私とは違うじゃないのよ! あんたは……沢山の人の力を借りて、沢山の国の王や騎士たちを繋ぎ止めて、今まで沢山の素晴らしいことを成し遂げてきたじゃないのっ!」
「そんな……っ! 私は、何も……!」
胸の奥が、氷水を流し込まれたかのように激しく冷え冷えとした。
(何も……。何も成し遂げてなんていない……っ!)
このエリダヌスでも、あのガーランドでも、プレアデス聖教国でも。
私はいつだって"間に合わなかった"のだ。大切な人を誰一人として自分の力で救い出せず、敵の圧倒的な暴力の前に打ちのめされ、負けて、泥を舐めて、周りの人々が流した血の上に縋りついて命からがらここまで這い上がってきただけに過ぎないというのに。
「何もやってないなんて、よくそんな白々しい嘘が吐けるわねっ! じゃあ、どうしてエリダヌスやガーランドは今も帝国の手に落ちずに持ち堪えているの!? どうして、あんたはプレアデスから千人もの軍勢を引き連れて、私たちの救援に駆けつけることができたのよっ!?」
「……それは、本当に運が良かったというか……私が何か特別なことをしたわけじゃなくて……」
「私には……その運も、その絆も……羨ましくて羨ましくて、仕方が無いのよっ!!!」
ドォォォォンッッッッ!!!!!
ミラクの激情の絶叫と共に、彼女の固く握り締められた右拳が、横の石壁へと力任せに叩きつけられた。
凄まじい衝撃。
彼女の拳が触れた壁の表面に、蜘蛛の巣のような不吉な亀裂がメキメキと音を立てて広がり、細かい石粉が宙空へと舞い上がる。
「――同じ"姫"としてこの世界に落とされたのに、私は何なのよ……っ!? 同じ相手に二度も惨めな敗北を喫して……大切な仲間たちも傷ついて……私の手から零れ落ちて失われていったわ……っ!」
ミラクは肩を激しく上下させ、浅い呼吸を繰り返しながら、自分が手をかけていた木造のドアを、隙間からわずかに押し開けてみせた。
薄暗いドアの隙間から覗く室内。
そこは、薬の匂いと消毒液のツンとした匂いが立ち込める、簡素な病室であった。
部屋の中央に置かれた使い古されたベッドの上。
そこに横たわっていたのは――老境に差し掛かりながらも逞しく鍛え上げられた巨躯の節々に、痛々しいほどの包帯と重度の熱傷痕を刻まれた、一人の男。
傷ついた老執事――バナビーの姿だった。




