326話「鏡の公爵」
――アダーラ・シリュウ=ギルダリア。
ザウルの口から放たれたその不吉な名が、晶潮館の大会議場を満たす静寂を凍てつかせた、まさにその直後のことだった。
ギギィ……と、議場の重厚な彫刻扉が、不意に静かな音を立てて内側へと押し開かれた。
そこに姿を現したのは、一人の老人だった。
年齢はすでに完全な老境に差し掛かっているようだったが、仕立ての良い漆黒の軍服に身を包んだその背筋は、まるで一本の刃のように隙なくピンと伸び切っていた。
急な角度を描く厳格な鉤鼻、鋭く引き絞られた二つの眼光。けれど、その厳しい目元の奥には、不思議と人を惹きつける温かな柔らかさが残されている。
けれど……その威風堂々とした立ち姿とは裏腹に、彼の体には痛々しいほどの包帯が幾重にも巻きつけられていた。軍服の隙間から覗く首筋や手首には痛々しい布が覗き、その歩みもどこかぎこちない。内臓や骨の痛みを強烈な自制心で押さえ込みながら、一歩一歩を踏みしめているのは誰の目にも明らかだった。
その痛ましい姿を目にした瞬間、私の隣に座っていたミラクが、弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。
「……お祖父様!? なぜここに……。お体はもうよろしいのですか!?」
ミラクの悲痛な叫び声。
お祖父様と呼ばれたその老人は、一度フンと鼻で笑ってみせると、立ち尽くす私やセラエナ、ギエナたちに向けて、ゆっくりと視線を滑らせてきた。
「ふん。いつまでも悠々とベッドの上で寝てなどいられんよ、ミラク。……今やこのエリダヌスも、文字通りの火中の栗。それをわざわざ、他国から命懸けで拾いに来た物好きがいると聞いてはな」
どこかおどけたような、けれど重厚な覇気を込めた一言。
「……あなたは」
私が思わず問いかけようとすると、私の言葉に先手を打つかのように、ミラクが胸を張り、真剣な声音で紹介の言葉を挟み込んできた。
「……紹介するわ、ノクティア。……この方が、元フォルナクス帝国特使であり、私のお祖父様……イザール・フレクス=セプテニアよ」
「……あなたが、セプテニア公……」
私の呟きに対し、イザール老人は静かに、けれど深くうなずいて見せた。
「いかにも。フォルナクスの裏切り者にして稀代の日和見主義者、それが私だ。……まさか、君のような若いお嬢さんにまで私の名が知られているとはな。少しばかり光栄であり、意外でもあるよ」
おどけた素振りで眉を下げてみせるイザール。けれど、そこで彼はふと視線をスライドさせ、円卓の端で体を硬直させていた男へと目を留めた。
視線の先に座っていたのは――我が特使団の頼れる参謀、ギエナだった。
「――そこにいる、老兵気取りの若い気骨であれば、私の話もよく通じるだろうがな」
ギクリ、と。
イザールの指先が向けられた瞬間、ギエナはまるで背後から矢で射抜かれたかのように肩を跳ねさせ、凄まじく強張った表情で顔を上げた。
いつもは飄々として軽口を叩いているあのギエナが、汗をだらだらと額から流し、居心地悪そうに身を小さく縮めている。
「ど、どうも……セプテニア公。ご、息災そうで何よりでさぁ……」
「ふむ。それはこちらの台詞だな、……"砂の鬣"よ」
イザールは鉤鼻を低く鳴らすと、過去の記憶を反芻するように眼光を細めた。
「いつ以来になるかな? 貴公がその知略を駆使し、私が当時率いていた連隊をまんまと罠にハメて、一網打尽にしてくれた時以来だったか」
「……っ! ま、まあ、そんなこともありやしたねぇ……。もう、三十年も昔の……若い頃の浅はかな青臭い話でさぁ……」
ギエナは完全に気まずそうな顔をして視線を逸らし、自らの耳の裏をガリガリと掻きむしった。
(……ちょっと待って。このおじさん、三十年前の大戦期に一体どんな陰湿で惨い戦い方をしてきたのよ……?)
私は隣で小さくなっているギエナの横顔をチラリと見やりながら、心の中で密かに盛大にドン引きしていた。
いつも頼もしいプロの戦術家として振る舞っているギエナだが、敵側から見れば、かつて自軍の連隊を全滅へと追い込んだ、悪魔のような智略の所有者だったのだ。
気まずい空気が大会議場を支配しかけた、その時。
イザールは豪快に胸を反らし、腹の底から朗らかな笑い声を上げ破顔してみせた。
「はははははッ! 冗談だ、冗談だよ"鬣"! 戦場でのやり取りを今さら引き合いに出し責め立てるほど、私はまだ耄碌してはおらんよ」
愉快そうに笑うセプテニア公の、深みのある柔和な表情。
その朗らかな笑顔を見つめながら、私はふと、自分の胸の奥で過去の記憶が不意に疼くのを感じていた。
(……似ている)
私の脳裏に、かつてガーランド公国の地で出会った、一人の偉大な老指導者の姿が重なって浮かび上がってきた。
前ガーランド大公――ディバルド。
数々の凄惨な修羅場をくぐり抜けてきた男としての圧倒的な深みと重厚さを持ちながらも、若い私に対してはどこまでも温かく、柔和で慈愛に満ちた眼差しを向けてくれていた、あの高潔な人物。
目の前に立つイザールの纏う空気は、あの大公ディバルドの面影と、痛いほどに酷似していた。
そして――。
その相似性を自覚した瞬間、私の網膜の裏側に、二度と思い出したくもない記憶がフラッシュバックする。
あの、ガーランド公国の激闘の夜。
"雪の女王"アダーラが、私たちの目の前へ冷酷に投げ落とした、掌よりも少し大きい程度の氷塊。
絶対零度の魔法によって凍てつかされ、苦悶の表情のまま切り落とされた、大公ディバルドの惨惨たる生首の光景。
胸が押し潰されそうになるほどの息苦しさと、冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。
目の前に立つ彼もまた、あの大公と同じように、あの"雪の女王"によって踏みにじられ、命を奪われてしまうのではないかという、恐怖が私の思考を支配しかけた。
そんな、固まって言葉を失っている私を余所に、ミラクがイザールへと向けて、心配そうに言葉を重ねた。
「それで……お祖父様。一体どうしたというのですか? 傷の具合はまだ酷く痛むはずでしょう……。今は無理をなさらず、お休みになっていた方が……」
ミラクの痛切な制止に対し、イザールは力強く、勢いよく首を横に振ってみせた。
「いやぁ、寝てなどいられんよ、ミラク。……このまま何も知らずに戦場へ送り出せば……君たちは――」
イザール公はおどけた表情を完全に消し去った。
鉤鼻の下の口元をキュッと引き絞り、その二つの眼光に、死線をくぐり抜けてきた本物の武人としての鋭い真剣味を宿らせる。
そして――静かに、けれど全員の耳の奥へと突き刺さるような重重しい声音で、こう言い放ったのだ。
「――たぶん、このエリダヌス連邦と一緒に……残らず海へと沈むことになるからな」
冷たい刃のような一言。
大会議場の空気が、一瞬にして凍りついた。
私は息を呑み――固まった体のまま、セプテニア公イザールの厳格な眼差しを、ただ固唾をのんで見つめ返すことしかできなかった。




