325話「卵の殻」
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――ノクティアたちが"晶潮館"にて円卓を囲み、ザウルから計画の全貌を聞かされていた、まさにその頃。
場所は夕闇が静かに迫るフォーマルハウト西部。
かつて連邦の警備隊や港湾警備兵が常駐していた石造りの古い詰め所において、どんよりとした重苦しい空気が漂っていた。
アケルナル――"人魚姫"が帝国の手によって強奪された後、指揮系統を完全に喪失して腑抜けてしまった人魚兵たち。彼らの代わりに街の各所から大急ぎで駆り集められた市民や警備兵といった寄せ集めの軍勢が、この詰め所の周辺に所在なげに集められていた。
そんな、冷えた石壁に囲まれた詰め所の一室。
粗末な木製の長机の向かい側で、兵士の一人――カラリスは、目の前に座る同僚の男が吐き出す不平不満の言葉に、黙って耳を傾けながら木製のスプーンを動かしていた。
「……はぁーあ。いよいよ、この街ともオサラバかねぇ。日に日に飯もマズくなってきたし、まさに敗色濃厚ってやつですかね」
同僚は口元に皺を作りながら、木鉢の中に盛られたポークビーンズ――豚肉と白いんげん豆の煮込み料理を、味気なさそうに口の中へと放り込んでいた。
エリダヌス連邦という国家は、美しく発達した水上都市を数多く抱える反面、広大な穀倉地帯や農地をほとんど所有していない。故に、豆や小麦といった穀物類の大部分は、海路を通じて他国からの輸入にその大半を頼り切ってきた歴史がある。
先の大戦期や幾度もの食糧危機を乗り越え、洗練された広大な物流網が確立された現代において、そうした他国からの恵みはあって当たり前のものとして人々に享受されていた。
目の前の同僚の男もまた、その例外ではなかった。
本来であれば、帝国の包囲網によって補給路が完全に絶たれたこの非常時において、温かい豚肉と豆の煮込み料理が配給されること自体、奇跡に近い幸運であるはずなのだ。しかし、男の言動には、食べ物に対する感謝や命を繋ぐ尊さなど微塵も感じられなかった。
(……これだから、都市育ちの連中は嫌なんだ)
カラリスは木鉢の底に残った煮豆をすくい取りながら、胸の奥で苦々しい嫌悪感を募らせていた。
元々、カラリスはエリダヌス沿岸部にほど近い、貧しい半農半漁の小さな村の出身だった。
海に近いその村では、高潮や台風が襲来するたびに塩害によって丹精込めて育てた農地が幾度となく全滅し、明日食べるものすらなく飢えに怯える日々を何度も経験してきた。
土地の貧しさを知っているからこそ、一粒の豆、一片の肉のありがたみが身に染みて理解できる。
高度に発達しすぎた商業網と流通が、人々の感覚を完全に麻痺させ、食卓に並ぶ物への敬意すら失わせている。
不満を垂れ流しながら漠然と料理を貪る目の前の同僚の姿は、カラリスにとって耐えがたい不快感そのものであった。
「……文句があるなら食うな。早く食い終われ。……きっと、新議長様の言う遷都計画とやらが上手くいけば、また以前みたいに好きなものを腹いっぱい食えるようになるさ」
「ハッ、そうかねぇ? 俺はあの新議長……あの若くてチャラチャラしたボンボンの作戦なんぞ、上手くいくとは到底思えんがね。どうせ高飛びして自分だけ助かる気だろ」
「……思うのはお前の勝手だがな。それを軽々しく口に出すな。……他の兵たちの士気が下がる」
カラリスはスプーンを叩くように机に置くと、それ以上同僚の顔を見続けているつもりはないとばかりに、勢いよく腰を上げた。
「おいおい、どこへ行くんだよカラリス? まだ夕方の見回りの交代時間には相当早いぜ?」
「……地下だ。隊長から、地下牢の施錠と構造の点検を頼まれていた」
「はぁ? 真面目だねぇ、本当。あんな薄暗いゴミ溜めみたいな場所、お前以外にもう誰も見に行ってないぜ? ほっときゃいいんだよ、どうせろくでもねぇ連中なんだから」
ケラケラと嘲笑う同僚の男の声を背中に受けながら、カラリスは逃げるようにして食堂を後にした。
詰め所の廊下の突き当りにある、冷たい鉄の扉。
壁の棚から手燭を取り出し、火打ち石でぽっと小さな橙色の火を灯すと、カラリスは重厚な扉を開けて暗がりへと踏み出した。
ギギィ……と嫌な金属音を立てて扉が閉まり、食堂の喧噪が完全に途絶える。
足元から這い上がってくるのは、湿ったカビの匂いと、海風の塩分が混ざり合った独特の冷気であった。
ひんやりとした石造りの階段を、手燭の灯火だけを頼りに一歩一歩下りていく。
カツン、カツンと靴底が鳴らす足音が、狭い階段の壁に虚しく反響した。
この詰め所の地下深くには、かつて街の治安を乱した罪人たちを臨時に拘留するための地下牢が設置されている。
人魚兵たちが健在で、街の警備が完璧に行き届いていた頃は、ここにも常時複数の警備兵が配置され、厳重な監視体制が敷かれていた。
しかし、本格的な裁判を受けるべき真っ当な罪人たちは、しかるべき手続きの後にエリダヌス領内の本格的な中央牢獄へと移送されるのが常である。
故に、現在この薄暗い地下牢に残されているのは、ごく最近、小競り合いや泥棒などの軽犯罪を犯して拘留されている数人の市民と――あとは、処分に困るような"代物"だけであった。
カラリスは手燭を掲げながら、無骨な鉄格子の一乗一乗を丁寧に確認して歩いた。
鍵穴に指を触れ、外れていないか、破られていないかを確かめていく。
捕らわれている罪人たちも、上の階のただならぬ気配と街の変容を感じ取っているのか、藁のベッドの上で小さく丸まり、死んだような目でカラリスの手燭の火を見つめるばかりだった。
静寂が覆う地下通路。
一房、また一房と点検を進めていたカラリスの足が、地下通路の最深部――突き当たりに存在する、一際大きく分厚い鉄格子で作られた特別な牢の前で、ピタリと止まった。
「――っ」
手燭の火がゆらゆらと揺れ、鉄格子の隙間から牢の内部を仄暗く照らし出す。
カラリスは思わず息をのんだ。
その最深部の牢の中には、人間は収監されていなかった。
そこに据えつけられていたのは――一基の、不思議なガラス細工の像であった。
年の頃は、十代半ばから後半といったところだろうか。
透き通るような精緻な硝子の結晶によって作られた、一人の青年の全身像。
その像は、まるで生きている人間が一瞬にしてそのまま硬化させられたかのように生々しく、その顔にはどこか人を食ったような、不気味で残忍な笑みが刻み込まれていた。
かつて、このフォーマルハウトで起きた大規模な混戦の折、街の防衛隊によって回収され、そのままこの地下深くに厳重に封印されることとなった奇妙なオブジェクト。
カラリスはそのガラス像の不気味な造形を見つめながら、首を小かしげた。
(……何故、こんな不気味な置物を、人間を入れる牢屋の中に厳重に入れておくんだ?)
元が貧しい村の出身であるカラリスには、こうした物品の価値など知る由もない。
芸術品にしては不気味すぎるし、廃棄するなら海にでも投げ込めばいい。なぜこうして厳重な鉄格子で囲い、鍵をかけて保管しているのか、彼には理解できなかった。
だが、職務に忠実なカラリスは、それ以上余計な探索を深めるような真似はしなかった。
手元に下げた重厚な腰鍵を取り出すと、鉄格子の巨大な錠前へと差し込み、カチリと回して施錠の具合を改めた。
カチッ、カチッ。
錠前は完璧に噛み合っており、鉄格子もビクともしない。問題なし。
「……ふう」
彼は安堵の息を吐き出すと、腰鍵を腰のベルトへと戻し、手燭を掲げ直した。
気味の悪いガラス像から視線を逸らすと、彼は踵を返し、冷たい地下通路を来た方向へと足早に戻り始めた。
カツン、カツン……。
兵士の足音が遠ざかり、地下通路に再び完全な静寂と漆黒の暗闇が戻ってくる。
カラリスは気がついていなかった。
彼が立ち去った直後、手燭の僅かな光すら消え去り、完全な闇に包まれた最深部の牢の中。
そこに鎮座する、あのガラス細工の青年の像。その静止した透き通る背中――本来であれば傷一つ入るはずのない、絶大な強度を誇る硝子の表面に。
チリ……。
と、耳を澄まさなければ決して聞き取れないほど極小の、不気味な音が密かに響いたことを。
手燭の火が消え、静寂が深まる闇の中で、青年のガラス像の背中に――一筋の、ごくごく細い罅が、生き物のように滑らかに走り、刻まれたことを。
この、終わりを待つ水上都市の影で。誰にも気づかれることのない地下の深淵にて、不吉な刻印は、静かに、確実にその亀裂を深めつつあったのだった。
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