322話「エリダヌス連邦議会議長」
晶潮館の静謐な廊下は、かつて私たちが初めてこの場所を訪れた時と変わらず、涼しげな光に満ちあふれていた。
天窓と透明な外壁を滑り落ちる不滅の海流が、夕暮れの斜光を複雑に屈折させ、床の石畳の上に波紋のような揺らめく光の斑点を描いている。
そんな幻想的な光景の中を、私とミラク、そして傷ついた仲間たちは静かに歩を進めていた。
けれど、私は彼女の痛々しい包帯の群れから目を逸らすことができず、意を決してその横顔に問いかけた。
「……ミラク。あなた、プレアデスを出発してから、一体何があったの? あなたはすでに、"根源"の力を身につけていたはずでしょ……? なのに、その傷は……」
「なんてことないわよ、こんなのっ」
私の言葉を遮るように、ミラクはくるりと振り返ると、早口でまくし立ててみせた。
「ちょっとしたかすり傷よ! 私たち"姫"は、自分の中の物語が終わらない限りはほとんど不滅の存在なんだから! これくらい、大したことなんてないわよ!」
そう強がる彼女の眉根はかすかに寄っており、その碧眼には隠しきれない屈辱の色が滲んでいた。
意地を張り、自分自身の弱さを認めまいとする彼女なりの強がり。私はそれ以上畳みかけるのをやめ、ただ静かに彼女の次の言葉を待った。
ミラクは一度だけ深く息を吐き出すと、視線を前方の石畳へと落とし、ぽつりぽつりと重い口を開いた。
「……ここへ来る途中、襲われたのよ。あの不快な"かぐや姫"の一団にね」
「"かぐや姫"……って、以前に話してくれた、あの因縁の"姫"……?」
「そうよ。あいつとの因縁に、今度こそ完璧な決着をつけてやるつもりだったんだけど……」
そこでミラクは酷く忌々しげに、横合いの大きな硝子窓の向こうへ視線を向けた。
そこからは、先ほど私たちが決死の思いでくぐり抜けてきた、あのフォーマルハウトの巨大な正門と、その外に広がる荒野が一望できた。
「……あなたたちも先ほど、身をもって体験したでしょう。あの地平線の彼方からの、あり得ない超長距離砲撃……。あいつに、私の決闘を邪魔されたのよ」
私はハッと息をのんだ。
先ほど、ギエナやセラエナ、そしてメロフィの命懸けの連携によってどうにか迎撃してみせた、あの流星の如き不条理な砲撃。
「あなた……もしかしてあの砲撃の正体について、何か知っているの?」
「知っているわ。あれは……帝国が誇る"姫"の一人――"スズの兵隊"の魔法よ」
「……"スズの兵隊"……? そんな童話まで、この世界では“姫”としての触媒になっているというの……!?」
「ええ。己が身を不気味な超巨大砲台へと変形させ、一度接地すれば動かない代わりに、絶対の射程と破壊力を叩き出してくる固定火力の化け物よ。……とにかく私はそいつに、あの"かぐや姫"との一騎打ちを横から邪魔されて……こんな不面目な傷を負って退くことになったのよ」
私の脳内で、敵の戦力パラメータが再構築されていく。
一度ならず二度までもミラクを苦戦させ、退かせた凶悪な戦力を持つ"かぐや姫"。そんな化け物を相手にしながら、視界の外から飛来する"スズの兵隊"の砲撃を警戒して戦うなど、どれほど優れた騎士であっても不可能に近い。
「……なるほどね。じゃあ、今のフォーマルハウトは、その二人の"姫"と、周囲を包囲している一万の帝国軍――その両方の脅威に晒されているわけね」
現状の絶望的な盤面を整理し、納得したように頷く私。
しかし――ミラクは浮かない表情のまま、静かに首を横に振った。
「……いえ。このフォーマルハウトを脅かす本当の絶望は……それだけじゃないわ」
「……え? それって、一体どういう……?」
私の疑問に対し、ミラクはそれ以上答えようとはしなかった。
ただ、彼女は晶潮館の最深部――重厚な装飾が施された巨大な両開きの扉の前で、ピタリと足を止めたのだった。
「……着いたわ。懐かしの大会議場よ。この先に、あなたたちに会わせたい人たちが待っているの」
「私達に……会わせたい人?」
「……中に入れば、嫌でも理解できるわよ」
ミラクはそうとだけ告げると、細い手に力を込め、重々しい両開きの扉を押し開いた。
広がる大空間――大会議場。
かつて、あの諸国首脳が集った“大星潮首脳会議”において、私がヴァルゴ王国の特使として初めて立ち壇に上がり、リゲルやミラクと熾烈な言論の舌戦を繰り広げた、思い出の場所。
そこは、私の記憶の中にある光景と、ほとんど変わってはいなかった。
天窓から差し込む美しい海流の光。磨き抜かれた透明な硝子張りの壁面。そして中央に鎮座する、汚れ一つない純白の珊瑚質の巨大な円卓。
けれど……私の脳裏には、この場所で起きた数々の血塗られた出来事が、鮮烈な残像となって蘇ってくる。
忘れもしない、この美しい円卓の上で起こった最初の惨劇。かつてのエリダヌス連邦議長の胸が無惨に引き裂かれ、あの"マッチ売りの少女"が宣戦布告を突きつけてきた、あの恐ろしい夜。
そして、あの"アリス・リデル"アルゴラとの死闘の舞台となったのも、他でもないこの大会議場だったのだ。
(ああ……。本当に、色々なことがあった場所だわ……)
過ぎ去りし死線の日々に思いを馳せ、懐かしさと緊張感で目を細めようとした――まさに、その刹那だった。
スッと。
会議場の奥から、誰かが滑らかな足取りで、私の目の前へと一直線に歩み寄ってきた。
身に纏っているのは、身体のラインに完璧にフィットした、仕立てのいい現代的な三つ揃えのスーツスタイル。あちらの世界の洗練されたビジネスマンを思わせる、モダンで無駄のない出で立ちをした、私よりも頭二つ分ほど背が高い長身の青年。
黄金の髪を完璧にオールバックへと撫でつけた彼は――私の前に立ち止まるや否や、胸ポケットから一輪の鮮烈な真っ赤な薔薇を取り出し、芝居がかった流麗な手つきで私の目の前へと差し出してきた。
そして、甘く響く声音で、キザに一言。
「――エリダヌスへようこそ、可憐で美しいお嬢様。よろしければ、僕の親愛の情を込めた、こちらの薔薇を――」
バシィィィィンッッッッ!!!!!
「――っつ!? 痛ぁぁぁぁぁッ!?」
青年が気障なセリフを最後まで言い切る前に、鋭い打撃音が議場に響き渡った。
横から疾風のように飛び出してきたミラクの手が、青年の完璧に撫でつけられた黄金の後頭部へと、容赦のない平手打ちを叩き込んだのだ。
「……何やってんのよ、この色ボケ坊ちゃんッ! あんた今、そんな気障なナンパなんかしてる場合じゃないってことくらい、理解できないわけッ!?」
「たたた……っ、痛いなあ、ミラク! 暴力は良くないよ! 僕はただ、遠路はるばる助けに来てくれた美しい特使のお嬢様に、最高級の礼節を尽くした挨拶をしようとしただけで……っ!」
押さえつけた後頭部をさすりながら、情けない声を上げてのたうち回る青年。
黄金のオールバックは少し崩れ、そのハンサムな顔立ちにはバツの悪そうな苦笑いが浮かんでいた。
私は突然の出来事に呆気にとられ、薔薇の花を持ったまま立ち尽くす青年と、肩を怒らせてプンプンと鼻息を荒くするミラクの姿を、パチパチと瞬きしながら交互に見つめることしかできなかった。
ミラクは呆れ果てたように深々と溜息を吐き出すと、自分の額を押さえながら私に向かって苦々しく言った。
「悪かったわね、ノクティア。……こいつが、あなたたちに引き合わせたかった人物の一人で――」
「やあやあ、改めまして!」
ミラクの言葉を強引に遮るようにして、青年は崩れたオールバックをサッと手ぐしで整えると、雲一つない真っ白な歯をニカッと剥き出しにして、輝くような笑顔を浮かべた。
そして、自信満々に右手の親指を立てるサムズアップのポーズと共に、朗らかな声を張り上げたのだ。
「僕はザウラシス。ザウラシス・アカル! 見ての通り、こう見えても現在、エリダヌス連邦議会の最高議長を務めているよ! 堅苦しいのは無しにして、気軽に"ザウル"と呼んでほしいな!」
完璧なまでのナルシストな微笑みと、爽やかすぎる挨拶。
エリダヌス連邦の命運を握る、新たな最高指導者――議長、ザウラシス・アカルとの出会いは、殺伐とした戦場の緊張感を綺麗に台無しにするような、あまりにも気の抜けた一幕から始まったのだった。




